真実
カシャッ!小さくガラスの割れる音。
……あれは、水差し?いいえ、ティーポットなのかもしれない。
回らぬ頭でそんなことを考えていると、誰のものかわからない足音がベッドへと近づいてきた。
「……リリー様、もうお休みですか?」
厚めのレースが下ろされたベッドの上からは、その者の影がうっすらと映るだけで姿自体ははっきりとしない。
その影も敢えてレースは引かずに、中の横たわる人影だけを確認しているようだ。
けれどもわかる。この声の主は――
「お休みのようですね……ああよかった。レールチコリのお茶がよく効いたようで安心しました。こちらでは生葉が手に入り辛かったものですから少々苦労いたしましたが、こうしてリリー様へと差し上げることができて、大変うれしく思います」
今まで聞いたこともないような、跳ね上がりそうに嬉しそうな声。
「休日に裏街道まで足を伸ばした甲斐がありました。モンシラから持ち込んだレールチコリの生葉はあの日に使い切ってしまいましたから。ふふ、本当によくお効きですね……覚えておいででしょうか?あの日、リリー様が王太子殿下と王妃殿下のもとへ、あの刺繍を持っていかれるとおっしゃった日ですよ」
間違いであって欲しいと思いながらも、そうなのだろうとわかっていた。
だって、私は思い出したのだ。全部、全部。
「私、本当に困りました。そんなことをしたら……私の可愛いくて、そして、とてもとても可哀想なリリー様が――幸せになってしまうではありませんか」
この、声は……ハンナ――私の、乳姉妹。
「だから、レールチコリのお茶を飲んでいただいて、私が、お風呂の中でリリー様の手首を切ってさしあげましたのよ」
はっきりとそう告白したハンナの声は相変わらず楽しげだ。
それから一拍だけ置いて、ハッ!と気がついたように一人自問自答する。
「もしかして生葉が古くなっていたせいで、記憶を全て無くしてしまったのかしら?せっかくレールチコリで混濁している間に、私が慰めてさしあげようとしたのに。あんな……昔のリリー様のような態度を……」
ギリっと歯ぎしりが聞こえる。ハンナはよほど記憶をなくしてからのリリコットがお気に召さなかったようだ。
その理由が、昔のリリコットのようだからというのも単純だけれど、わからなくもないと思った。
「さあ、そろそろおしゃべりはこの辺りでお終いといたしますわね、リリー様。先ほど街中の方角から大きな歓声が上がりました。王太子殿下がご出発なされたようですよ。……ですから、そろそろご準備いたしましょう」
その言葉と同時に、キラリと光るものがレースのカーテン越しに見てとれた。
「到着されたら驚かれるでしょうね。リリー様が、賊どもに胸を刺されて倒れているなど……ああ、大丈夫ですわ。見るに堪えないような酷い傷は残りますが、でも絶対にお命にはかかわらないようにいたしますから」
安心して私の胸の中でお泣きになってくださいませ!
高笑いとともに振り上げられたナイフが、レース越しに横たわる者の胸を貫こうと降りてきたその時、鋭い声が走った。
「イービス!」
ザクっと音を立て切り裂かれた枕から、羽毛が舞い上がるように飛び散った。
そしてその舞い散る羽の中には、天蓋の引きちぎられたレースに絡まりベッドに押し付けられているハンナと、金の長髪のカツラが半分ずれ落ちそうになりつつも彼女の腕と首を押さえつけている、ドレス姿のイービス殿下。
「リ、リリー……様……?」
驚愕の表情でハンナが見つめるその先は、ベッドの真反対側で息を殺し、アクィラ様に肩を支えられていた私の顔だった。
***
「リリー、飲めっ、それから吐くんだ!」
最初のガラスのようなものが割れる音と共に飛び込んできたのは、息を切らしたアクィラ様だ。
ベッドの上で唸る私を横抱きにして、バルコニーへと運ぶと手にした瓶のようなものを口に入れられた。
アクィラ様の言う通りに、それを無理にでも飲めるだけ飲み、自然と胃からせせり上がってくるものをそのまま吐き出した。それを数回続け、ようやく瓶の中身がなくなったことで解放された。
まだ頭はぼやっとしているけれども、手は動く。足も、それから、この瞳だって……
