【永禄十年(1567年)一月/二月】
【永禄十年(1567年)一月】
俺がこの時代に出現してから、七年半程が経過している。肉体年齢二十一歳なわけだが……、六歳の娘を筆頭に五人の我が子がいるのが、正直信じられない。
まあ、それは元時代との感覚の差として割り切るしかないだろうが、内政面でも七年余りの影響は大きく出てきていた。
新田領に組み入れられたタイミングはそれぞれ違うが、関東の北西の隅にあたる箕輪、厩橋、和田の辺りは、ほぼ七年半丸々、平和な時間を享受している。
農業振興は新田主体だったが、最近は休泊機関に自発的に相談に向かう村も多いようで、独自の取り組みを行ってもいるらしい。成果が出れば、大谷休泊経由で情報共有はされるので、どしどしやってほしいものだ。
いずれにしても、副作物や手仕事の産品の買上げ効果もあり、領内の農村の購買力は上がってきている。新田永楽も、明から買い入れてきた永楽通宝も、領内では問題なく流通していた。
銅貨の流通については北奥州でも同様で、日本海を北上する商船隊や、伊豆、小田原、駿府辺りと交易する商人によって、畿内で敬遠されている明銭が東方に移動しつつあるようだ。現状では、新田が突出して価値を認めている状態なので、無理もない流れだろう。
また、農村以外の動きとしては、これまでだと事業会社は高利貸しを前身とするところが主体だったのが、通商をもっぱらとしていた商人や、戦場向けの兵糧供給を手掛けていた者たちも参入するようになってきている。
新田としては、特に許可制ではないものの、届け出れば支援し、ただし二十分の一税を徴収する、という対応を取っていた。一方で、座のような参入規制の設定は禁じている。
旅籠を手掛けたいという者には、用地配分や建設で助力をし、香取海で定期航路を設定したがった商人には、古い櫂船を譲り渡した。ものづくりの方でも、多くの土地で座が有名無実化した影響で、酒やら味噌やら乾物やら、様々なものを手掛ける企業が現れつつあり、ある程度の便宜は図るようにしていた。
香取神宮の下部組織として香取海の漁民を束ねていた一族は、養殖と漁を引き続き行いたいと言ってきたので、漁民に充分に還元するようにと言い含めて奨励対象とした。一方で、独占とはさせず、新田直営を含めた他の勢力も参加させ、競争を促しつつ、人も流動しやすくするとしよう。
参入事例を印刷して、各地に掲示するのもよいかもしれない。元手がないけれどやりたいことがある者は、新田に申し出るようにと働きかけてみようか。興味を抱いた起業家候補が現れてくれれば、とてもいい展開になるのだが。
【永禄十年(1567年)二月】
忍者を送って連絡を取り合っていた陸遜……、いや、織田家臣の楠木信陸から、救援要請がもたらされた。援軍に出ていた松平領で、西方が武田に塞がれて、陸路では逃れられない状態に陥っているそうだ。
その状態で、武田勢は松平領の攻略を進めているようだ。陸遜からは、これが新田に攻められてるなら降伏を勧めるんだけど、武田相手じゃねえ、との慨嘆が伝言でもたらされた。確かに、どんなひどい状態になるのか予測がつかない。改めて聞き取ると、かつての北信濃侵攻時の所業はひどくきついものだった。
海路で退去するにしても、船の確保もままならず、武将達だけ逃げるわけにもいかないというので、俺は船団を率いて三河へと向かった。武田は念願の海に面した領地を獲得しているが、さすがにまだ水軍整備は途上である。
呼び寄せた新田の八丈島=マカオ船団の船が主体だったのだが、外見からすれば南蛮船である。新居湊への入港の際にひと悶着あったが、いずれにしても浜松城で会見が持たれた。
この浜松城は、武田が新田の西進を阻止した際には、飯尾氏が曳馬城として領有していた城だった。その後、武田の主力が甲斐に戻り、飯尾氏が今川に謀反を疑われて討たれた際に、松平が確保したようだ。
武田と松平はこれまでは明確に敵対はしていなかったのが、西方遮断によって情勢は一変している。新田の西進を止めたことで、封鎖戦略に目覚めたのかもしれない。だとしたら、松平には悪いことをしてしまったか。
浜松城に主力を向けていたところで帰路を塞がれ、本領が制圧されつつあるというのは、きつい状況であろう。
「お初にお目にかかる。新田護邦と申す」
「松平家康と申します。このたびは、どのようなご用向きですかな」
史実では、後に徳川幕府を開いた偉人ではあるが、この段階ではまだ二十四歳である。幼少の頃から今川の人質になったり、織田の人質になったりしつつ、桶狭間の前哨戦では武功を上げながらも、今川義元が討たれるや独立を志向したわけで、既に人生経験は豊富であろう。
