表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

八月の水底から、呼ぶ声が聞こえる。

作者: 津籠睦月

 小学校に上がったか上がっていないかくらいのころ、一度、プールの底にしずみかけたことがある。

 夏休み、初めて行ったそのプールには、様々な形、様々な仕掛しかけ、様々な深さのプールが取りそろえられていた。

 中には、子ども用の浅いプールと、大人用の深いプールが、真ん中で区切られているだけで、くっついているものもあった。

 

 たくさんのプールにはしゃいで、あちこち入り回っていた俺は、大人たちが少し目をはなしたスキに、足のかない大人用プールに、浮き輪も持たずに飛び込んでしまったのだ。

 

 現在いまの俺なら「足が着くか着かないかくらい、ちゃんと見れば分かるだろうに」と思う。

 だが、当時の俺には、そんな判断力も育っていなかった。

 あるいは、興奮こうふんし過ぎて、冷静な判断ができなくなっていたのかも知れない。

 

 あの時の、ヒヤリとするような感覚を、今でもおぼえている。

 スイミングスクールにかよわされてはいたものの、当時の俺が、それほど長い距離きょりを泳げたわけもない。

 すぐに息が切れて、足を着こうとして……着かないと知った時の、あの気持ち。

 

 それは、絶望(・・)ではなかった。

 むしろ絶望など、思いついているヒマもなかった。

 

 階段から、うっかり足をはずしかけた時のような……あるいは、あと一歩で車にぶつかりそうになった時のような……背筋せすじを一瞬で走りける、ヒヤリとした感覚。

 そして「しまった」という、やけにあっさりした思いと、「あ、死ぬんだ」という、さとりめいたひらめき。

 ほんの刹那せつなに頭と全身をめぐったそれと、その時、水の中で見た景色だけを、やけに鮮明せんめいに覚えている。

 

 幸い俺は、すぐに近くの大人に気づいてもらえた。

 おぼれて意識を失う前に、引き上げてもらえた。

 直後のことは、正直ほとんど覚えていない。

 だが後で親から散々(さんざん)怒られ「あの時は大変だったんだから」と、いまだにボヤかれる。

 

 俺は結局、幸運にも命を落とさずにんだ。健康的にも、何の影響も残らなった。

 だから、あの時のことは家族の間で、半分“笑い話”のようになっているところがある。

 だが、俺の中にはあの時から、消えないしこりが残っている。

 

 俺はあの時、確実に死にかけた――その実感が、ずっと胸のどこかに、残り続けている。

 

 毎年、夏に水の事故のニュースを見るたびに、思う。

 俺も、あの時、あの“運の良さ”が無かったら、ああなっていた。

 ニュースで伝えられるそれは、他人事ひとごとではない。

 もう一人の俺。ほんの少しの運命の差で、そうなっていたかも知れない、俺の可能性だ。

 

 よく、死に直面すると「人が変わる」「人生観が変わる」と言う。

 俺には、その感覚がよく分かる。

 死のふち垣間見かいまみた者は、気づいてしまうんだ。

 自分が決して“守られてなどいない”という事実に。

 

 あの日までの俺は、何の根拠こんきょも無く、何もかもが何とかなる(・・・・・)気がしていた。

 失敗しても、多少危険な目にっても、結局は何とかなって「助かる」のだと、何の理由も無く信じていた。

 

 それまで見てきたマンガやアニメで、主人公はどんなピンチにおちいっても、結局最後は生き残っていた。

 そういうもの(・・・・・・)だと思っていたし、自分もそんな“主人公”なのだと信じていた。

 

 主人公は、運命とでも呼ぶべき何かに守られている。だから、どんな危難きなんっても死ぬことはない。

 自分もそんな風に、見えない何かに守られている気がしていた。

 ニュースで語られる他人の不幸は“守られていない”人たちだけの不幸で、自分の身には起こりない全くの“他人事”……そう思っていた。

 

 だけど、俺もまた、守られてなどいなかった。

 だから、ちょっとした判断ミスや失敗で、うっかり死んでしまうこともある。

 その事実を、あの時、きつけられた。

 

 死ぬかもしれなかったあの日の前、物語によくある“不吉な予兆”や“虫のしらせ”なんて無かった。

 それはいつもの日常の延長線で……それどころか、その直前まで、俺の胸には楽しさや、ワクワクはしゃいだ気持ちしかなかった。

 