ゆっくりと顔を上げ、アクィラ様の瞳と視線を合わせると、ほっと息をつき私をぎゅっと抱きしめた。
「よかった、リリー。意識はあるな」
「アクィラ殿下……汚れて、しまいます……」
客観的にも私の今の状態は酷いものだろう。けれどもアクィラ殿下は全く気にしないと言わんばかりに、逆にその腕の力を強める。
「構わない。どうせ私とて、見られた姿ではない」
その言葉につられるようにアクィラ様を見れば、髪はぼさぼさだし、披露パーティーで着ていたジャケットは、葉っぱや木くずが張りついているしところどころほつれたような痕もある。
「……もしかして、二輪馬で……来られたの、ですか?」
考えられることといえば、あの自転車によく似た乗り物しかない。
あの二輪馬ならば、わざわざぐるりと市街地を回らなくても誰にも見つかることもなく、そして慣れれば馬車よりも早く、王宮の敷地内から直接離宮へと来ることが出来る。
「ああ。最高のラップタイムで到着した」
こんな夜に、月明かりも届かないような木々の茂る小道を走らせてくるだなんて、危ない真似をして何かあったらどうするのかと、お説教が浮かぶけれども口からは出てこない。
代わりに零れたのは、喜びの声だった。
「アクィラ様……ありがとう、ございます。駆けつけてくれて、嬉しい」
一瞬、ピクリと反応したアクィラ様が、さらに私を抱きしめる力を込める。
「リリー、リリー……君は」
アクィラ様のその言葉の続きを聞く前に、夜のバルコニーからもう二人分の影が映る。
「アクィラ殿下……いつまでもここにいては、姫様のお身体に障ります」
「兄上ぇ……そろそろ準備をしないと。仕掛けられないよ」
ヨゼフ……それに、イービス殿下?
なんと、今まだ披露パーティーに出席しているはずの二人が、目の前に立っていたのだ。
しかも、アクィラ様と同じように、葉っぱを貼りつけ、汚れた格好で。
「あ、リリコット義姉上、衣裳部屋に失礼します。師匠がルカリーオ商会伝いで、今日の義姉上のドレスと似たようなヤツとカツラを届けてあるそうなんで、お借りしますね」
え……それはいったいなんのために?
……そう尋ねようとすると、アクィラ様が私の手を取って諭すように優しく囁いた。
「証拠を確かなものにするために、イービスには囮になってもらう」
そうしてイービス殿下が急ぎ私に成り替わって、ベッドへと横になったのだ。
***
「ハンナ、申し開きしたいことがあれば言え」
ベッドの裏側で、私とアクィラ様を護っていたヨゼフは、イービス殿下がハンナの捕獲に成功するとすぐに、彼女を拘束する役目を交代した。
まるで氷のように冷たく、尖った言葉がヨゼフの口からハンナへと叩きつけられるが、ハンナは無表情で無言を貫き通す。
その間に、イービス殿下がミヨや護衛の騎士たちの様子を確認しに行き、頭をふらつかせながら歩くミヨを連れてきてくれた。
「あっちはだいぶ落ち着いていたよ。初めから師匠の言う通りに動くようにと言っておいたから、忠実に守っていたようだったね」
「ふわぁー。あっちの部屋はレールチコリを香に混ぜてたみたいですねえ。念のために濡らした布でカバーしましたが、結構効きました。ちょっとふらふらしますぅ」
つまり、ミヨや騎士たちも眠らせ遠ざけておいて、その間に私を傷つけようとしていたのだ。
しかも、賊に襲われたかのような小細工も見つかったらしい。ここまで計画的な、王太子妃への暴行未遂はどう取り繕ってももうなんともならないだろう。
憮然とした表情を変えることなく前を見つめるだけのハンナ。
ずっと、ずっと、小さな頃から私とメリリッサの乳姉妹として一緒に育ってきたハンナ。
どこで、どう変わってしまったのか……それを、私は、私は全部思い出した。
あの、レールチコリの混濁の中で――
「ハンナ……」
私が彼女へと声をかけると、それまで全く感情を露にしなかったハンナの口元が上がる。
「あなたは私を傷つけようとした、このトラザイドの王太子妃の体を。私はそれを許すことは出来ないわ」
「リリー様……リリー様はリリー様以外の何者でもありませんわ。私の可愛い、可哀想なリリー様です。ほら、思い出してください。初めて私がリリー様を抱きしめて慰めた時のことを……あんなに怯えて、震えながら、ハンナ、ハンナと呼んでくださったでしょう?ほら、あの……」
