約束
そのまま泣き潰れるまで泣いて過ごした結婚一日目の夜は、申し訳なくなるほど何もなく過ぎてしまった。
昨日のことはまるでドタバタとした劇の中の出来事のようだと思う。
それでも、あれらは確かに現実として起こったことで、結婚の儀という本来なら晴れがましい日に、私はたった一日で、自分の父親と姉、そして乳姉妹の存在というものをなくしてしまったというのも事実だった。
あんなに楽しみにしていた温泉も、自分が刺されそうになった場所でハネムーンなんてと考えてしまったのも気分が乗らない一因である。
「ここにいてもしばらくは辛いだけだろう?」
アクィラ様の、私を慰める言葉に甘えて頷く。
けれどもあれだけ市街地で派手に祝福されながら通って来た身としては、やっぱり王宮に帰るとか言い出したら、新婚早々不和の噂が流れそうで怖い。
そんな理由で、人目を避けるためアクィラ様と二人、二輪馬に乗りながら王宮へこっそりと帰ることとなった。
前世でも施設の年下の子以外とは二人乗りをしたことがない私としては、後ろに乗る方が難易度としては高い。
とはいえ、私たちはすでに夫婦なので、思い切ってアクィラ様の背中へと張りついた。
「二人で乗るというのもなかなか楽しいものだな」
「ええ、でもアクィラ様。私、重くありません?」
二輪馬は全体が鉄で出来ている上に、車輪にゴムがついていないので、そこそこ重く振動がダイレクトに来る。
横乗りで乗っている私もそれなりにお尻が痛いけれど、運転している方はそれ以上だろう。
「いや……ああ、そうだな。それに関しては、今日の夜が過ぎたら答えることにしておこう」
「はっ!?……や、ばかぁっ!」
暗に、その……のことを言われていると思い、アクィラ様の背中を押す。
すると、珍しく慌てたアクィラ様は、うわっと叫びながらハンドルをきった。
「リリー……」
「ご、ごめんなさい……っ、でも、アクィラ様だって悪いんだもの」
あまりに見事に木の根の間にはまり込んだ二輪馬の車輪。なんだかどちらが悪いとかどうでもよくて、思わず笑いが込みあげてきてしまった。
くすくすと笑う私に呆れながらも、アクィラ様は胸のチーフを取り出して近くの切り株の上に掛けた。
「ちょうどいい、少し休んでいこう。そのうち先に行ったイービスか……いや、ヨゼフがすぐに迎えに来る」
昨晩、少し早めに退出したアクィラ様とイービス殿下は、あの二輪馬に乗って王宮から離宮までショートカットしてやってきてくれた。
しかし驚くことにヨゼフだけは、自力であの距離を、二輪馬と同じ速度で走り切ったということだった。
なんというか、すごいとしか言えない。さすがの体力オバケだ。
そしてその規格外の男と、二輪馬では一番早いと自信のイービス殿下が競争だ!と言い出してとっとと走っていってしまったために、新婚の私たちがのんびりとこうやって自転車デートのような状態になっている。
まあ多分勝つのはヨゼフで、すぐに戻ってくるのもヨゼフだろう。
だったら少しくらいは二人っきりでいるのも悪くない。
アクィラ様の言葉に頷き、切り株に腰を下ろした。
木陰から落ちる太陽の欠片のような木漏れ日を見ていると、ちらちらと目の端を光が走る。
隣に座るアクィラ様をうかがえば、金色の髪がその木漏れ日に反射して、よりいっそう輝いていた。
のんびりとしたその空気に浸っていると、不思議と肩に入っていた力が抜けてくるような気がした。
そうして、昨日から聞いてみたいと思っていたことを尋ねた。
「ハンナを怪しいと考えたのはいつ頃でしたの?」
申し訳ないが、記憶が全て戻るまで、私はハンナのことを怪しいなどと思ったことがなかった。
感情の起伏はすくないけれど、いつも私のことを気にしてくれている、立派な侍女だとばかり思っていたのだ。
「そうだな、まずおかしいと思ったのは、あの悪公女の噂が、下働きのあたりで多く発生していると報告を受けたことだ。リリーを煙たがっていたアウローラ周りの侍女たちは皆、家に帰ればそれなりの令嬢だから、下働きの者と話を交わすことはまずしないだろう」
ああ。あのドーラという侍女も、ナターリエ様にはへこへこしていたが、それ以外のところで見ていた姿は随分と気位は高そうだった。
「ハンナはリリーの世話のために、下働きの者とも直接話すこともあったからな……それに、リリーのためと言いつつも、問題が起こった時ばかり嬉しそうに笑うような目つきが気になった」
「全然気がつきませんでした……」
「決定的になったのは、ファルシーファ嬢のあれが無くなっていたことだろう。あれに手を出せたのは、リリー以外では三人だけだ。その上、あれが重要なものであるかもしれないと疑うのは、ハンナしかいない」
朝、出掛けにミヨが話した疑惑はもっと直接的で細かかった。
持参金はともかく、宝石は多分ハンナがモンシラに捨て置いてきたのだろうと言っていた。男爵に調べてもらったら急に金回りがよくなり、仕事をやめた侍女がいたそうだ。
それから、リーディエナの刺繍のテーブルクロスも一番質の低いシーツの間にあったのも気になっていたらしい。
後から、アクィラ様との思い出の刺繍だと聞いてからは、リリコットがそれほど大事なものを、そんな所に仕舞う訳がないと考えたという。
それを聞いて、なんと私は運がいいのかと思った。
偶然とはいえ、覚えてもいなかったテーブルクロスを見事に探し出し、その上アクィラ様の目の届くところへ使っていたとは……
そんなことを考えながら、もう一度アクィラ様の顔を見つめる。
すると、重なった視線の先にある緑の瞳が柔らかに弧を描いた。
「ところで、リリー。君は昨日から私のことをなんと呼んでくれているのかな?」
「っ……ええと、アクィラ……様、です」
どもりながら答える私に満足したアクィラ様は、優しく肩に手を置いた。
そうして一つせき払いをする。
「ということは、全てを思い出したと言うことでいいんだな、リリー」
ああ……やっぱり、気がつかれてしまった。私がアクィラ様のことを殿下と呼ばなくなったのは、結婚したからという理由だけではない。
そう、実は私が思い出したのはあの日のリストカットに見せかけたハンナによる傷害だけではなかったのだ。
つまり、それは自転車にそっくりの二輪馬にも関係することで……あー、つまり。
ええいっ!
