表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

さずかりもの

作者: 泉 羅卯

 目覚めたとき、健一は思わずその名を呼んでしまった。

「真梨絵……」

 しかしすぐに健一は気づいた。気づいたとたん、自分を囲む静けさに驚いた。

 その静けさは、健一のいる寝室だけでなく、部屋の外の廊下も、そこからつづく居間も浴室も、あらゆる空間をおおっているように思われた。

 健一は、のろのろとベッドから起き上がった。そうして、誰もいないキッチンに向かった。

 冷蔵庫を開けると、おせちの入った重箱があった。妹が置いていってくれたものだった。

 重箱を見つめていると、また、悲しみが込み上げた。妻のいない正月は、いつ以来だろう。そんなことを思い、妻の死をあらためて実感した。

 健一は、冷蔵庫をばたんと閉めた。すると、勢いよくそうしたからか、どこからかメモ用紙が一枚、ひらひらと落ちてきた。

 真梨絵は、自分の忘れっぽさを笑いながら、いつもメモ用紙に何かを書きつけていた。そのことを思い出し、健一はメモ用紙を取り上げた。妻の書いた字が、そこにある。それを見たくて。

 しかし、メモ用紙には何も書かれていなかった。

 ただ、真っ白なままだった。

 メモ用紙を手に、つっ立っていると、チャイムの音がした。

 妹の瑠璃だった。赤ん坊を抱いていた。後ろには夫の稔も立っていた。

 二人を招き入れると、あいさつもそこそこに、

「俺、引っ越すよ」

 健一は言った。すぐに言わないといけないような気分だった。言ってしまうことで、つらいことから逃れたかった。

 瑠璃が不安げな顔で、「どこに?」と訊いた。

「どこか、真梨絵を思い出さないようなところに」

「思い出したくないの?」

「今はね。……この家にいるとつらいんだ。何を見ても、真梨絵のことを思い出してしまう」

「逃げちゃうの?」

 瑠璃にそう言われ、健一は黙り込んだ。逃げてしまって、何が悪い? そんなふうに言い返したかったが、その言葉は飲み込んだ。

 しばらく黙っていると、瑠璃の胸の中の赤ん坊がぐずり出した。

 あやしながら、瑠璃が健一に歩み寄った。そして、

「ほら、パパですよ」

 健一に赤ん坊を差し出すようにした。

 健一は顔を背けた。が、すぐに思い直した。

 不思議だった。赤ん坊を見るのがこわくて、妹夫婦に預けていた。そのまま、二人の養子にしてもらうつもりでいた。もう、赤ん坊の存在自体忘れたいと思っていた。それなのに、不意に、赤ん坊の顔を見たくなった。

 健一が覗き込むと、赤ん坊が笑った。

 その笑顔を見て、健一は「あ」と、声を上げた。

 目がくりくりとしていた。ぽっちゃりとした頬。つるりとした額。色白なところまで、真梨絵にそっくりだった。

 健一は、瑠璃の手から赤ん坊を受け取り、胸の中で抱いた。気づいたらそうしていた。

 赤ん坊が健一を見上げた。その瞳を見つめ返し、健一はまた、不思議な気持ちがした。こんなにも、真梨絵の存在を感じさせる赤ん坊。その子を見つめ、抱いているのに、少しも悲しみが込み上げてこなかった。

 それどころか、健一は幸せすら感じていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 奥さんを亡くしたのは辛いですね。 赤ちゃんと一緒に前向きに生きて欲しいなって思います。
2023/04/29 14:13 退会済み
管理
[一言] 作品の中の奥様は、ご出産で亡くなられたのかな。だから妻の忘れ形見である子どもを見るのが怖かったのかしら。 妻の死を思い出すものとして子どもを忌避してしまうという気持ちもなんとなくわかります…
[一言] 奥さんを失ったのは無念でしたけど、お子さんが残ったのは不幸中の幸いでしたね。 子供がいてくれることで、くじけそうになる気持ちを奮いたたせることができる時が出てくるかもしれません。 しばらく…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