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記憶はないっ!

 好々爺といった白ヒゲの宮廷医が手首の傷の状態を軽く確認し、体調の良し悪しを私の横に立つハンナに尋ねる。

 すると彼女は、静かに、そして少し悲しそうな顔をして答え出した。


「お体の具合は悪くはありません。ただ少々精神的にお疲れのご様子です」

「精神的といわれると?」

「……混乱されていらっしゃるような」


 一拍置いてハンナがそう絞り出すと、メガネの弦を触りながら私の方へと顔を向ける。


「メリリッサ様、ご質問をしてもよろしいでしょうか?」

「はい。先生のよろしいように」


 慎ましやかに口数少なく答えると、おや?とでも言いたげに白ヒゲが片方に寄った。


「頭は痛みますか?」

「そうですね、痛むというよりも、もやもやとした霞が掛かっているような感じです」

「ふむ、霞が掛かっている部分は何だと思いますか?」


 今度は私の方が、おや?と思った。

 この白ヒゲのお爺ちゃん先生は、ケガや病気以外、精神的な方も見てくれるつもりなのかと。


「……思い出、でしょうか?」

「思い出?」

「はい。こうしていても、私が誰なのか、皆さんが誰なのか、何をしにここへ来たのか、だいたいのことはわかっているつもりです。けれども、それ以前に何が起こり、私がその時に何を考えて、どう思っていたのかということがわからないのです」


 これは正直に話した方がいい。黙っているとこれから先、過去のことを聞かれたときにごまかしが効かないから。


「だから、思い出ですか。ほうほう、面白い発想だ。そこに、『霞』が掛かっていると?全く思い出せませんか?」

「はい、今のところ芳しくはありません」


 嘘だ。一つだけは思い出している。

 けれど、それだけは絶対に他人には言えない。


 私が本当はリリコットだという理由は墓まで持っていくしかないものだ。隣国トラザイドと大国ガランドーダの二国を敵に回して生き残れるほどモンシラ公国に国力はない。

 というか、その二国に縋り付かなければ正直十数年後には地図にも残っていないと思う。

 不思議なことに何故かそんな国内外情勢は覚えている。リリコットには生活様式の一種みたいなものなのだろうか?


 そして公国から連れてきた侍女のハンナとミヨ。それから、護衛騎士の赤髪のヨゼフだけはこの入れ替わりのことを知っている。知っているが、だからこそ私同様に口を開くことはない。

 私のその言葉に、お爺ちゃん先生はふんふんと頷いた後、静かに目を合わせた。


「今のメリリッサ様の状態は、記憶の引き出しに何かが引っかかって上手にものが取り出せないようです。ですが、安心してください。無くしてしまったわけではありません」

「はい」

「気持ちが落ち着いてくれば徐々にそれも元通りになるでしょう」


 どうやら解離性健忘症と判断されたようだ、いわゆる一過性の記憶喪失。

 確かにリリコットとしての記憶の曖昧さを考えたら妥当だと思う。多分リストカットが原因なんだろうけどね。

 そこまでは言及しなかったのは、王太子殿下の婚約者という立場を考慮してなのか、それとも一患者への気遣いなのかはわからない。

 けれどもこんな受け答えだけで私への配慮もきっちりとしてくれるとは、流石に宮廷医として仕えているだけあるとは思う。


 しかし、やっぱりなー。プロの目から見てもそう見えるとなるとどうしよう。


 リリコットの意識と記憶が完全に戻ったとしたら、百合香の方が消えてなくなるのかな?


 リリコットとして生きていくのなら、その方がいいとは思う。

 思うけど、それはそれですごく悲しい。


 だって、ようやく独り立ちして、自分の人生を謳歌するのだと喜んだ矢先にこうなってしまったのだ。

 百合香としての持っている最後の記憶は、夜勤明け、厳しい残暑の太陽に目が眩んだところでストップしている。その後に何が起こったかなんて知りようがないが、そこは本能でわかってしまった。


 おそらく一度死んでしまっただろう自分に思いを馳せる。

 小物ですら買うのを遠慮した日々から脱し、自分の為に自由にお金が使える喜び。好きな時間に自分のことをする自由。夢にまで見た時間はあっという間に儚く消えてしまった。


 ああ、本当にもやもやする。

 たとえ生まれ変わったと言うのならそれでもいいけれど、なんで百合香としての記憶を思い出したのよと自分に言ってやりたい。


 リリコットとして記憶を失ったのなら失ったままで生きて行けばいいじゃないの。

 歓迎されてはいないようだけれど、入れ代わりさえバレなければ少なくとも公女として、王太子殿下の婚約者としての地位もあるんだから、何一つ不都合はないはずでしょ?


 私は、二度も、死にたくないのに!


 奥歯をギュッと噛みしめると、なんだか酷く苦い味が口の中に広がっていった。


 白ヒゲのお爺ちゃん先生は手首の塗り薬と、貧血を補うような薬をハンナに渡しながら使用の説明をしている。それをぼおっとしつつ眺めていると、私の方へ可哀想なものでも見るような顔をして最後に一言だけ呟いた。


「けれども……もしかしたらメリリッサ様の為には、これ以上思い出さない方がよろしいのかもしれませんな」


 …………は?


「え、それは一体……」


 呆けてしまった為、どういうことなの?と聞こうとしたところですでにお爺ちゃん先生は扉の向こう側に立っていた。


「待っ……」


 私の言葉は、重い扉の軋む音に遮られ届かなかった。こんな油もさしていないような扉もありえない。


 ――何が、王太子殿下の婚約者だ。


 そう、わめいてやりたかったけど、ハンナとミヨの視線を感じてぐっと我慢した。彼女たちにこれ以上不信感を与えるわけにはいかない。

 敢えて私に言ってはこないが、リストカットのことですら色々と思うところがあるだろう。

 軽く目を瞑ってからゆっくりと開きなおした。そうして、静かに二人の方へと顔を向ける。


「先生は一体何をおっしゃっているのかしらね?」


 ほんの少しだけ口の端を上げ、柔らかに微笑めば、彼女たちのほっとしたような声が漏れた。


「ゆっくりとお休みになった方がよろしいということですよ、リリー様」

「そうですよー。こっちに来るのだって、馬車で五日もかかったんですからね。姫様はお身体が丈夫じゃないんですから、休みましょう」


 テキパキと診療の為に動かしたテーブルなどを元に戻し始める二人の姿を見て、ガラの悪い言葉をぶつけなくてよかったと思った。

 少なくともハンナとミヨは私のことを心配してくれているのだから。


 まだまだ自分にはわからないことが多すぎる。もう少し慎重にならなければいけないと思う。

 ついリリコットに八つ当たりをしてしまったが、よくよく考えてみれば、百合香であれ、リリコットであれ、今は両方私なのだ。


 私が自分を大事にしてやらないでどうする。


 とりあえず、自分の今の状態を出来るだけ早く理解しよう。思いだせるものは思いだし、そうでないものはからめ手を使ってでも情報を手に入れたい。


 何一つ不都合の無いリリコット?本当にそうなら上等じゃないか。ううん、そうじゃなくても構わない。


 今度こそ私は、絶対に自分の人生を思い通りに生きてやるのだ。

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