さずかりもの
目覚めたとき、健一は思わずその名を呼んでしまった。
「真梨絵……」
しかしすぐに健一は気づいた。気づいたとたん、自分を囲む静けさに驚いた。
その静けさは、健一のいる寝室だけでなく、部屋の外の廊下も、そこからつづく居間も浴室も、あらゆる空間をおおっているように思われた。
健一は、のろのろとベッドから起き上がった。そうして、誰もいないキッチンに向かった。
冷蔵庫を開けると、おせちの入った重箱があった。妹が置いていってくれたものだった。
重箱を見つめていると、また、悲しみが込み上げた。妻のいない正月は、いつ以来だろう。そんなことを思い、妻の死をあらためて実感した。
健一は、冷蔵庫をばたんと閉めた。すると、勢いよくそうしたからか、どこからかメモ用紙が一枚、ひらひらと落ちてきた。
真梨絵は、自分の忘れっぽさを笑いながら、いつもメモ用紙に何かを書きつけていた。そのことを思い出し、健一はメモ用紙を取り上げた。妻の書いた字が、そこにある。それを見たくて。
しかし、メモ用紙には何も書かれていなかった。
ただ、真っ白なままだった。
メモ用紙を手に、つっ立っていると、チャイムの音がした。
妹の瑠璃だった。赤ん坊を抱いていた。後ろには夫の稔も立っていた。
二人を招き入れると、あいさつもそこそこに、
「俺、引っ越すよ」
健一は言った。すぐに言わないといけないような気分だった。言ってしまうことで、つらいことから逃れたかった。
瑠璃が不安げな顔で、「どこに?」と訊いた。
「どこか、真梨絵を思い出さないようなところに」
「思い出したくないの?」
「今はね。……この家にいるとつらいんだ。何を見ても、真梨絵のことを思い出してしまう」
「逃げちゃうの?」
瑠璃にそう言われ、健一は黙り込んだ。逃げてしまって、何が悪い? そんなふうに言い返したかったが、その言葉は飲み込んだ。
しばらく黙っていると、瑠璃の胸の中の赤ん坊がぐずり出した。
あやしながら、瑠璃が健一に歩み寄った。そして、
「ほら、パパですよ」
健一に赤ん坊を差し出すようにした。
健一は顔を背けた。が、すぐに思い直した。
不思議だった。赤ん坊を見るのがこわくて、妹夫婦に預けていた。そのまま、二人の養子にしてもらうつもりでいた。もう、赤ん坊の存在自体忘れたいと思っていた。それなのに、不意に、赤ん坊の顔を見たくなった。
健一が覗き込むと、赤ん坊が笑った。
その笑顔を見て、健一は「あ」と、声を上げた。
目がくりくりとしていた。ぽっちゃりとした頬。つるりとした額。色白なところまで、真梨絵にそっくりだった。
健一は、瑠璃の手から赤ん坊を受け取り、胸の中で抱いた。気づいたらそうしていた。
赤ん坊が健一を見上げた。その瞳を見つめ返し、健一はまた、不思議な気持ちがした。こんなにも、真梨絵の存在を感じさせる赤ん坊。その子を見つめ、抱いているのに、少しも悲しみが込み上げてこなかった。
それどころか、健一は幸せすら感じていた。