身代わり姉妹
「あのう……姫様、本当によろしかったのですか?」
「え、何が?」
アクィラ殿下が足音を大きく立てながら帰ってしまうと、何かが胸の奥のそのまた奥でちりりと鳴ったような気がした。
ほんの小さなそれは、なんという感情の響きなのか?もしかしたらリリコットにならわかるのかもしれないが、私にはさっぱりだ。
そんな風に考えていると、若い方の侍女ミヨが上目遣いで尋ねてきた。
半年前から私たち公女に付いてくれている彼女の、黒髪に茶色の瞳といった見た目が、懐かしさを感じさせてくれてホッとする。
「何がって、そりゃあアクィラ殿下怒らせちゃったじゃありませんか。大丈夫ですか?……やっぱり姫様おかしくありません?」
最初の方は私に、だけど後半はもう一人の方の侍女、ハンナに向けていた。
「リリー様はまだ混乱していらっしゃるのよ。それよりも、あなたの言葉遣いの方が問題ですよ、ミヨ」
「はーい、ごめんなさい」
「ミヨ!」
茶色の髪を引っ詰めた少し神経質っぽいハンナは、私とメリリッサの乳姉妹だ。
小さな頃からいつも私たちと一緒にいて、いつの間にかそのまま公女付きの侍女の職についていた。
今回私がこちらへ輿入れするになった時、多くの公女付き侍女の中で、この二人だけがメリリッサではなく私の方へとついてきてくれたのだ。
よし、この二人のことは大丈夫、覚えている。けど……
「混乱……確かにそうかも」
私の今の状態は、まさしく混乱といっていい。
こういうのって、なんだったけ?ああそうだ。確か、転生?施設に居たとき、比較的仲の良かった子に借りた本の中に似たような話があった。
あれは異世界に生まれ変わった主人公がすったもんだした挙げ句、新しい人生を恋人と生きていくなんて物語だった気がする。
まさか自分の身にこんな事が起こるだなんて全く、欠片も、夢にも思っていなかっただけに想像外過ぎて既にアップアップだ。
ちょっとあらためて、吐きそう。
うん。一度きっちりと思い出せるところまでは振り返ってみなければいけない。
「少しお休みになられますか?宮廷医の診療は遅らせてもらいます」
アクィラ殿下は形だけでも体裁はとってくれたようで、先ほどの帰り際に『後で宮廷医を遣わせる』と言っていた。きっとそのことだろう。
小さな呟きだというのに、きっちりと聞きとったハンナは優秀な侍女だ。
「そうね、お願い。一人で大丈夫だから、二人も少し休んでちょうだい」
そう言って布団に潜り込み目を瞑る。今度はハンナもミヨも驚くような素振りを見せなかったから、リリコットとしては合格だな。
そんなふうにホッと息を吐くと、本当に眠るつもりはなかったのに、だんだんと夢の中へと落ちていく感覚に溺れていった。
***
「私ね、ロックス様と寝たわ」
メリリッサは何を言っているのだろう?