「メリリッサへ川に落とされた時?」
「ええ、ええ!ああ……やっぱり、リリー様は私のリリー様……」
「違うわ、ハンナ」
喜びに打ち震えた表情を浮かべたハンナが、一瞬で真顔に変わる。
そう、違う。あの時、私が怖かったのはメリリッサではない。
溺れて、必死に手を伸ばしたその先で、今にも死んでしまいそうな可哀想な生き物を見つめ恍惚とした表情を浮かべたハンナが恐ろしかったのだ。
でも信じたくはなかった。そんな目で乳姉妹のハンナが私を見つめるわけがないと。
だから、あの時足の手術のためのレールチコリの麻酔の混濁の中、私は記憶の一部を閉じ込めた。
ハンナのことを病気だと疑い、訴えようとした自分のことを。
それがきっかけとなり、リリコットはどんどん内向的になりハンナへと依存していった。
メリリッサに虐められればいつでもハンナに泣きつき、そして慰められた。
その関係が大きく崩れたのは、私がメリリッサに代わり、トラザイドへ嫁ぎに来たことだった。
二度と叶うことがないと思っていた初恋の人をだますことの葛藤。
そしてやっぱり私を認めて欲しいと思う気持ちの高ぶり。
それら全てを受け入れると、もう私がリリコットであるということを黙ってはいられなくなった。
「しばらく悩んでいた私が、アクィラ様のところへあの刺繍を持っていくと決めたと話した時、あなたは言ったわ。『お約束を取っておきます。今日のところはゆっくりお休みして明日に備えましょう』と。でも……その後記憶は途切れた」
さっき思い出すまで、すべて忘れていた。
お風呂に入る前に、いつものお茶をもらって、そしてそこからのこと……
声が詰まる私の代わりにアクィラ様が処分を告げる。
「すでに証拠は山のようにある。王太子妃への暴行罪だ。死刑にすべきかどうかはこれから決めるが、少なくとも一生牢から出すつもりはない」
その言葉に慌てたハンナは私に縋りつこうとしたが、ヨゼフにがっちりと捕まえられ両足を床につけていては絶対に無理だろう。
「リリー様っ!わ、私は……ああ、おいたわしい……リリー様、こんな、リリー様のことを一番愛しているのは私だと言うのに……こんな、こんな」
「ハンナが愛しているのは私じゃない。可哀想な私を愛しているつもりで自分を愛していたのよ。あなたはそういう病気なの」
ハンナの戯言を斬って捨てる。すると、一瞬呆けた顔を、醜く歪ませて私に向けた。
「ふっ、は、ははは。ああ、それではよろしいでしょう。お可哀想なリリー様。私はあなたのせいで牢に入れられ、処刑される。どうですか?悲しいでしょう?痛いでしょう?ずううっとその痛みを胸に抱いて泣いて下さい。私は、そうお可哀想なリリー様のことを考えただけで、世界で一番――」
「傷つかないわ」
「え?」
「私はもう、傷つかない。ハンナの病気はハンナのものよ。メリリッサだって同じこと」
他人からつけられた傷で泣くことなんかもうしない。
力を込めてハンナを見下ろせば、彼女は何も言葉を発せなくなっていた。
「引っ立てろ」
アクィラ様の命がかかると、どこからともなく部屋に入って来た騎士が、ヨゼフに代わりハンナを連行していった。
私は、彼女の姿を最後までずっと見送る。もう二度と会わないだろうハンナの姿をずっと。
「リリー」
ハンナの姿が部屋からなくなると、アクィラ様が私の目尻をそっと拭う。
自分でも知らなかった。いつの間に涙が流れていたんだろう。
「傷つかないのだろう?」
「……っ、あ、そうじゃなくて……その、これは、みなさんに随分と迷惑をかけたから、だから……申し訳なくって」
「そうか」
割れたガラスに、びりびりの天蓋ベッド。枕からはみ出した羽毛があちらこちらに散らばったままの部屋。
気がつけば、イービス殿下もヨゼフも、侍女であるミヨですら姿を消していた。
誰もいなくなったその部屋で、アクィラ様がもう一度私を抱きしめてくれる。
「ならば好きなだけ泣いておけ。今だけは、私だけだ」
その言葉を素直に受け取って、アクィラ様の背中に腕を回した。
そうして、本当に最後だと心に決めて、涙が枯れてもうでないというまで泣き続けた。
本日21時過ぎに最終話を更新します。




