【永禄十年(1567年)七月/八月/九月】
【永禄十年(1567年)七月】
伊達家とすぐ開戦する動機はこちらにはないが、諜報を含めた事前準備は進めている。
当主は二年前に伊達輝宗に代替わりしているが、先代の晴宗の影響力は未だに強く、中野宗時、牧野久仲らと共に実権を握っているようだ。
輝宗の本妻は、羽州の名家である最上家の若き当主、義光の妹である義姫で、そろそろ政宗が生まれる頃だろうか。
新田への対応については、輝宗は交渉の余地ありとの立場であるのに対して、晴宗は一蹴すべしと譲らないらしい。まあ、立場によって見方が異なるのは無理もない。
周辺勢力では、伊達に従属状態である大崎氏は、新田の情報になど触れていなさそうで、関東からの侵入者を撃退してやると息巻いているそうだ。
葛西氏は当主の葛西晴信が伊達寄りだが、新田の話とは関係なく、かねてより家中が混乱気味らしい。ただ、それだけに伊達支持でまとまりそうとの分析がなされていた。
小野寺も基本的には伊達側であるようで、交渉を試みるべきと唱える家臣の八柏道為との間で対立が生じているようだ。この八柏道為は、奥州連歌会のメンバーで、その影響もあるのかもしれない。
羽州の最上氏においては、そもそもが従属国人衆の独立性が高い上に、当主の最上義光が新田との連歌会での交流があったのを理由に、反発が高まっているらしい。連歌会外交に下心があったのは確かだが、相手の道を狭くしようなんて意図はなかった。ちょっと反省しなくては。
そして、隠居していた前当主の最上義守が動き出していて、揉め方が激しくなってきたようだ。ただ、手を突っ込むのはさすがに申し訳ないので、静観するとしよう。
最上義光と八柏道為以外に連歌会に参加していた武家としては、伊達家臣の中野宗時に仕える遠藤基信らがいる。他に、商人や僧侶も出席していたとのことで、彼らの立場が悪くなっていないとよいのだけれど。
【永禄十年(1567年)八月】
佐渡では土豪衆に新田流の統治法を適用したところ、一気に本庄・新田による支配体制の確立が進んでいた。
既存の豪族には災難だが、住民にとっては負担が軽くなる方向となるはずだ。平地では新田流の農業振興を行う予定で、開墾、裏作のれんげ草の作付け準備が進んでいる。また、竹細工なども見られるようなので、そのあたりも振興していきたい。工芸的な素養があるのなら、他の技法の導入もよいかもしれない。
そして、なにより鉱山開発である。疋田文五郎、栞と鉱山系要員を派遣したところ、あっさりと鉱山が見つかり、既に採掘が始まっていた。そもそも川で砂金が採れていたとの話でもある。
それを受けて、本庄繁長だけでなく傑山雲勝も大いに乗り気となり、常駐する勢いだそうだ。まあ、新田も黒鍬衆、商家の新里屋に、各種食事処の支店も勢揃いさせる勢いで、一気の定着を図っているのだが。
沿岸の直江津、岩船湊と張り合う必要はないが、佐渡は日本海交易の要衝となる可能性も備えている。交易の中継点として、また、水軍拠点としても開発していきたいところだった。
そして、武田で動きが起きた。武田信玄が追放され、義信が当主となったのだそうだ。
武田信玄は、晴信と名乗っていた若き日に、今川を訪れていた父の武田信虎の帰国を国境封鎖で強引に拒んだ過去がある。
今回はより穏やかに、領内の諏訪大社を訪ねた際に、帰路を封鎖したのだそうだ。
元の史実では、義信が自死に追い込まれたために、諏訪勝頼が武田姓に復して武田最後の当主となるのだが、現状は分家的な存在となっている。
それだけに、信玄は諏訪を根拠地として再起を期すこともできたはずだが、甲斐信濃からの退去を選択して、流浪の旅に出たらしい。息子によって、自分が父親にしたのと同じことをされたのが衝撃だったのだろうか。
諏訪勝頼は憤激し、武田からの離脱を宣言したそうだ。ただ、諏訪は上杉と境を接しており、不可侵の約定からも離脱することになりかねないのだが……、まあ、軍神殿がそれを理由に諏訪を攻め落とすことはあるまい。諏訪氏の別系統から武田系の支配から解放してほしいとの要請などが入れば、また話は変わってくるかもしれないが。
実の親である武田信玄を追放した武田義信は、今川家とは縁戚となる。妻が今川義元の娘であるので、氏真とは義兄弟ということになる。このまま今川との融和路線に向かうのだろうか。
ただ、そうなると、武田の周囲には上杉、新田、今川と、同盟を結んで間もない織田しかいなくなる。代替わりで外交関係がご破算になるのはこの時代によくある展開だが、さてどうなるか。
奥州で二正面作戦をしながら、武田と決戦というのはあまりぞっとしない状況ではある。
八丈島=マカオ船団が無事に帰着したとの報せには、毎度ながら深い安堵を覚える。今回は万里夫による和人技術奴隷の調査がテーマの一つで、結果がもたらされた。