「私、あの時……あの、初めて出会った時、アクィラ様に、他の世界の記憶があるって……言いましたよ、ね?」
「ああ、言ったな。なんてバカなことを言い出すのかと、本当に呆れた……だが、それ以上にリリーの語り出した世界に憧れもした」
そう。私こと、リリコット・カシュケールは元々、最初から千代崎百合香としての記憶を持って生まれてきていた。
とはいえ小説で読んだ話のように、多分十八歳で亡くなっただろう百合香の記憶が生まれた時からあった訳ではない。
ものごころついた時から、その年頃の記憶をなぞるようにして思い出していた。
つまりは、リリコットが五歳の頃は百合香の記憶も五歳まで、そしてアクィラ様と出会った八歳の頃は百合香の記憶も八歳までしか思い出していなかった。
四歳になった頃には、メリリッサにもその前世の話をしたことはあったけれども、お互いに小さすぎたせいか、私も上手く説明できなかったし、彼女も理解しきれなかった。
それどころか随分と頭が変だとバカにもされた。
だからそれ以降は、他の人に前世の話は一度もしたことなどなかったのだけれど……
初めてメリリッサではなく、私自身を見てくれた男の子。
そして、初めて私が好きになった男の子。
そんなアクィラ様と話を楽しんでいる内に、ふといたずら心から、前世で乗っていた自転車の話をしてしまった。
今思うと、ものすごく恥ずかしい。
こんな乗り物があるんだと、はしゃいで教えると、思っていた以上にアクィラ様は関心を示した。
どんな形だ?仕組みは?素材は?などという、あまりの突っ込まれ具合に答えられなかったわたしは、とうとう前世について告白をしてしまったのだ。
「じどうしゃとやらの話も興味深かった。燃料や動力の仕組みなど、まだまだ考えることだらけだが、いくつか設計案を出させている途中だ」
本当に有能だ。八歳の子どもの描いた絵と話だけで、自転車を作り上げ、なおかつ自動車まで手を出し始めていると知って驚く。
その間私と言えば、メリリッサに川へ落とされた後の混濁の中で、百合香としての記憶を閉じこめてしまっていたというのに。
「でも、私はこの八年間、ずっと百合香のことを思い出せないでいました」
懺悔のように語り出す私を、アクィラ様は黙って見守ってくれる。
つまり私は、メリリッサとハンナのせいで、十歳からトラザイドへ来るまでの八年間、百合香としての前世の記憶を丸ごと失っていたのだった。
アクィラ様のことはちゃんと覚えていても、百合香が語ったことを思い出せなかった。
リリコットであることは確かなのに、自分が自分でないような感覚。
この八年間ずっと、そうして怯えていた。だから、そこをつけこまれた。
それも、全部思い出した。
もしも十歳の私が、百合香としての記憶を無くしていなかったのなら、あんなふうに彼女たちに踏みつけられて泣き寝入りするようなことにはならなかったはずだ。
「なんだか自分がとても情けなく感じてしまいます」
自嘲するような言葉をぽろりとこぼしてしまうと、アクィラ様は珍しく唇を尖らすような表情を見せる。
「情けないというのなら私も同じだろう。国同士の思惑があるとはいえ、幼い婚約時に何も出来なかったとしても、成人してから行動しようとしなかった私の方がどうしようもなく情けない男だ」
そんなことは、そう伝えようとした唇を指で止められた。
「だからこれからは二人、何があってもお互い支えあおう。二度とリリーを傷つかせるようなことはしない。そしてもう一度……一生愛し合うと約束をしよう」
アクィラ様の真っ直ぐな気持ちが、私の心にストンと落ちる。
「……はい。何度でも約束します。アクィラ様」
木漏れ日のシャワーの中で目を細めると、自然にアクィラ様のきらきらと輝く顔が近づいてくる。
そのまま吸い込まれるように瞳を閉じて、約束のキスをした。
長いキスの途中、木の葉が風に揺れる音に混じって、私たちを呼ぶ声が聞こえてきた。
きっと、ヨゼフやカリーゴ様だろう。そしてイービス殿下、もしかしたらファルシーファ様や、ミヨも混じっているのかもしれない。
アクィラ様と顔を見合わせる。仕方がないなと苦笑いしながら、立ち上がった。
「さあ、行こう。リリー」
「はい、アクィラ様」
手に手を取り、二人いつまでも一緒にと、木漏れ日の向こう側へ足を踏み出した。
~終わり~
ありがとうございました。