 なのに、まるで落とし穴にでも落ちたみたいに、急に、すとんと状況じょうきょうが変わった。

 その瞬間まで俺は、自分の致命的ちめいてき失敗ミスにさえ、気づかずにいた。

 

 何気ない日常の裏側に、命さえ失いかねない危険がひそんでいる。

 そしてある時、落とし穴に落ちるように、ふいにそこに落ちてしまう。

 それは誰にでも起こり得ることで、“守られている”人間なんて、一人もいない。

 

 あの日以来、俺はあらゆることに“慎重(しんちょう)”になった。

 俺は、守られてなどいないから、うっかり変なミスでも犯せば、簡単に命を失ってしまう。

 危険な遊びには手を出さなくなったし、普段から、危険に関するあらゆる情報を集めるようになった。

 

 石橋をたたいて叩いて、それでも時には渡らない――そんな俺を、馬鹿にするやつもいる。臆病者おくびょうもの嘲笑わらう奴もいる。

 だが、身にみついたトラウマ――それも、死への恐怖を、そう簡単にぬぐうことなどできない。

 

 俺だって、全てのリスクをけることなんてできないと、知っている。

 どんな場所にだって、事故の危険はつきまとう。

 避けられない災害におそわれることだって、あるかも知れない。

 全部に全部(おび)えていたら、きっと精神こころたない。

 だから、意識の外に追いやって、忘れて、考えないようにしていることも多い。

 

 だけど……ふとした瞬間に、思い出す。

 あの日、水の中で見た光景を。

 あの時、身体からだけた感覚を。

 もうこれで死ぬかも知れないと思いながら見上げた、遠い水面みなもらめく光を、ふいにひらめくように、思い出す。

 

 ニュースで水の事故を知るたびに、思う。

 彼が、彼女が、最期さいごに見たものは何だったのだろう。

 最期に頭をよぎったものは、何だったのだろう。

 きっと直前までは、そんなことになるなんて夢にも思わず、はしゃいで、遊んで……ふいに途切とぎれた、命の時間。

 俺も、あの時の、あの“運の良さ”が無ければ、そうなっていた。

 あれ(・・)が、俺の最期になっていた。

 

 世の中には、気づいている人間と、いない人間がいる。

 ありふれた、何の変哲へんてつもない日常――その裏側に、唐突とうとつな死がひそんでいることを。

 紙のはしでもめくるように、ちょっと裏返せば、もうそこにそれ(・・)ることを。

 

 八月のあの日、俺はそれを知った。

 もう、知らなかったころにはもどれない。

 

 俺の命は、明日にはもう失われてしまっているかも知れない。

 ……そんな思いに、たびたびとらわれながら、生きている。

 自棄やけになるわけでもなく、悲観的になるわけでもなく、ただ淡々(たんたん)と、それを受け止め、生きている。

 

 明日食べようと、楽しみにとっておいたアイスを、その明日に食べられるとはかぎらない。

 だけど、そう思って今日のうちに食べくし、明日もしまだ命があったなら、きっとアイスがもう無いことをやむんだろう。

 将来のためにと、いろいろなことを我慢がまんしても、その将来まで生きていられるとは限らない。

 だけど、そう思って何もかもほうり出して遊び暮らしていたら、その将来まで生きびられた時にきっと、将来のために何もして来なかった過去の自分を、うらむんだろう。

 

 い無く生きるっていうのは、なかなかにむずかしい。

 だけど「悔い無く生きよう」と、考える時間をあたえられただけ、俺は幸運だ。

 

 今、こうして生きている(・・・・・)こと自体を、俺はたびたび不思議に思う。

 実は俺は、やっぱりあの日、プールの底に沈んでいて、今こうしているのは、生と死のはざまに見る“夢”なのではないか……そんな風に思うことがある。

 あの日の水の底から「お前のいる場所はそっちじゃない」と、呼ばれている気がする。

 ほんのわずかの運命の差で、水に沈んでしまった人々が「どうしてお前だけ、そっちに残れているんだ」と、俺をめている気がする。

 

 今も俺の心は、あの八月の水底みなそこただよっている。

 いつまた現れるかも知れない死の影におびえ、強迫性障害きょうはくせいしょうがいのように石橋を叩き続けながら……どこかでこの現実を、“夢”のように感じている。

 夢のような日々。九死に一生の幸運で残された……けれど、いつまた失われてしまうか分からないこの日々を、しんで、尊んで、愛おしんで、生きている。

Copyright(C) 2021 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