プロローグー内地と外地ー 1-1
1945年8月10日。それは広島、長崎に続き3発目の核兵器が日本本土に投下された日にほかならない。そしてまた、当日は御前にてポツダム宣言受託についての会議が行われた日でもあった。
この投下がもし1日でも後に繰り越されていたら、きっと京都が核に包まれることはなかっただろう。しかし、現実はそう甘くはなかった。
3度の核攻撃と、8日から開始されたソ連参戦。これらが要因となり、翌11日、日本はポツダム宣言受託を連合国に通達した。多くの将兵、民間人を巻き込んだ二度目の世界大戦は枢軸陣営の敗北という形で幕を下ろそうとしていた。いや、本来ならそこで終わらなければならなかった。
「どういうことだ」
大日本帝国外務省内は、まさに戦場と化していた。ポツダム宣言受託を各国に報告するとともに各地に散らばる邦人の早急な帰国、更には将兵の復員など、どれだけの人手があってもなお不足する状態だ。
それに加え、明日12日の正午には“終戦の詔書”が全国に音読放送されると決められていた。しかし、どこからか情報が洩れ、すでに戦争継続派によるクーデターも生じるに至っている。
この音読放送の阻止及びクーデターの成功は、米英による攻撃の再開を可能とすることを意味している。
しかし、彼らが今耳にしたものはもはや近代国家の定義そのものを覆すに十分だった。
――ポツダム宣言受託拒否。
彼らが受けた報告は、2つある。1つは、米英及びその同盟国、連合国加盟国の殆どが日本のポツダム宣言受託を認め戦闘行為を停止したことだ。もう1つは、ソビエト社会主義人民共和国が日本のポツダム宣言受託を拒否し、なおも“自衛戦争”を続けることを宣言したことである。
「何が自衛戦争だ!攻めてきているのはソ連じゃないか!!!」
自国の利益の為には終戦も認めないのか……。
彼の脳裏にはそのような世界の残酷さと、敗戦国の絶望的な末路が刻み込まれていた。
彼、渡辺誉は、その時の悔しさを自身の最期まで忘れることは無かった。そして、彼の息子たちが日本国総理大臣として再びソ連と対峙するのは、数十年も先の話だった。
さて、8月11日現在、本土と外地では極端に異なる状況に置かれていた。
まず、満州では関東軍指揮の下3方面から侵攻するソ連軍と戦争が継続している。関東軍は根こそぎ動員をしてまで兵力を集めたため、総兵数は80万人にまで膨れていた。なお、満州侵攻の為に展開するソ連軍の総数は約150万人である。
さらに、戦争とは数もさることながらその戦力もまた重要な評価軸にほかならない。確かにソ連侵攻を防ぐために大規模な要塞がいくつも設置されており、部分的な戦勝を収めていた。しかし、関東軍の戦力は不足しきっているのだ。
ソ連軍の戦車・自走砲約5,200両の前に日本軍の200両は殆ど誤差程度の戦力しかなく、火砲・迫撃砲24,000門を相手にするのはたったの1,000門程度しかない。更に航空機はソ連軍5,100機に対して、日本軍機200機である。もし全機が戦闘機であった場合、日本の1機はソ連軍の25機を落とさなければならない。