アイ・フェイク・ミー
「姫様―、そろそろですよぉ」
「う、うん。いえ、ええ。わかって、いるわ、よ」
「でー、アクィラ殿下は姫様が出発されてからぁ、一時間後に王宮を出てこられるんでしたよねえ」
「そのご予定です」
ミヨのわかりきった質問に、ハンナが無表情で答える。
夜半まで続く予定の披露のパーティーも、主役である私たち二人は最後まで参加するものではない。
新婦となる女性が一足先に退出し、ある程度時間を置いてから新郎が、その……二人の寝室へと足を運ぶのが、この世界の、貴族以上の結婚式での普通、らしい。
らしいのだけれども、私がまた上手いことアクィラ殿下の提案、つまり離宮で温泉に乗ってしまったため、こうして先に馬車に乗り離宮へと向かう羽目になってしまったわけである。
パレードの時とは違い幌無しではなく、黒塗りのボックスタイプの馬車は、窓をふさげば外からはわからないはず。
……だったけれども、その馬車に描かれている紋と警護の人数と離宮という行先で、誰が乗っているかなど一目瞭然だったらしい。
「でも、姫様の時ですらこの様子だしー、アクィラ殿下がご出発―っ、なったらもの凄いことになっちゃいますねえ」
くっ、うう。そうなのだ。
王太子の結婚の儀を祝う街中の喧騒は、日をまたいでも続くのが当然のようで、馬車に向かい沿道のあちらこちらから、妃殿下万歳だの、頑張ってお励み下さいだのはしゃぐ声が聞こえてきた。
その上、途中の広場では手筒花火のようなものまでが鳴らされた。
これがもし、アクィラ殿下の場合だとしたら……
ううう、国民の気持ちは、公女としてわからないわけではないけれども、百合香としての記憶もある私としては、恥ずかしく穴に入りたいくらいだ。本当に勘弁して欲しい。
なんであんなに簡単に、離宮で温泉を受け入れちゃったのだろうか。失敗した……
頭を掻きむしりたいほどの衝動を抑えていると段々馬車のスピードが緩んでくるのがわかる。
夜だというのに思ったよりも時間のかかった道のりだったが、そう焦ることもないかもしれない。通常は四十分くらいの道のりだと聞いていたが、私たちですら十分オーバーだったので、あの様子だと、アクィラ殿下がここにたどり着くには軽く一時間以上はかかりそうだ。
その間に私は支度を済ませて待っていればいいだけ……
と、その待つ時間が一番居たたまれないけれど、本当にどうしようか。
赤くなる顔を抑えながらゆっくりと、足を踏み外さないようにと、呼吸を整えながら馬車から降りることを心掛けた。
「そういえばヨゼフは後からアクィラ殿下と来るんでしたっけ?」
「え?ああ、そうよ。ボスバ領のマリス卿も披露パーティーへいらっしゃっていたから、一緒に挨拶に回る時間を与えたの」
騎士爵を賜ったヨゼフがマリス卿と親類関係にあるということは、王室にとってもボスバ領の統治が順調だと言う証明にもなる。
そのためにも、渋るヨゼフに無理矢理苦手な挨拶回りを押し付けた。離宮とはいえ王室の持ち物だけに、周りの警備は万全だ。蟻の子一匹とは大げさだが、侵入者の心配はいらないと、アクィラ殿下も諭してくれた。
「じゃあうるさいのがいないうちにー、とっととやっちゃいましょうか」
「やっ……、その言い方どうにかしなさい、わっ!」
私の声も振り切り、いつも以上にテンション高く張り切るミヨが、勢いよく離宮の扉を開け放った。が、
そのミヨの謎の行動力も、ハンナの凍るように冷たい制止には敵わない。
「ミヨ、引きなさい」
「ええー、でもぉ」
「リリー様は、私がお部屋までご案内いたします。あなたはまず護衛の騎士の方々を待機室に集めておきなさい。私から一言話しておきたいことがあります。わかりましたね」
一方的に喋り、ミヨの返事も待たずに私へと振り返る。
そうしてハンナにしてはとても珍しいほどの笑顔を見せた。
「それではリリー様、お部屋にご案内いたします」
馬車の中までの無表情が、全くの別人のように思える。あまりの豹変に驚きはしたものの、ハンナも今日のこの日を緊張していたのかと思えばおかしくはないのかもしれない。
ミヨだって、いつも以上にハイテンションだった。
それに、今日はあまりゆっくりハンナと話す時間もなかったから、今のうちに今までのお礼もしておきたい。
