【永禄十年(1567年)三月/四月】
【永禄十年(1567年)三月】
忍者による探索と、阿南姫が集めた情報が一致し、岩城の当主である岩城親隆が監禁されていることがほぼ確実となった。現状の岩城の差配は、佐竹出身の親隆の妻、梅姫が取っているらしい。
家臣や豪族衆が梅姫を担いだのか、あるいは蘆名、佐竹からの働きかけがあったのか。いずれにしても、岩城は敵方に回ったと考えてよいのだろう。
石川も、どうやら新田戦の準備を始めたようだ。個々の戦力はさほどではなくても、石川、田村、岩城に一致して決起されると、やや面倒ではある。
一方で、二階堂領と白川城域の田植えに向けた、肥料四天王の準備も進めている。戦乱に巻き込まれる可能性もあるが、それでも米作りは進めておくべきだろう。
そして、結局のところ、松平家康は家臣団のうちの希望者を連れて、関東へ逃れる決意をしたのだった。
武田信玄が松平の主力を討滅せず、西三河の制圧を進めている理由は不明である。信長と何らかの密約があるのか、松平にとどめを刺さない方が、織田の東進を抑制できると見ているのか。
いずれにしても、家臣団主力の家族や有力者が浜松への移住を進めていたことも、決断の一因となったようだ。
尾張に向かう選択肢もあったのだが、徹底抗戦して武田の力を削ぐように期待されていたとしたら、今後の扱いが厳しくなるかも、との考えからだったようだ。
まとまって客将軍団として扱うと伝えたら、北条同様の臣従軍団としてでかまわないとの答えが返ってきた。
そこはおいおいと濁しておいて、ひとまずの彼らの行き先は香取海の北岸、旧佐竹領へと定まったのだ。
松平家臣団及び、領民からの移住希望者の退避計画を進めつつ、蘆名戦の準備が進んでいる。
その一環として、相馬家との接触が行われた。海から使者を送り込むと、帰りの船で相馬盛胤、相馬義胤の当主親子がやってきた。いかにも武辺の者という印象の二人は、髭面にやや硬い表情を浮かべている。
彼らとしては、蘆名、伊達と組んで新田と戦うつもりはないが、一方で新田に従うつもりもないと表明した。敵かもしれない陣営にやってきて、そう明言するのはなかなかに清々しい振る舞いである。そして、新田に一定の信用を置いてくれているのだろう。ここは、真摯に応えるべきと思えた。
「承知した。新田と、その友好勢力を攻めない限り、こちらからは攻めない」
やや表情を緩めた二十歳の息子に対して、当主の盛胤は厳しさを保っている。
「どこが新田の友好勢力か判断できませんが」
「なるほど。攻められて困るところは、連絡しよう。その前に仕掛けていたのなら、問題視はしないと誓う。いかがか」
「誓紙をいただけるか?」
「ああ、問題ない。……ただ、誓紙を書くのは初めてだな」
俺の言葉に、髭の父親の方が目を丸くする。
「なんですと……? 上杉と盟約を結び、武田、上杉と三国不可侵を約し、今川に攻め込む際にも協約を結んだと聞いておる。その過程で、一度も書いておられないと申されるのか」
「軍神殿とは、誓紙も人質の交換もしていないな。武田との三国不可侵は、実際には上杉が武田を押し込んで、現状を確認した状態だったからなあ。今川は……、新田が圧迫する側だったし。あ、いや、だからといって誓紙を出したくないわけではありませぬぞ。そして、交わす以上は、必ず守りましょう」
「そうですか……」
相馬盛胤は、やや毒気の抜かれたような表情をしていた。
縁側での茶会に案内して、緑茶と大福でもてなすと、二人ともおっかなびっくりであった。
「これが、噂に聞く茶の道というものですかな?」
「いや、これは茶道とは別の、純粋に楽しんでいただくためのものです。茶道は、畿内では盛んなようですな」
千利休によって、ひとまず完成される形となる茶道だが、この時代にはもう少し緩やかなものであるようだ。千利休……、田中与四郎は、現時点では零落した生家を再興させる形で三好の御用商人となり、手広く商いをしているはずだ。