まあ、二歳年下の俺が言うなって話ではあるが。
「ご家族や領民、あるいはご自身も退去させるおつもりなら、船を用意しようと思いましてな」
「逃げろと言うのか」
目を瞋らせて応じたのは、本多忠勝である。十九歳だが、既に三河一向一揆鎮圧を含めて活躍しているはずだ。ステータス上も、猛将ぶりが窺える。
「控えよ、平八郎」
「なに、かまいませんよ。逃げるもよし、留まるもよし。武田に決死の抵抗を試みるのも、また三河武士の生き様かもしれんしな。当方は、選択肢を示しているだけだ。好きな道を選べばいい」
再び口を開こうとした忠勝を、隣の榊原康政が制する。さすが、同い年なだけあって、分かり合う部分があるのだろう。
そんな二人の背後には、こちらも後代で徳川四天王の一人に数えられる酒井忠次が控えている。三十九歳のこの人物は、駿府に人質に向かった時代から仕えている、若手の多い家康家臣団ではまとめ役的な存在のようだ。四天王のもう一人の井伊直政は、まだ幼少のはずだ。
「……家族だけの退避も、お認めいただけるのか」
絞り出すように声を出したのは、家康だった。少しふくよかではあるが、まだ狸親父という感じではない。
「もちろん。尾張に送るなり、駿府に向かうなり、行く先は選んでいただいてかまいませんぞ」
「見返りがありませんが」
「陸遜……、いや、楠木殿を救出したい。そのついでですな」
腕に添えられていた僚友の手を振り払って、たまらずといった風情で声を上げたのは忠勝だった。視線の先には、楠木信陸の姿がある。
「援軍の身で、逃げると言うのか」
「でもさあ、松平の本領が制圧されつつあるのに、信長様は西から攻め込んでいないわけだし、事実上は見捨てられた状態だよね? ここで死ぬのも、ぞっとしないからなあ」
「なんだとっ」
忠勝の口を康政が押さえようとするのに、酒井忠次も参戦した。本気を出せば振りほどけそうだから、理性はまだ残っているのかもしれない。
そちらに視線をやって、若き家康が口を開く。やや疲れたような風情が漂った。
「正直ですな。……少しお時間をいただけるか」
「家の大事について、即断しろと言うつもりはないさ。このまま待ってもいいし、時間を置いてまた来るのでもかまわない。その場合には、ざっくりとした人数を知らせてもらえると助かるが」
「どのくらいまで運べるものですかな?」
「近場であれば、……例えば新田の相良湊までなら、一往復で五千くらいは。天候次第だが、一日に一往復半はできると考えれば……」
「十日で七万五千人ですか」
さすがは家康、頭の回転が速い。
「それより、あー、楠木殿。どうして、織田からの援軍が単独なんだ? 同盟中なのにおかしいだろ」
「うーん、最近どうも信長様に疎まれてるみたいなんだよね。独身を貫いてるからかなぁ」
「縁談があったのか」
「うん、お市ちゃんとどうかって言われたんだけど……」
「お市の方と? どうして断ったんだ」
「ぼくにも事情があるんだってば」
平然とした口調に、迷いは感じられない。いや、だけど、それは一門衆的立場になれと言われたのを断ったことになるのでは……。偏諱の件もそうだが、かなり重用されているようなのに、飄々とした様子がそれを感じさせない。
「それはまあ、疎まれるか……」
「松平への援軍は左遷先でしたか」
家康も、なにやら情けなさげである。
「まあ、そうとは限らないけどね。さすがに今回の事態は予想外だったかもしれないし」
援将の表情に暗さはない。いいのか、それで。
「……で、退去となったら、信陸は尾張に送ればいいのか?」
「松平殿の決断次第だけど、退去するなら、行き先は関東がいいな。怪我でもしたことにしてさ」
「いいのか?」
「出奔するつもりはないけど、冷却期間は必要でしょ。あ、でも、家康殿が討ち死に覚悟で失地の回復を目指すなら、最後まで付き合って、そこから自力で落ち延びるからね」
死ぬつもりはまったくないようで、頼もしい。
「まあ、なんにしても、船の一隻くらいは置いていくよ」
「助かるよ」
松平家の方針決定には時間がかかりそうで、新田の船団は後日出直すことになった。
香取海経由で白川城に向かうと、二階堂の阿南姫から、気になる情報がもたらされていた。彼女の兄である岩城親隆と連絡が取れなくなったというのである。
急な病かもしれないけれど、と言いながらも、この情勢下である。嫌な予感を共有することになった。
そして、相前後して田村が反新田の方針を固めたとの探索結果が入ってきた。これまでだいぶやりあってきた蘆名と結ぶからには、なんらかの取り引きがあったと思われる。
まあ、旗幟を鮮明にしてくれた方が対処しやすい面もあった。