彼に、胸きゅん。
「どうしたんですかぁ、姫様。顔真っ赤っかですよー」
ベッドの上であうあうと狼狽えている間に、ミヨが私の横まで来て顔を覗いていた。
いつの間にかカーテンは大きく開けられ、明るい日の光が部屋の中を照らしている。目を覚ますまではここまで明るくなかったから、私の起きる気配を察してカーテンに手をかけたのだろう。
本当にこういった細かいところは気が利く、いい侍女である。がしかし、全く利かせようとしないところもあるのがミヨだ。
「まあ、姫様もお年頃なんですからそんな夢を見る日もありますよ。んー、エッチッちー」
そう言って、私の頬をむにんと人差し指で突き刺した。
そんな夢見てないからーっ!真逆だ、むしろ、逆!
多分十年くらい前のアクィラ殿下との純粋な、甘酸っぱい出会いを思い出しただけだっていうのに、とんでもない誤解だよ。
ってか、なにその、私黙ってますから、みたいな仕草は?
えっちなことなんて全く考えてもないし、夢も見てないからね!
上掛けを大きくめくりあげ、その一方的な思い違いを訂正してやろうと口を開けたところで、あちらでいうところの歯ブラシを突っ込まれた。
「まあまあ、手早くお仕度しましょう。あ、それ新商品だそうですぅ。ぜひ感想をきかせてくださいって言ってたんで、お願いしますね」
こっちの世界で歯ブラシといったら、棒に使い捨ての布が巻き付けられたもので、それに塩をつけて磨くのが主流で、昨日までは私もそれを使っていた。
しかし今渡された歯ブラシは、私が向こうの世界で使っていたものに似た形になっていて使いやすい。流石のルカリーオ商会だとは思う。
ただ、ブラシ部分がどうみても何か動物の毛っぽいので、そこはあまり突っ込まないでいたほうが、私の精神衛生上いいだろうと判断した。
そうして手渡された、じゃない突っ込まれた歯ブラシで歯を磨きながら考えるのは、昨夜思い出した記憶のことだ。
あの記憶の中で出会った少年は、確かにアクィラ殿下だと確信している。けれども、それがいったい何時のことなのかがわからない。
おおよそ十年くらい前というのも、私の勝手な解釈だし、大体場所がどこなのかさっぱりだった。
少なくともモンシラ公国でないことは確かだ、それはわかる。他の場所で、かつアクィラ殿下がいたところというのなら、このトラザイド王国なのだろうか?いや、それだったら王妃殿下以外にも誰かからそんな話を聞いてもいいと思う。
だとしたら考えられるのは、ハンナ曰く、お母様の外遊について行った頃、どこかで私とアクィラ殿下や王妃殿下と出会ったということになるのだろう。だとしたら、その時に王妃殿下が、『無理を言った』などというような何かがあったのかもしれない。
なるほど、そう考えると少しだけぐちゃぐちゃに絡んだ糸がほぐれだすような気がした。
まだまだ記憶が全部思い出せる感じはしないけれど、ほんのちょっとは手掛かりに近くなったのかもしれない。
うん、昨日一日で二つも記憶を思い出すだなんて大進歩だ。
……まあ、片方は私のやらかしで、もう片方はやられた場面という、自分的に言えば恥ずかしい思い出のような気がするけど。
ただ、あのアクィラ殿下は、なんというか……かっこかわいかったなー。
壊れて汚れた靴を手直ししてくれて、紳士的にふるまおうとしていた少年のアクィラ殿下。
それでいてぐいぐいと私の手を引っ張っていく姿は本当に可愛かった。今思い出しても胸に、キュンときてしまう。
そんなことを考えて少し気が抜けた瞬間、目の前に手桶がばんっと出現して容赦ない声がかかった。
「姫様、垂れてます」
おっと、よだれが?いけないと口を引き締めれば、別にどこも汚れていない。
垂れてないじゃん!と口にすれば、今度こそ本当に口から出そうなので、目だけで訴える。
けれどもその程度ではミヨは止まらないので無駄だった。ともかくこれは支度をすませてからだとばかりに急ぎ顔を洗う。そうしてタオルで顔を拭いてから話しかけた。
「あのね、やっぱり顔はせめて浴室で洗いたいの」
どうも歯磨きから洗顔までベッドの上で済ますのには抵抗がある。病気で寝込んでいるならまだしも、私は立派な健康体だ。覚醒してからこっち、そう伝えているのだけどそこは絶対にOKをもらえない。
「姫様にご自分でそんなことさせたらー、私ハンナさんにシメられちゃいますよぉ」
あれだけ不敬なことをぶちかましておいて、そこはひけないのかと不思議に思う。けどさっきは歯ブラシ突っ込んだよね、と言おうとして気がついた。
「あら?今日はハンナの姿が見えないのだけれども、どこにいったの?」
そういえば、朝の支度は大体ハンナだったのにね。
「あ、なんだか外交官のー、なんとか様と話があるとかで早くから出ていきました」
なんとか様って、誰だよ。名前の欠片も入ってないから全くわからないわ。
んー、けど、お金はもうルカリーオ商会から借りちゃったし、返済計画もカリーゴ様が立ててくれたし、こっちからしたら用無しなんだけどねえ。
お金も出さないくせにまだ何か用があるのか、外交官。悪公女とはかかわりになりたくないんじゃないの?
それでも仮にもモンシラの外交官だし、結婚の儀のこともあるだろうから邪険にはできないけど、あまり突拍子もない話でなければいいんだけどなーなんて考えながら、ハンナの帰りを待つことにした。




