立場もないっ!
ケガを理由として自室へと運んでもらった簡単な夕食をとると、早速診察時にもらった薬が差し出された。
いくら宮廷医とはいえ、私からしたら得体の知れない薬だけに正直あまり飲みたいとも思わない。けれども、飲むまで離れませんとばかりに見つめるハンナに根負けして一気に飲み干す。
白ヒゲのお爺ちゃん先生の診断を聞いて、私の過去の記憶が曖昧だと知ってから、ハンナは驚くほど私のことを気にしているようだ。何をしていても視線を感じる。
まあそりゃあ、何かの拍子にメリリッサのこと喋ってしまったら、身代わりとして私がこちらに来た意味がなくなるしね。
彼女的には早く記憶を思い出した方がいいだろうから、出来るだけ協力をしてもらおう。
しかし、この薬……不味いという訳ではないけれど妙に後味が口の中に残るのが気になって、もう一杯お水を欲しいとお願いした。
すると、薄いガラスのデカンタを手に取ったハンナがゆっくりとコップに水を注いでくれる。
そのガラスのデカンタから水がちょろちょろと注がれているところを見ていると、あの日割れてしまったものとそっくりだと、ふっと頭の中で何かが持ち上がるように思い出した。
***
三カ月前、メリリッサは私に成り代わってロックス殿下と寝たのだと言い放ち、勝ち誇った顔を見せつけて去って行った。
私はその足で大公妃であるお母様の元へ向かい、メリリッサの発言を訴えたのだ。
あまりの重大な出来事に、それはそれは驚き狼狽えたお母様は、私の肩に手を置きながら指を口元へと運ぶ。
「とりあえずあなたは知らないふりをしていなさい、リリコット」
「……でも、お母様」
「まずは事実を確認して、それから大公殿下へは私が話を通します。だから、ね」
「はい。それでは、大公妃殿下のよろしいように」
お母様の言葉に答えて、後は全て丸投げしてしまった。どちらにしても、私には荷の重い話だったので、本音をいえばホッとしたのだ。
そうして、きっとお父様とお母様がなんとかしてくれると祈りながら、雑音から離れ、用事がない限りは一人静かに自分の部屋でばかり過ごすこととなった。
その一週間後に行われた公邸での舞踏会の日、久しぶりに正装して華やかな場に出る準備をしていると、なんとなく周りの様子が普段と違う気がした。
もしかして、メリリッサのことがおおやけになってしまったのでは?と、冷や汗が背中を伝ったけれど、そこまでピリピリした雰囲気ではないようだ。
だとしたら、大国の王太子殿下が参加する舞踏会ということで、いつも以上に気を使っているのだと、斜め上の解釈をして会場へと足を運ぶ。
しかし婚約者という立場であるものの、結婚の儀式も待てずに床入りしてしまうロックス殿下には本当に呆れてしまった。その上、私とメリリッサの区別がつかなかったのだ。
私に成りすまして事を致したメリリッサの方も悪いが、この場合ロックス殿下の方がもっと悪いと思っていた私は、彼女の話を聞いてからというものロックス殿下と顔を合わすことを露骨に避けていた。
だから、避けていたからわからなかったのだ。
その一週間の間に、何が起こったのかということを――
「君は恥と言う概念を知った方がいいね」
ロックス殿下との久しぶりの対面に、開口一番そう言われて目が点になってしまった。
黒髪にブルーの瞳のロックス殿下は大国の王太子という地位にあるだけあって、とても押し出しがいい。しかし今日は、普段の真っすぐな瞳を歪めながら、私の方に向かいそう言ったのだ。
「……あの、一体何をおっしゃっているのでしょうか?ロックス殿下」
ロックス殿下は今、何と言ったの?まさか……まさかね。
まったく事情がのみ込めないまま、そう尋ねると彼は大きく息を吐いて続けざまにこう言い放った。
「君は恥知らずだと言ったんだよ、メリリッサ嬢。君は今まで私のリリコットの功績を自分だけのものにしていたのだろう?淑女としての名声も、学業の優秀さも、さらには孤児たちへの寄付ですらも。この一週間で皆に話を聞かせてもらったよ。それらは全て、君の代わりにリリコットがしていたことだと言うではないか!」
グッと、手のひらを握りしめる。確かにロックス殿下が今言ったことは本当のことだ。
努力が何より嫌いな癖に名声だけは欲しがるメリリッサは、顔の区別がつかないのをいいことに、面倒なことは全て私に押し付けてきた。
そうしておいて、結果だけをもぎ取っていく。その上でメリリッサは素晴らしい淑女だが、それに比べリリコットは愚鈍で何も出来ないなどという風評を流すのだった。
それはもう、もの心ついた頃からずっと続いてきた為、当たり前のこと過ぎて、お父様やお母様、それから普段私たちに付いてくれている侍女たちもほとんどスルーしてきた。勿論私も。
そうすれば、癇癪を起し、公邸内の諸々を壊し歩くメリリッサのみっともない姿を見なくて済むし、それで悩むお母様の姿も見なくて済むから。私だけが我慢すればいいのだと思っていたのだ。
それが何故、今になって私の首を絞めることになっているのかわからない。
だって、私は……私こそがリリコットなのに!?
周りの貴族たちからの視線が針のよう痛いほど突き刺さる。ひそひそと囁き交わす声が真夏の蝉みたいにうるさく響く。
「とんだ悪公女だ」「まさか、と思っていましたが、いやはや」「ほら、図星を刺され、顔が真っ青だ」
やめてやめて、どうしてそんなことを言うの?そう反論したくても、声が出ない。
大理石の床の一点を見つめ、どう言葉にしようかと考えた瞬間、弾けたように顔を上げる。そうだ、お父様とお母様ならば!
大公殿下と大公妃殿下の立つ上座へと顔を向ければ、眉を顰めるお父様と、歯を食いしばりながら顔を背けるお母様の姿があった。
慌ててロックス殿下の方へと視線を動かせば、彼の腕を取り、隣で静かに微笑むメリリッサ。
私はそれを見て悟ったのだ。公国の意思を――
ひゅっ、と息をのんだ。
引き裂かれるような胸の痛みにふらついた私を助けてくれる者は、その会場に誰も居ない。
せわしなく動く給仕にぶつかってしまったと思った時にはすでに遅く、給仕の持つデカンタがそのトレーから滑り落ち、そして粉々に割れた。大理石の上に広がっていくワインを見ながら、もう元には戻らないのだと理解してしまった。
そしてその瞬間から正式に私たちの名前と立場も入れ替わることとなる。
メリリッサがリリコットに、リリコットがメリリッサに、と。
見栄っ張りで、優れたものは何もかも自分のものにしたがるメリリッサが、リリコットについた悪評を喜んで引き継いで行くわけなどあるはずがなかったのだ。
そこは行き掛けの駄賃とばかりに私へと泥を投げつけておきながら、自分だけは無垢で真っ白なままのふりをして、ロックス殿下の庇護の元、早々にもガランドーダへと向け旅立ってしまった。