技術者を日本に招請しようとしても、なかなか応じてくれないために、奴隷として買われた和人のうち、職人として活動中の者を買い取ろう、というのが話の発端となる。
職能相当の高値を提示され、買い取ってきた者も幾人かいた。一方で、惜しまれつつも、故郷に帰るならと涙ながらに買値で売られた者もいれば、持ち主がなんという幸運だと喜んで、盛大な送別会を開催した上で餞別付きで送り出してくれたところまであったそうだ。相手方も様々だし、関わりも人それぞれということなのだろう。
そして、携わってきた分野は養蚕、絹織物、染色、工芸など多岐にわたっていた。どうも、和人は手先が器用らしいとの評判が広まっていたらしい。
「ただ、買い取ってきた中には、新田で働きたいと言っている者も多いのですが、故郷に帰りたがっている者もおりまして」
万里夫の説明は慇懃だが、ややこちらを窺う気配もある。付き合いが浅いから、そこは致し方ない。
「そりゃ、そうだろう。買い戻しは、あくまでも日本に連れ戻すための方便だ。希望は尊重して、送り届けてやってくれ」
「高値で買ってきた中にも、帰郷を望む者がおります。よろしいでしょうか」
「もちろんだ。無理やり新田のために働かせるために彼らの身柄を買ったわけじゃない。そこは徹底してくれ。……指示を捻じ曲げるなよ。連れ帰ってきた船代を含めて、一銭も受け取るつもりはないからな」
「承知しました」
深々と一礼したからには、騙して強制的に新田の下で働かせるつもりだったのだろうか。この人物は有能なのだが、やや手段を選ばないところがあるように思える。だが、一時的な利益よりも、奴隷回収事業の方向性が捻じ曲がることの方が怖い。
どこかでもう一度そのあたりの話をしなくてはなと思っているうちに、話は他の報告へと移っていた。
派遣された語学スキル持ちのうち、特に料理人と給仕は、耕三と小桃の指揮下に入って、既に活躍中とのことだった。
今回の目玉商材となる干し桜えびは、狙い通りに大人気で、幾らでも持ってきてくれとの要望を受けたそうだ。
継続的に日本から持ち込んでいる商品の売れ行きも好調だが、食事処もまた繁盛しているという。マカオと本土の間は自由に往来できず、商人や担当の役人以外は立ち入れないはずなのだが、なにやら貴人や高級軍人、豪商らしい者達の姿も見受けられるだとか。
一方で耕三は現地の料理も吸収し、幅を広げているようだ。小桃もまた、シャムなどの言葉に加え、広州以外の方言も習得しつつあるらしい。必要に応じて亭主的に振る舞ってくれているそうで、本当に得難い人材である。元々素質があったのか、環境によって磨かれてきたのか。
いずれにしても、マカオへの船団は順調であるようだった。
【永禄十年(1567年)九月】
南奥州を束ねる青梅将高から、手負いの武士を救助したとの一報が入った。その人物は、岩松守純が奥州連歌会で交流していたうちの一人、小野寺家臣の八柏道為だった。
新田に通じているとの讒言を受け、誅殺されそうになったところを危うく落ち延びたそうで、こうなったからにはと伊達領内を通り抜け、頼ってきたのだそうだ。その間は、連歌仲間の僧侶に袈裟を借りて、修業僧の振りをしてきたらしい。
ステータス的には、軍事A、智謀A+と、史実で最上義光を手こずらせた実力が反映されている。歓迎ではあるが、まずは傷を癒やすのを優先してもらうとしよう。
伊達とはにらみ合いが続いているが、現状では開戦の気配はない。当主の輝宗と先代の晴宗の綱引きがまだ続いているのだろうか。
一方で、交渉を持ちかけてくる気配はない。こちらからは、奥州鎮撫に協力してほしいとの使者は出したのだが、黙殺されてしまっている。
まあ、今年はこのまま冬季の自然休戦に向かうのかもしれない。
北奥州戦線でも、当初こそ受け身の戦いを余儀なくされたものの、だいぶ押し戻している状態のようだ。ただ、こちらも雪の前に決着とはなりそうにない。まあ、関東で揉めごとが起きない状態で二方面での対峙を進められているのは、いい状態なのかもしれない。
織田家に戻った陸遜からは、無事に復帰できたとの連絡が入った。本人が病だったのは仕方ないにしても、軍勢は戻せたのではないかとの問い掛けはあったそうだが、危地へと送り込んだとの自覚があるのか、深い追求には至らなかったらしい。よかったよかった。
新田との縁が深まったことから、通商を盛んにするように求められ、知多の東で加増があったというのだが、信長の妹であるお犬の方を跡継ぎの正妻に迎えている佐治氏との棲み分けはどうなるのだろうか。
まあ、織田の水軍の一翼を担うはずだった九鬼嘉隆を新田に招いてしまっているわけなので、その穴を佐治と楠木で埋める形になっていくのかもしれない。今後、伊勢から紀伊、上方へと織田水軍の活躍の場は広がるはずだった。