八月の水底から、呼ぶ声が聞こえる。
小学校に上がったか上がっていないかくらいの頃、一度、プールの底に沈みかけたことがある。
夏休み、初めて行ったそのプールには、様々な形、様々な仕掛け、様々な深さのプールが取り揃えられていた。
中には、子ども用の浅いプールと、大人用の深いプールが、真ん中で区切られているだけで、くっついているものもあった。
たくさんのプールにはしゃいで、あちこち入り回っていた俺は、大人たちが少し目を離したスキに、足の着かない大人用プールに、浮き輪も持たずに飛び込んでしまったのだ。
現在の俺なら「足が着くか着かないかくらい、ちゃんと見れば分かるだろうに」と思う。
だが、当時の俺には、そんな判断力も育っていなかった。
あるいは、興奮し過ぎて、冷静な判断ができなくなっていたのかも知れない。
あの時の、ヒヤリとするような感覚を、今でも覚えている。
スイミングスクールに通わされてはいたものの、当時の俺が、それほど長い距離を泳げたわけもない。
すぐに息が切れて、足を着こうとして……着かないと知った時の、あの気持ち。
それは、絶望ではなかった。
むしろ絶望など、思いついているヒマもなかった。
階段から、うっかり足を踏み外しかけた時のような……あるいは、あと一歩で車にぶつかりそうになった時のような……背筋を一瞬で走り抜ける、ヒヤリとした感覚。
そして「しまった」という、やけにあっさりした思いと、「あ、死ぬんだ」という、悟りめいた閃き。
ほんの刹那に頭と全身を駆け巡ったそれと、その時、水の中で見た景色だけを、やけに鮮明に覚えている。
幸い俺は、すぐに近くの大人に気づいてもらえた。
溺れて意識を失う前に、引き上げてもらえた。
直後のことは、正直ほとんど覚えていない。
だが後で親から散々怒られ「あの時は大変だったんだから」と、未だにボヤかれる。
俺は結局、幸運にも命を落とさずに済んだ。健康的にも、何の影響も残らなった。
だから、あの時のことは家族の間で、半分“笑い話”のようになっているところがある。
だが、俺の中にはあの時から、消えないしこりが残っている。
俺はあの時、確実に死にかけた――その実感が、ずっと胸のどこかに、残り続けている。
毎年、夏に水の事故のニュースを見るたびに、思う。
俺も、あの時、あの“運の良さ”が無かったら、ああなっていた。
ニュースで伝えられるそれは、他人事ではない。
もう一人の俺。ほんの少しの運命の差で、そうなっていたかも知れない、俺の可能性だ。
よく、死に直面すると「人が変わる」「人生観が変わる」と言う。
俺には、その感覚がよく分かる。
死の淵を垣間見た者は、気づいてしまうんだ。
自分が決して“守られてなどいない”という事実に。
あの日までの俺は、何の根拠も無く、何もかもが何とかなる気がしていた。
失敗しても、多少危険な目に遭っても、結局は何とかなって「助かる」のだと、何の理由も無く信じていた。
それまで見てきたマンガやアニメで、主人公はどんなピンチに陥っても、結局最後は生き残っていた。
そういうものだと思っていたし、自分もそんな“主人公”なのだと信じていた。
主人公は、運命とでも呼ぶべき何かに守られている。だから、どんな危難に遭っても死ぬことはない。
自分もそんな風に、見えない何かに守られている気がしていた。
ニュースで語られる他人の不幸は“守られていない”人たちだけの不幸で、自分の身には起こり得ない全くの“他人事”……そう思っていた。
だけど、俺もまた、守られてなどいなかった。
だから、ちょっとした判断ミスや失敗で、うっかり死んでしまうこともある。
その事実を、あの時、突きつけられた。
死ぬかもしれなかったあの日の前、物語によくある“不吉な予兆”や“虫の報せ”なんて無かった。
それはいつもの日常の延長線で……それどころか、その直前まで、俺の胸には楽しさや、ワクワクはしゃいだ気持ちしかなかった。
なのに、まるで落とし穴にでも落ちたみたいに、急に、すとんと状況が変わった。
その瞬間まで俺は、自分の致命的な失敗にさえ、気づかずにいた。
