あの日に帰り……タイ
最近大人しかったのですっかり油断をしていたら、お母様からもらった新しい靴を酷く汚された。
真っ白なつま先を思いっきり潰されてくるぶしで結ぶリボンを片方引きちぎられたそれを、私の方に向けてぽんっと投げられた時には、流石に怒りを通り越して泣きそうになった。
けれどもだからと言って泣いてしまえば彼女の思う壺なのがわかっていたので、ぐっと息を飲み込んで我慢する。そうして無関心を装えば、大して面白い事でもなかったと、つまらなそうな顔をして私から離れて行く。
今もそんなふうにして彼女は私から興味をなくしたというように、芝生の向こうに設けられたお茶のテーブルへと歩いて行った。
今日のお茶会の席には、隣国の王妃殿下が同席されると聞いている。だから私の靴を汚したのだ。その席で私の無作法としてあげつらう為に。
はあ、と小さいため息と共に投げ出された靴を拾い、履いた。どうせ靴下も土で汚れてしまっているのだ、今さら靴だけが綺麗なままでいても同じだった。
それでも歩くためにはと、引きちぎられたリボンをなんとか結べないかと引っ張っていたところに頭の上から心配そうにしている男の子の声が聞こえた。
「ねえ、大丈夫?」
「うん。気にしないで」
いつものことだからと、見も知らない人にわざわざ言う必要はない。
顔も上げずに靴だけを見て、リボンと格闘していると、どこの誰だか知らないその声は、周りを気にしながらそっと声を落とす。
「あの子、酷いね」
「見てたの?」
私が靴をとられて汚されるところを見ていたのかと聞いてしまった。別にそれを責めるつもりはなかった。
ただ、見られていたんだな―程度の気持ちでかけた言葉に、男の子はその行動をとても恥じたように「ゴメンね」と私に向けて謝ってくれたのだ。
「なんとなく声をかけれなくって、その……二人とも同じ顔してるから、どっちがどっちなのかなって」
「ああ、そうね」
全く同じ顔の私たちがこんな人気のないところで何をしているのか気にはなっても、おいそれと仲裁には入れないだろう。入ったところで彼女の口の上手さに言いくるめられるだけだ。
そんなことよりも今私にとって大事なのはこの靴のことだった。やっぱりこのままじゃあ踵が浮いて上手に歩けない。せめて何かで縛れるようにしないとダメかな?そんなことを考えていると、しゅるっと何かがほどけるような衣擦れの音が聞こえた。
「少しだけ足触るけど、許して」
その言葉と同時にその男の子が、リボンが引きちぎられた方の靴を履いた足に屈みこみ、布のようなものを巻き付け始める。
突然のその行動に驚いた。いくら私たちが子供だからと言って、女の子が男の子に足を触らせるのはダメだろう。そう言おうとしたのに、その優しい手つきに、私はしどろもどろになって何も言えなかった。
「え……あの?」
さっきまでのどうしようもなく醒めた気持ちが、急にダンスを踊り出したように飛び跳ね上がった。
靴の踵とくるぶしに通したリボンを綺麗に蝶結びされると、もう全然普通に歩けそうだ。むしろ、白い靴に青いリボンがとても可愛らしく見えてしまう。
「どうかな?」
その言葉に頷くように、つま先をとんとんと軽く叩くと、じいっと足元を気にしていたその男の子がようやく顔を上げて私を見る。
「よかった、大丈夫そうで」
きらきら輝く金色の髪と、深い緑の瞳がとても綺麗だと思った。美しい刺繍のされた紺色のジュストコールにキュロットといった姿が良く似合っていて、私たち同様にかなりの立場にあるのだとわかる。
そしてその首元の襟が少しよれているのを見て、あっと気が付く。多分そこにはリボンタイか何かが付けられていたはずだ。
「その、もしかして、そこに?」
靴に巻き付けられた青いリボンをもう一度確かめる。
シルクのなめらかな光沢のリボンは、きっとさっきまで彼の首元を飾っていたそれだ。私の言葉にならない問いかけに気が付いたように、その男の子は笑って軽く手を振った。
「気にしないでいい。私が勝手にしたことだから」
「でも……」
そのままの格好で人前に出れば、きっと彼はみっともないと叱られてしまうだろう。私はいつものことだから注意を受けることに慣れているけれど、この男の子はそうじゃないはずだ。
かといって、すでに汚れてしまったリボンタイをそのまま返すわけにもいけない。どうしようかときょろきょろと頭を動かしながら考えていると、ばっと勢いよく右手首をとられた。
「じゃあ、内緒で新しいタイを取りに戻ろう」
「えっ!?」
そのまま彼の進む方へとずんずんと連れられて行く。
あの、あの、と何度呼んでも振り向いてくれない。そう言えばまだ彼の名前を聞いていなかった。もしかして、名前で呼ばないからわからないのかな?
そう考えて、つい「あのっ、お名前は?」と大きな声を出してしまった。すると、ぴたっと彼の足が止まったかと思うと、くるんと私に向かって振り返った。
その頬は少し赤らんでいる。おそらく私も、彼と同じように赤く染まっていただろう。頬がちょっと熱い。
そうして、その男の子の唇がゆっくりと動くのを見た――
***
瞬間、ばっちりと目が覚めた。
体はふかふかの寝具に包まれたままだったけど、気持ちはあの日のあの場所からまだ全然戻ってきていない。
ってぇえええ、思い出したーーっ!
ア、ア、アクィラ殿下じゃん!
いや、名前まで聞こえなかったけど、その前に目が覚めたけど、絶対にそうだ、あれ!あんな美少年、他では見たことないし、面影ばっちしだったし。
えー、えー、えー……あー、あれって、一体いつのことだろう……
多分、そう多分だけど、アクィラ殿下の見た目だけから想像するに……十歳くらいじゃないだろうか。
だとすると十年前……まさしく私が思い出したいと思っていた時期だけど、これ?え、これなの?と自問自答する。
……おおう、なんか、なんか、朝っぱらからちょっとプチパニック中だ。




