最期の連合艦隊 3-2
駆逐艦“響”。1932年6月に進水した吹雪駆逐艦の最終型、通称暁型駆逐艦2番艦の名だ。12.7cm連装砲3基6門、61センチ魚雷発射管3基9門という重武装を、わずか2,000トンという排水量の艦に詰め込んだ本型は、列強各国に多大な影響を与えた一方、その無理から問題も多い駆逐艦であった。なお、吹雪型同型艦計24隻の内、今日まで生き抜いたのはわずか2隻しかない。その1隻が“響”である。
マレー半島、キスカ島攻略作戦、マリアナ沖海戦を経験し、幾度なる改装を重ねた本艦は、主砲は50口径12.7cm連装砲を2基4門と1基減少し、25mm機銃を多数有する駆逐艦となった。この改装は艦隊決戦から防空戦を意識したものに他ならないが、その主砲はあくまでも平射砲であり、対空戦に用いることは不可能に近い。
舞鶴で建造された本艦は、戦局の悪化から防空砲台として日本海に展開していたが、今は出せる最大の速力で移動していた。
「各艦に連絡。敵潜水艦作戦海域につき、見張りを厳となせ」
響を旗艦とし、その他3隻が後方に続く。
機雷が無ければ機関が故障することを承知の上で最大速を出すのに、と制海権を失った今となっては叶わないことを考える。
もっとも、今となっては航行可能な艦そのものが限られている。特に太平洋側に展開している全艦艇は、連合国海軍により完全に行動を禁止されている。唯一の例外が、戦争継続を宣言したソ連による侵攻から民間人を保護するというものだった。
だからこそ、海軍少佐宇久奈は今、自分が“響”艦長であることを心底誇りに思っていた。わずか1ヶ月前に着任したばかりの彼にとって、響艦長としての実戦は初めての経験だった。そして、間違いなく今回の戦闘が人生最後の海戦となるとも考えていた。
日本海側に展開する艦艇に、主力艦は存在しないといって過言ではない。戦艦や重巡洋艦などといった艦艇は呉や横須賀といった重要都市部の湾内に、防空砲台として待機している。
いや、正確には待機とは言えない。連合軍艦隊による空襲で傷つき、動くことができないのだ。
さて、何故響以下3隻が朝鮮半島から日本への避難船を無差別雷撃するソ連軍潜水艦への対潜作戦へ向かわず、別方向へ航海しているのか。それは、占守島からの緊急報告があったからに他ならない。
ソ連軍による戦争継続の宣言は、何も満州や朝鮮半島、樺太といった陸続きの戦闘のみではない。占守島への強襲上陸が開始されたのだ。