何気ない日常の裏側に、命さえ失いかねない危険が潜んでいる。
そしてある時、落とし穴に落ちるように、ふいにそこに落ちてしまう。
それは誰にでも起こり得ることで、“守られている”人間なんて、一人もいない。
あの日以来、俺はあらゆることに“慎重”になった。
俺は、守られてなどいないから、うっかり変なミスでも犯せば、簡単に命を失ってしまう。
危険な遊びには手を出さなくなったし、普段から、危険に関するあらゆる情報を集めるようになった。
石橋を叩いて叩いて、それでも時には渡らない――そんな俺を、馬鹿にする奴もいる。臆病者と嘲笑う奴もいる。
だが、身に染みついたトラウマ――それも、死への恐怖を、そう簡単に拭うことなどできない。
俺だって、全てのリスクを避けることなんてできないと、知っている。
どんな場所にだって、事故の危険はつきまとう。
避けられない災害に襲われることだって、あるかも知れない。
全部に全部怯えていたら、きっと精神が保たない。
だから、意識の外に追いやって、忘れて、考えないようにしていることも多い。
だけど……ふとした瞬間に、思い出す。
あの日、水の中で見た光景を。
あの時、身体を駆け抜けた感覚を。
もうこれで死ぬかも知れないと思いながら見上げた、遠い水面の揺らめく光を、ふいに閃くように、思い出す。
ニュースで水の事故を知るたびに、思う。
彼が、彼女が、最期に見たものは何だったのだろう。
最期に頭を過ったものは、何だったのだろう。
きっと直前までは、そんなことになるなんて夢にも思わず、はしゃいで、遊んで……ふいに途切れた、命の時間。
俺も、あの時の、あの“運の良さ”が無ければ、そうなっていた。
あれが、俺の最期になっていた。
世の中には、気づいている人間と、いない人間がいる。
ありふれた、何の変哲もない日常――その裏側に、唐突な死が潜んでいることを。
紙の端でもめくるように、ちょっと裏返せば、もうそこにそれが在ることを。
八月のあの日、俺はそれを知った。
もう、知らなかった頃には戻れない。
俺の命は、明日にはもう失われてしまっているかも知れない。
……そんな思いに、たびたび囚われながら、生きている。
自棄になるわけでもなく、悲観的になるわけでもなく、ただ淡々と、それを受け止め、生きている。
明日食べようと、楽しみにとっておいたアイスを、その明日に食べられるとは限らない。
だけど、そう思って今日のうちに食べ尽くし、明日もしまだ命があったなら、きっとアイスがもう無いことを悔やむんだろう。
将来のためにと、いろいろなことを我慢しても、その将来まで生きていられるとは限らない。
だけど、そう思って何もかも放り出して遊び暮らしていたら、その将来まで生き延びられた時にきっと、将来のために何もして来なかった過去の自分を、恨むんだろう。
悔い無く生きるっていうのは、なかなかに難しい。
だけど「悔い無く生きよう」と、考える時間を与えられただけ、俺は幸運だ。
今、こうして生きていること自体を、俺はたびたび不思議に思う。
実は俺は、やっぱりあの日、プールの底に沈んでいて、今こうしているのは、生と死の間に見る“夢”なのではないか……そんな風に思うことがある。
あの日の水の底から「お前のいる場所はそっちじゃない」と、呼ばれている気がする。
ほんのわずかの運命の差で、水に沈んでしまった人々が「どうしてお前だけ、そっちに残れているんだ」と、俺を責めている気がする。
今も俺の心は、あの八月の水底を漂っている。
いつまた現れるかも知れない死の影に怯え、強迫性障害のように石橋を叩き続けながら……どこかでこの現実を、“夢”のように感じている。
夢のような日々。九死に一生の幸運で残された……けれど、いつまた失われてしまうか分からないこの日々を、惜しんで、尊んで、愛おしんで、生きている。
Copyright(C) 2021 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.




