嵐立ちぬ
私が起き出した気配に反応して、ベッドの周りに閉じられていた白いカーテンが跳ね上がった。そこから覗く涙を瞳いっぱいに溜めたハンナの顔が、安堵したように軽く歪む。
「……っ、もうご気分はよろしいでしょうか?」
名前を呼ばないのは周りに誰かが居るからだろう。ハンナは私のことをリリー様としか呼ぼうとしないからすぐにわかる。
「ええ、大丈夫です。心配かけてごめんなさい……でも、何があったのかしら?」
確か、ミヨを送り出した後、着替えを済ませたところだったと思うのに、そこから意識がふっと切れるように飛んでしまった。
そうして気が付けばあの十歳の時の記憶の中に居たのだ。
「あの……突然、崩れるように倒れられてしまいました。ですから護衛の騎士の方にお願いして、こちらまで運んでいただいたのです」
「……ああ、ここは、もしかして、診療室?」
白ヒゲのお爺ちゃん先生ことビューゼル先生を訪ねてきたことがあった。
あの時は勿論ベッドに横になるようなことはなかったが、この白いカーテンや簡素なベッドには見覚えがある。
「はい。本日はこちらに詰めていらっしゃるとのことでしたので、ビューゼル宮廷医をお呼びするよりもお運びした方が早いと思いまして、それで」
うーん、ハンナも突然のことで動揺したんだろうけれど、出来ればそこは先生の方を部屋に呼んで欲しかった。
今の気分からいっても頭を打ったような感じはしないが、いきなり意識を失って倒れた人間を、医療関係者が確認も取らずに動かすのは救急法的によろしくない。
とはいえ彼女としても最短の時間で医者に見せたかったという気持ちはわかるので、今は何も言わないでおいたほうがいいだろう。その内、さりげなく伝えておけばいいか。
そう考えているところに、ゴホンと、こちらを伺うような咳が聞こえる。
「メリリッサ公女殿下、お気づきでしたら少しよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞお入りください、ビューゼル宮廷医」
私がそう声を出せば、周りを覆っている白いカーテンが開かれ、ビューゼル先生とカリーゴ様が静かにベッド横へとついた。
「突然意識を失ったということでしたが、ご気分はいかがでしょうか?吐き気などはございますか?最近同じように意識を飛ばされるようなことは?」
「いいえ、頭を打ったような痛みはありませんし、吐き気もありません。どうしてこんなふうになったのかも全く見当もつかないくらいなのですが」
「はあ、なるほど」
ふんふんと頷きながら、ビューゼル先生はいつもの飄々とした態度を崩さず、紙に何かを書きつけていく。その隣には表情をすっかりと消したようなカリーゴ様。さらにその横に、真っ青な顔色で、息を荒くしたハンナの姿がある。
三人三様のその様子がなかなかカオスだなと思ってしまった。
「診たところ、メリリッサ公女殿下に問題はなさそうですが、万が一ということもございますので、もう少し休んでからお部屋に戻られたほうがよろしいと思います。そうですね、カリーゴ様」
「ええ、護衛騎士をこちらに数名回します。公女殿下におきましては、簡素なベッドで申し訳ありませんが、ビューゼル宮廷医の診察に従っていただきますようお願いいたします」
うん、私も念のために、先生の近くのほうが安心できる。
というか、カリーゴ様が話している横でふらふらと体が揺れ出しているんだけど、私よりもハンナの方が辛そうじゃないか、これ?
「はい、ではもう少しお世話になります。それからハンナ、あなたも一緒に休みなさい。随分と体が辛そうですし、もしなんだったらビューゼル宮廷医に診てもらえばいいわ」
私の言葉に、ビューゼル先生が反応する。どれ、とハンナに近寄ろうとしたが、それは恐れ多いと強固に固辞するので、せめて体を休めるようにと言い含めなんとかベッドで休むことを納得させた。
隣のベッドもカーテンで仕切れるようになっているらしいので、そこで横になるようにさせればよほど調子が悪かったのだろう、早々にすうすうと規則正しい寝息が聞こえ始めた。
診察室のため人の気配はあるものの、カーテンでしっかりと区切られている。
とても静かなその閉ざされた空間で私は、もう一度あの記憶について思いを巡らせた。
メリリッサとアクィラ殿下の婚約の知らせなど、その後の出来事を知っていたとしても聞きたくはなかったはずだ。
それだけで胸がぎゅうっとわしづかみされる気がする。
初めて好きになった人が自分ではなく、意地悪な姉と結婚が決まったのだなんて受け入れたくなかっただろうに。しかもそれを祝福しなければいけない立場になってしまったのだから、幼いリリコットがその後投げやりになってもおかしくはない。
メリリッサの言うこと全てをはいはいと聞き入れていたのはそういった事情もあったのかもしれないな。
そう考えをまとめてから、ふと気がついた。
だったら?でもそうして、メリリッサがガランドーダのロックス殿下を寝取り、リリコットに成り代わった時に、どうしてリリコットは喜ばなかったのだろうか?
心配はした。だからお母様にも進言をした。それはそうだ、婚約者の入れ替わりなどどう考えても許されるべきことじゃない。
でも感情の方はどうだ?好きで好きで、未来を夢みていた人と結婚できるのかもしれないという喜びの感情を、あの入れ替わりの日の記憶を思い出した時、私は感じなかったのだ。
おかしい、私なら絶対に嬉しいと震えたはずだ。
たとえ自分がリリコットだと公言出来なくても、悪公女の二つ名を抱いたままでもそんなものは関係ない。今、この感情を思い出した今ならわかる。
何かがおかしい。これではまるで、わたしが――
「公女殿下、起きていらっしゃいますでしょうか?」
カーテン越しにカリーゴ様がそっと確認の声をかけた来た。何故このタイミングでとも思ったが、その珍しく慌てているような声色を聞いてすぐに言葉を返す。
「ええ。どうなさいました?」
一瞬だけ、どう伝えたらいいかと考えるように息を飲んだように思えたけれど、流石にアクィラ殿下の近習なだけある。先ほどまでの動揺をすぐにしずめて、淡々と事実だけを伝えてきた。
私はその報告に驚き、あごが外れるくらい大口を開けて呆けてしまった。
「申し訳ありません。公女殿下のお部屋が何者かに荒らされた模様です」




