【永禄九年(1566年)八月】その二
【永禄九年(1566年)八月】承前
翌日には、今上との謁見のために御所に召し出された。ここはまあ、無難に凌ぐことを目指すしかない。着慣れぬ装束を身に着けて、光秀に教え込まれた通りに振る舞っていると、主上の前へ誘われた。
関東鎮撫についての称賛と、大嘗祭への資金供出の件、それに蜜柑とのかつての対面についてもお言葉があった。
かしこまって拝聴していると、褒美を取らせるが、希望はあるかとの問いがあった。質問が来るとの話は聞いていない。周囲を見回したが、特に制止する者もなかったので、願い出てみることにした。
「お言葉に甘えまして、一点お願いをば。南蛮商人へ和人を奴隷として売り渡すことを禁ずる命令を出していただけないでしょうか」
「和人が、南蛮に売られているというのか?」
これまでの口調と明らかに異なっていたのは、よほど意外だったのだろうか。
「マカオで調査した者によると、西国……、特に九州の者が多いようです。できれば、関わった商人、南蛮船は討滅を許していただければ」
「よかろう。……そなたには関東だけでなく、洛中にも安寧をもたらせてほしいものだが」
「不可侵同盟を結んでいる武田、上杉に近畿への行く手を塞がれております。双方に、上洛を促していただくというのもありかと」
「あの者達は、むしろ幕府との繋がりが強いのでな」
「新たな将軍宣下も間近と聞いております。その邪魔はしないようにしたいものです」
「ふむ。……それで、古河公方はどうなったのかの?」
「足利藤氏殿は行方知れずです。義氏殿でしたら、奥州に入って、反攻の機会を窺っているようです」
「新田家は、奥州では、北畠と手を結んでおると聞くが」
「奥州の最北部に通商向けの根拠地を確保するだけのつもりだったのですが、いつの間にかそのようなことに。北畠顕村殿と、それに大浦氏と共に奮闘しております」
なんだか普通の会話になってしまっているが、よいのだろうか。
そのまま退席すると、関白殿が走ってきて説教された。どうやら、褒美は具体的に何かを求めたりはせず、お任せすると応じるのが正解だったらしい。なんだよう、言っておいてくれよう。
その日の戌の刻が過ぎた頃に、俺は奥州鎮撫を命じられた。そして、鎮守府将軍に任命って……、北畠顕家かよ。やはり南朝方扱いということか。
あいさつを終えた以上は、長居は無用である。なにしろ、ここは他家の勢力圏である。
そう要望を出したところで、なにやら家臣団が慌ただしくなってきた。通りかかった今回の仕切り役に、声をかけた。
「よう光秀。色々と画策してくれたみたいだけど、最後になにか仕掛けてるのか?」
「なにも企んでなどおりませぬが、どうも三好の動きが怪しいらしいのです」
「捕縛に来るって感じか? 敵対する気はないんだがなあ」
「鎮守府将軍への任官話が漏れ聞こえたのかもしれませんな」
「一応、次の将軍を擁立しようとしているわけだから、秩序を乱す存在は目障りなのかな」
史実通りなら、この後の三好氏は織田信長に押されて落ち目になるわけだが、今回はどうだろうか。古河公方とされていた足利義氏を放逐したためか、将軍後継候補のどちらからも新田には働きかけはない。いや、実際には家臣への打診的なものは届いているようなのだが、様子見をしている感じか。
どちらの陣営からでも、普通にあいさつをされれば、友好的に返礼するつもりだったのだが。
「囲んでしまって、有利に交渉しようということかもしれませぬ」
「義輝の暗殺も、強訴しようとして勢い余っただけだとの見方もあるみたいだな。対応は考えないと」
「ええ、逃げましょう」
「だな」
そこで、光秀が声を低めた。
「実は、伊賀と甲賀が人数を出してくれています」
「ん? 依頼してたのか?」
「いや、それが、伊賀者の藤林文泰、甲賀者の高峰数信、多岐光茂らがそれぞれ故郷に働きかけたようでして」
「ほほう」
「さらには、長老からも、脅しめいた依頼が届いたらしく……」
「蝶四郎と鳩蔵か」
伊賀の蝶四郎は、百地三太夫の父親らしいとの話もあった。
「では、従者らは別に逃しますので、殿は剣豪組と先行されてください」
「承知した。甚助、頼むぞ」
「はっ」
頼りになる警護役なのだが、剣豪に張り付いてもらっていると、本人の武芸者としての活動ができないのではないかと心配になってしまう。
もちろん、待機中などに修業はしているし、門人的存在に稽古は付けているようなのだが、道場を開かなくてよいものなのか。
まあ、もうちょっと年齢を重ねてからの話なのかもしれない。ただ、警護で居合の術を磨いている林崎甚助はともかく、軍師として活動している諸岡一羽などは、道場を開いても客層がだいぶ変わってきてしまいそうでもあった。
関白殿下が囮的な動きで洛中を散策している間に、俺はどうにか京を脱出した。
脱出経路は、俺は近江から北の海路を目指し、他に従者を幾つかの集団に分けて、堺方面、伊賀方面、甲賀方面、大和方面に向かわせたらしい。光秀からは、どれかをわざと捕らえさせたりはせず、総てを全力で逃がすとの言質は取っている。
疑われた光秀は、殿を騙すのは危急の時だけです、と平然と言ってのけた。やはりなかなかの人物である。