けれど、そう思いながらも『ああやっぱり』とも思っている自分もいた。
ロックス・ロー・ガランドーダ王太子殿下は、近隣諸国から一目置かれているほどの大国、ガランドーダ王国の王太子。
そして私、リリコット・カシュケールと先月婚約の儀が調ったばかりの方だ。
「メリリッサ、あなた何を言っているのかわかっているの?ロックス殿下は私の婚約者なのよ。第一、あなたにもアクィラ殿下という立派な婚約者がいるじゃない……」
「はっ!あんな小国トラザイドの?なんで私があんなチンケな国で、あんたがガランドーダみたいな大国の王太子なのよ、おかしいじゃない。私の方が第一公女なのに」
そもそも私たちのモンシラ公国は、トラザイドよりもさらに小さな国だ。
元々近隣の国と姻戚関係を結ぶことによって、なんとか成り立っているような国であるから、本来隣国との婚姻は願ってもないことのはず。
イレギュラーはむしろ、ガランドーダ。
彼の大国のロックス王太子殿下が、公務で立ち寄った際、何故か私に一目惚れしたと伝えられ求婚された。
容姿こそ双子のメリリッサとほとんどの人間が区別できないほど似ているが、身体が弱く、愚鈍でひねくれた性格と言われている私にとっては望外の僥倖なのだろう。
しかし、とんとん拍子で調った婚約に、なんとなく座り心地の悪さを感じてもいた。
そんなところに、このメリリッサの告白だ。
「……本当に?ねえ、結婚前なのよ」
たとえ婚約者でも、結婚前に純潔を散らしたなど公言するものではない。しかも、それが妹の婚約者とだなんて……普通じゃない。
ぐっとドレスのスカートを握りしめていると、それは楽しそうに顔を歪めながら話しかけてきた。
「だって仕方がないじゃない、ロックス様に求められたのだもの。断れないわ」
「えっ!?」
「ロックス様はとても情熱的だった……ふふっ。それでも最後には私の体をとても心配していたの」
「メリリッサ……?」
「ずっと、大事にするって約束して下さった。だから、私決めたのよ、あの方についていくって」
「メリリッサ!」
恍惚の表情で歌うように語る彼女の名前を強く呼んで止めた。なのに、どれだけ力を込めてもメリリッサには届かなかった。
そうして私に向かい、口の端を大きく上げてこう言い放ったのだ。
「イヤねえ。私はもうリリコットよ。だって、ロックス様がそう呼んでくれたのだもの。ねえ、メリリッサ」
***
――――っ……はっ!はっ、はぁ……
随分ととんでもないことを思い出してしまった。
あれはヤバい。そりゃあ、メリリッサはこちらへ輿入れ出来ないわけだし、私だってロックス様のところへ行くわけにはいかない。
背中にじっとりと汗が滲んでいるのがわかる。
ひと休みするといってから、どのくらいが経ったのだろうか?随分と熟睡してしまったようにも感じるけれども、部屋に入り込む明かりをみても、そうたいして眠っていたわけではないみたいだ。
ベッド脇のサイドテーブルに置いてあった水桶にタオルを突っ込み、固く絞ったそれを額に乗せた。
「あー、気持ちいいー!」
汗が気持ち悪いと、そのタオルでごしごしと顔を拭く。
行儀は悪いがそのまま首や肩、寝間着の首もとから脇の下まで手の届く範囲を拭いてようやく少しすっきりした。
「まあ、リリー様!そのようなこと私がいたします。どうぞ、お呼び下さいませ」
「あ、ハンナ……気持ちが悪かったから、つい」
決まり悪く、舌をぺろっと出して言い訳をすると、彼女はまた微妙な表情で私を見つめた。
うん、また余計なことをしてしまったわ。多分リリコットは舌を出すだなんてことはしないのだろう。
視線を合わせないように窓の方を見ていると、ハンナは黙って私の手から濡れタオルを受け取り、水桶に浸ける。
「お背中をお拭きいたしましょうか?新しい寝間着もお持ちしました。汗をかいたでしょうから、お着替えもいたしましょう」
その言葉に黙って頷く。今の立場だとやってもらって当然なのだろうが、それでもなんとなく気恥ずかしい。
私はケガ人、私は病人。
だから、そう呪文のように心の中で呟いてごまかす。実際、病院勤務での清拭は当たり前のことなので、病人になりきるのだ、と。
そうして、もう一度窓に視線を移す。すると、カーテンのレースがひどくほつれているのが見て取れた。
なんであんなところが?そう思いながら部屋の中をきょろきょろと見回すと、今まで気がつかなかったが、あちらこちらと色々な不自然さに気がついたのだ。
まず、部屋が狭い。百合香の1K並みとは言わないが、朧気な記憶を辿ったリリコットの自室の半分以下の広さというのはどうなんだろう。
さらには内装が酷い。カーテンレースもボロだけれど、テーブル、椅子、このベッドにしてもお世辞にも良いものとは言えない。好意的に解釈するなら使い込まれたとでも言うのかもしれないが、大きな傷や脚の修復部分が丸見えの家具など、とてもでないがそんなふうには思えなかった。
まさか本当にこれが、トラザイド王国の王太子殿下の婚約者の部屋なのだろうか?
一応未来の王妃様になるはずの私にあてがう部屋がこれ?
嫌ーな予感が背筋を走る。せっかくハンナに拭いてもらった汗だけれど、もう一度お願いしたいと思ってしまった。