「そうね、ハンナ。お願いするわ。ミヨは騎士の皆さんへ飲み物を出して、少し待っていてちょうだいね」
「……はぁーい」
口を尖らして返事をするミヨを、手のひらでなだめてハンナの先導に従った。
離宮は以前カリーゴ様に視察という名目で連れてきてもらった時と全く変わらず美しい。掃除の行き届いた廊下には、ランプが灯され足下までしっかりと見えて歩きやすい。
ただそれでも、夜ともなると人気が少ないため、少しだけ怖くも感じる。
これは人としての本能だから仕方がないと考えつつも、やっぱり早くアクィラ殿下に来て欲しいなと思ってしまった。
「どうぞ、こちらになります」
廊下の端、奥まったところにある一際豪華な扉の前でハンナが礼をする。
厳かに、そしてとても丁寧に扉を開けると、ふわりとリーディエナの花の香りが漂ってきた。
きっと、アクィラ殿下の采配だな、とにやける顔を抑えつつ、部屋の真ん中にどどーんと置かれた存在感のある大きなベッドをちらりと覗けば……
よかった、普通だ。花びらは撒いてなかったよ。
濃いベージュのアンティークな柄のカーテンに覆われ、横一部だけ真っ白なレースがかかっている天蓋付きベッドは、余裕で四、五人くらい寝られそうな大きさだけれども、まあそこはいいや。
そんなことを考えつつ、ほっと一息をつく。すると、ハンナがすでに下働きの者に頼んでいたようで、お茶のワゴンを部屋の隅から持ってきた。
「リリー様、まずはお茶をどうぞ。私は一度ミヨたちと話をしてまいりますので、それから用意をいたしましょう」
「そうね。ハンナ、ありがとう……本当に、いつもいつも、ありがとう」
心を込めれば込めるほど、どうしても感極まって言葉が出てこない。
そんな私の気持ちをわかってくれているハンナは、何も言わずにお茶を差し出してくれた。
鼻をくすぐるその香りから察するに、昔から淹れてくれたと言うお茶だろう。
正直言うとシナモンっぽい香りとその味はあまり好きではない。けれど、せっかくハンナが淹れてくれたのだから、今日だけはちゃんといただこうと思う。
苦手なものは一気に飲み干してしまえとばかりに、ぐいっとあおる。
なんだか、この間よりもシナモンみたいな風味が濃くて胸やけがしそうだ。
ああ、そんなことを考えていると、本当にちょっと気持ちが悪くなってきたような気がする。座っていたソファーから立ちあがると、頭が少しだけくらっとした。
「リリー様?」
「ん……大丈夫」
「お疲れなのでしょう。準備が整うまで、軽く横になられてはいかがでしょうか?」
今日のこの日に、アクィラ殿下へ迷惑をかけてはいけない。
短い時間だけでも休めば楽になれるかな?
ハンナの肩を借りて、言う通りにそのままの格好でベッドで横になった。そうするとほんの少しだけ楽になった気がする。
「では、私は一旦部屋を出ます。すぐに戻ってきますので、どうぞそのままお待ちください」
ハンナの声と扉の閉まる音が、どこか遠くで聞こえたような気がした。
なんだかこんな気持ちの悪さは、前にも体験したことがあるな。昔は体も弱かっただの聞いた覚えもあるから、その時の記憶なのだろうか?
そのまま、足を引っ張られるような感覚がして、思わず足に力を入れる。
落ちる?いや、浮き上がるのかもしれない。
ああ嫌、これも何かの記憶のようだ。それとも現実?気持ちが悪い。
もっと、楽しいことを思い出したいな。
アクィラ、様?と、なにか絵、を描いているのは、私。自転車?
また、ぐるりと回る頭が反対側に突然向く。あ、れは……メリリッサ。川と、落ちる。
怖い、怖い、あの目と……私の、記憶……が……痛い?痛い痛い痛い……手首、が?
待って……私、あの日の私は、いったい?リーディエナ……刺繍、を?
あれは、どこに?誰……に言っている、の?
私は、百合香……いいえ、リリコット……だけれど?
パンっと頭の中で何かが弾ける音がした。それと同時に全ての歯車が噛み合ったのがわかる。
そうだ、私は――
そんな私をからかうように、ぐりんと、再び回転しようとする自分。
待って!今、ここで止まって!
遊園地のティーカップが縦回転を加えたような動きに、込みあげる吐き気を必死に我慢しながら、力を込めたその時、ガシャンと何かが割れる音が聞こえた。
…………なに……だあ、れ?