後年の暗さを備えた茶道は、生家の零落と、御用商人として取り入った三好の繁栄と没落、次の標的とした織田信長の天下に手をかけた状態での横死といった、自らの波乱に満ちた体験を反映させたものと思われる。さて、この世界では、茶道を誰がどのような形に導いていくのだろうか。
「この菓子は、夢のような味がしますな」
無骨な印象の相馬義胤が目をつぶって楽しむさまは、なんとも微笑ましい。大福御前に供するため、最初に俺が試作したものとは完全に別物にまで進化している。あんこの滑らかさは、感嘆ものだった。
どうも、関東の諸勢力よりも、すれてない……という表現が妥当かどうかはわからないが、より純粋な状態にあるようにも思えた。この相馬もまた、何代も伊達からの血が入っていながらも、伊達との抗争を続けているわけだ。血よりも家の方が強いという実例でもある。
俺は、二人に問いを投げてみた。
「もしも、周囲の国が攻めてこなくなったら、相馬殿はどうされますかな」
「それは……、夢のような世界でござるな」
応じたのは相馬義胤の方で、当主の方はやや油断ならない表情をしていた。
この時代、隣接勢力に隙があれば仕掛けるのは、むしろ自然な振る舞いとされる場合も多い。実際、これまでも攻めて攻められてきたのだろう。
そう考えると、関東での佐野氏や千葉氏にしても、さらには白河結城も含めて、油断すべきではないのだろう。攻め込んでくれば、討ち滅ぼすことになるわけで、互いが不幸になると考えれば、各所に一定の防御力を備えておくべきなのかもしれなかった。
【永禄十年(1567年)四月】
松平勢の関東への移入は、特にトラブルもなく進められた。一時収容のための仮設陣所が設置され、炊き出しも行われている。
そして、いきなり近隣の農地に送り込むのもややこしくなるので、農民の希望者には開墾手伝いを頼むことにした。もちろん、有給である。
彼らからすれば、故郷を離れてみると、食事は出るわ働けば手間賃がもらえるわで、だいぶ表情も明るくなったようだ。まあ、落ち着き先を考えるとなると、色々とややこしくなるのだが。
楠木勢については、厩橋に招いて交流を進めることになった。厩橋城ですっかりリラックスした陸遜が、三日月に蹴飛ばされたのはまた別の話となる。本当に、二人とも自由人だよなあ。まあ、相手は選んでいるのだろうけれど。
かつての交流の際にも互いの知識を交換したが、今回は武将の能力や技術について、より深く洗い出しを行うことにした。陸遜の所領の規模が小さいので、こちらが一方的に得をするようでもあるが、俺の方が各勢力の流れを把握していて、役立ちそうだと喜んでもいた。
そして、春日山城で上杉勢と蘆名攻めに関する細かな相談を詰める裏で、佐渡侵攻が実行に移されることになった。……まあ、両方とも重要である。
上杉方からの参加者は、本庄繁長単独となっている。かつて軍神殿が話していた通り、水軍に興味を示したのが一人だけだったのと、新田との関係性も影響しているのだろう。もうひとり、縁の深い長尾藤景は越後全体の殖産担当大臣のような立場になりつつあり、蔵田屋親子と連携して越後国内を飛び回っているようだ。
海賊行為を行う相手に、宣戦布告する必要もない。夜明けと同時に湊に押し入った船団から、軍勢が進発した。人の乗降がスムーズだったのには、先日の松平勢移送で培った動きが参考になった面もありそうだ。
佐渡の本間氏は、本家が雑田本間氏で、河原田本間氏、羽茂本間氏もそれぞれ城を持って断続的に抗争を繰り広げているようだ。
新田の主将は青梅将高で、本庄勢は繁長自身が率いている。軍事S同士の共演で、兵力的にも優勢とあっては、事故が起こる可能性は低い。
本気の侵攻に、奇襲を受けた形となった城が次々と陥落していく。現状で最大の勢力を持つ羽茂本間の主城、羽茂城の攻略こそ翌日に持ち越したものの、それも夜通し大砲を射ち込んだからには、惨憺たるありさまでの降伏となった。
海賊働きなどしていないとの申し開きが行われたそうだが、実際には潜入した忍者によって、少なくとも雑田本間は関わっていると調べはついている。海賊の実行犯と解放された商人に対面させられ、当主らは崩れ落ちたという。