街道を急ぐ際に、同じ方向に動く人々の多くが忍者だったと知ったときには驚いた。伊賀、甲賀とも新田に移住している一族からの要請もあり、依頼抜きで護衛を買って出てくれているらしい。この恩はなにかで返さなくては。
強行軍の中で、道中の坂本で一息入れることになった。比叡山延暦寺の門前町として栄えている淡海の湖畔にある町となる。この段階ではもちろん、信長による延暦寺の焼き討ちは行われていない。
徒党を組んだ僧兵が我が物顔で歩いている状態は、関東ではなかなかお目にかかれない。畿内が栄えているから得られるものが多く、戦乱からそれを守るために力を得たというところだろうか。
延暦寺の他では、大和の興福寺、春日大社、一向一揆を指揮する本願寺などが、大きな力を保持している。自前の武力を保持しているところもあれば、豪族衆を参加に従えている場合もあり、態様はさまざまとなる。そう考えれば、関東の鹿島と香取の両神宮も、小規模ながら同様な動きだったとも言える。
力を得れば使いたくなるのが人情で、なかなかの傍若無人ぶりだった。弓巫女を悪用している俺が言うのもなんだが、神輿を押し立てて攻撃するのをためらわせ、要求を押し通すというのは、なかなかに悪質である。
高利貸しとしての活動も活発で、かつて出された室町幕府による利率の制限など忘れ去られているようだ。
世俗勢力としての振る舞いも、高利貸しとしての動きからも、関東に同様の寺社が存在していたら、早々に討滅対象にしていただろう。史実の信長は我慢した方だとも思える。
単純に近畿に勢力を伸ばすだけなら、軍神殿を説き伏せて、共に西進する手も考えられる。将軍位がどうなるかの話にもよるが、現状であれば朝倉と組んで義昭を擁立する選択肢もある。
ただ、そうして近畿に飛び地的な所領を得たところで、中央政界の論理に巻き込まれるだけとも言える。
そして、京で新田のやり方を貫き通したら……、軍神殿も朝廷も、俺に対する態度は一変しかねない。
総てを覆すだけの覚悟がないままでは、迂闊に足を踏み入れていい土地ではないのだろう。
坂本を出立する支度を整えて、船着き場に向かう。俺は、淡海の水面を眺めながら、ふと呟いた。
「鎮撫って言っても、奥州勢からすれば大きなお世話なんだろうなあ」
関東制圧についても、同様のことが言える。これまでは生き残ることを目指して、ただ走ってきた。こう考えてしまうのは、息切れしてしまっているのだろうか。
隣で同様に水面にきらめく光に目線を向けた光秀が、ゆったりとした口調で応じてきた。
「関東では、人が穏やかに過ごせるようになりました。その平和を広げる意味はありましょう」
伊達や蘆名が勢力を持つ地域が平和ならばともかく、現状は争乱が続いている。確かに、意義はあるのだろう。
「俺にできるのかな」
「殿以外のどなたにできるでしょうか」
「そういう物言いはやめてくれ。俺は、ただ神隠し前の知識を利用しているだけの、ただの人間だ。盲信されては困る」
「はい、心します。……実は、かつて殿が今川の海岸部を得て、西への道を確保しようとされていたとき、お止めするべきではないかと思いながらも、殿が未来を見通しておられるのかもと考え、躊躇してしまいました」
「多くの者を死なせた。あのとき、滅びなかったのはたまたまでしかない」
「はい。あそこから、将高殿や道真殿と議論を重ね、どうあるべきかを考えました。怠慢でありました」
「いや、よくやってくれている」
「殿も……、より慎重になられたと存じます」
俺は変わったのだろうか。単に史実の通じない局面が続いたから、手探りになっていただけで、本質は変わっていないのかもしれない。蜜柑などにこんな話をしたら、護邦は護邦じゃ、と笑い飛ばされそうだが。
「……ただ、裏で手を回すのは勘弁してほしいんだがな」
「なるべく控えるとしましょう」
この光秀は、やはり頼るべき存在なのだろう。たまにイラッとするが、それもまた必要なのだと思う。
史実でのこの人物は、何を思って本能寺で主君を討ったのだろうか。信長を討ったところで、天下が取れるはずもない。その後のあがきは、何を隠すためだったのか。
ただ、目の前にいる光秀にどう訊いても、その答えが得られることはありえない。
そう、史実は既に大きく塗り替えられている。この世界で、俺は自分の道を歩いて行こう。多くの信頼する人々と一緒に。
「北へ……。そして、軍神殿とも相談するとしよう」
奥州と所領が隣接する上杉とは、色々と調整が必要になりそうだ。
「まずは、厩橋まで無事に戻りましょう」
「ああ。京は刺激的だったが、やはり厩橋が落ちつくものな」
目線を上げた俺の視界には、蒼さが濃い東の空が収まっていた。
ここまでが第四部となります。お付き合いいただき、まことにありがとうございました。
以下、完結後のご案内です。
最後となる第五部なのですが、作者の技量、構想力の拙さから、多くの方から否定的なご意見を頂戴しました。
終盤での盛り上げる意図だった要素や、テンポアップの加減、文量、内容自体も含めての話となっております。
それを踏まえて改稿を検討しているのですが、目処が立っていない状態です。
一方で、一旦公開したものですので、こちらはそのまま残して、改稿は別サイトや別の形とさせていただくかもしれません。
恐縮ですが、そういった事情を踏まえまして、中断されるか読み進められるかをご検討いただけると幸いです。