本間の三氏族の主だった者たちは直江津に移送され、詮議が行われる形となった。海賊働きに関わっておらず、本庄と新田の共同統治を受け容れる者は、解き放つ予定である。
本題の蘆名についての話の前に、軍神殿からは能登を追われた畠山氏を援助したい旨の相談があった。
「……それは、持ち出しで援助のみするということになりますかな? 一部から「都合のいい軍神」などと呼ばれているのはご存知でしょうか」
後段は俺の創作だが、思い当たる節があったらしい。
「正統な統治者を回復させるのは、意味があるではないか」
「戦国が煮詰まりつつあり、下剋上が頻発する世の中で、当初の正統にどれほどの意味がありましょう。関東の状況もそうですし、越後にしても……」
そこで、越後の龍が少し傷ついた表情をした。軍神殿の出身の長尾家は、越後守護代の家系となっている。守護だった上杉家からの権力の移譲についての見方は色々あるようで、義輝には認められていたにしても、誰が将軍になるかで覆る可能性はあるのだった。
だが、ここで心の傷を抉っても意味がない。少し話を逸らすとしようか
「動員する以上は、配下の皆への目に見える形での還元が必要となりましょうな。所領でも、金子でも、芸術品でも」
「感状では足りんかのう」
先日の問答で、産業振興で得た資金を諸将に配分する件に納得したかと思っていたのだが、まだ完全ではなかったらしい。
「足りませぬな。輪島湊くらいは貰い受けて、そこからの収入を分配するくらいはしていただきたいところです」
「護邦殿の物言いは……、藤景が二人になったように思える時があるな」
「それは……、失礼致した」
頭を下げると、端正な顔に苦笑が浮かんでいるからには、深刻な話ではなさそうだ。
そして、史実での長尾藤景に対する、間違った意見をする誅殺すべき存在、だったと思われる認識が、一定の理がある諫言をしてくる疎ましい存在、くらいまでは変わっているようである。いい傾向だと言えるだろう。
春日山城での滞在中に、上杉家中での調整が落着したようだ。軍神殿と重臣らだけで決めるのではなく、国人衆の意見までも聞き取るというのは、これまでとは大きく違う方向性となる。
蘆名攻めに難色を示す軍神殿とその周辺に対し、これまでたびたび仕掛けられてきた国境付近の揚北衆らが、介入を強く求めたという状況だったらしい。そして、要望をつないだのは、河田長親、鯵坂長実、吉江資堅らの近習勢出身の家臣だったそうだ。
新田の作戦案の開示を求められたので、青梅将高から説明させたところ、参戦が本決まりの流れとなった。確かに、会津地方への侵攻とタイミングを合わせて、西から攻め込んでもらえば非常に効果的である。
参加するのは、斎藤朝信、長尾藤景、本庄繁長という馴染み深い顔ぶれに、揚北衆の面々の名前が並んだ。彼らには、越後から山越えで会津盆地に出た周辺を押さえた上で、以降は自由に動いてもらう形となる。確保した土地は尊重するが、最終的には事後に相談しようとの話にしてある。
会津盆地への突入時期は五月十五日と定められた。
武田は、浜松城を陥落させたそうだ。無人だったわけではなく、松平家臣の残留組が入って、形ばかりの抵抗を行ったらしい。
その上で武田に降伏した方が、待遇が良くなるという考えらしいのだが、そうなんだろうか。血祭りにあげられる可能性もあるような。
まあ、現状で新野城より西がどうなるかには、あまり関心はない。武田が今川に侵攻を始めたら、そして、今川が臣従してくるようなら、やや話は変わってくるのだが。
武士は土地に根付いているとされる現状で、松平家康が選択した道は、普通ではないだろう。さすがは史実で天下を取った柔軟性、といったところか。もしかしたら、駿府で同じ時間を過ごしたらしい北条氏規の臣従が影響しているのかもしれない。
武田の矛先は、織田に向かうのか、あるいは今川にか。海を得たことで水軍の養成に意識が行ってくれると、周辺が少し穏やかになりそうなのだが。