魔法使いのかみ
私がミヨを止めようと口を開きかけたその時、後方から地を這うような低い声が響いた。
「ミヨ……いい加減になさい」
うあああ。元々ハンナの声は低めの落ち着いたものだが、たった今聞こえた声はそんなもので形容出来る範疇を超えていた。しかしそのどすの利いた声にビクつく私を尻目に、ミヨは全くもって通常運転だ。
「いやもう、この耳で聞いちゃいましたからね、ホントの話ですよぉ。とはいってもー、ほとんどロックス殿下が怒鳴り散らしててー、メリリッサ様は受け流していたみたいですから、正確には言い争いとは言えませんけど。ねー、ファルシーファ様?」
そうじゃない、同意を求めるな。そもそもメリリッサ呼びが問題なんだって!
そう言いたかったけれども、目の前で正直にそう注意するのもそれはそれで憚られる。どう言えばいいのかとためらっていると、「ええ、確かに」と答えるファルシーファ様。そして、
「どうもリリー公女殿下がこちらで受け入れられているという予想外の状況と、メリリッサ殿への冷ややかな対応に、かなり憤慨していたようです」
メリリッサ殿……今、メリリッサと言った?言ったわよね、ファルシーファ様が……え?と、言うことは……
横目でちらりと覗き見れば、ブルーグレーの瞳が優しく光る。
「はい。昨日アクィラ殿下より、リリー公女殿下のご事情を承りました」
言ったのかいっ。
ええと、アクィラ殿下もそういう大事なことは私にもちゃんと連絡して欲しい。
そして、ミヨのほーらほらといったドヤ顔がなんかイラっとする。
うう、いつの間に二人して話を擦り合わせていたんだろうか?ハンナはこのことは知らなかったようで、驚くと言うよりもむしろ無表情になっていた。
「その……事情と言うのは、私たちの入れ替わりのことよね」
「その通りです。リリー公女殿下こそが真にアクィラ殿下の伴侶となるお方だとも教えていただきました。さすれば入れ替わりなど些細なことです」
ファルシーファ様は護衛の心づもりで介添人を引き受けてくれたのだから、実際この入れ替わりの話は通しておいた方がやりやすいのはわかる。
けれどもある意味これは大きな国家間問題でもあるから、あまり余計なことを知らされ過ぎるのも、ファルシーファ様にとっては逃げづらくなってしまうのではないか。そう思っていたのだけれども、どうなのだろう?
「ファルシーファ様にはご迷惑をかけることになるかもしれません。それでも私に付いてくださいますか?」
「勿論でございます。我が主、リリコット公女殿下」
私のその言葉にファルシーファ様は、笑顔レッスンの成果ともいえる、満面の笑みを浮かべた。
そこまで言ってもらえば私もファルシーファ様の決意を断るつもりもない。ありがとうと答えて、ぎゅっと手を握っていると横からミヨの呑気な声がかかる。
「それでですね、姫様。ファルシーファ様がぁ、姫様にお渡ししたいものがあるんですって!」
「渡したいもの?」
手を握ったままのファルシーファ様の顔を覗き込むと、どことなく気まずい表情が目に入った。
「……その、お守りのようなものだと、思って下さい」
そう言って、ドレスのスカート部分を触ったかと思うと、どこからともなく一枚の用紙をさっと取り出した。
ん?まさか、ドレスにポケットでも付いているの?そんな余計なことを考えつつ、私の前に差し出されたその用紙を開き中を見ると無意識の内に、あっと大きな声を出してしまった。
「どうなさいましたか、リリー様?」
慌てたハンナが珍しく私の横についてそれを覗き込む。けれどもきっとハンナも同じように思っただろう。
「ええと……読めない、わよね」
「……はい」
そう。お守りだと言って渡されたそれは、全く読むことの出来ない文字の羅列だったのだ。
これはどういった意味ととればいいのだろうか。首を捻る。すると、珍しく歯切れの悪い口調でファルシーファ様が説明をし出した。
「つまり、これは……我がラゼロ家に伝わる、秘術でして、その、敵に遭遇した場で、絶対に勝つための、呪文……です。ぜひ、結婚の儀にお持ちください。必ず、役に立ちます」
え、めちゃくちゃ胡散臭いんですけれど?呪文って何?三枚のお札みたいな用途?
この世界魔法なんてなかったわよね……うん、ない。それは確かだ、自分の中にもそんな記憶はないし、ハンナも半目でこっちを見ている。
大体がファルシーファ様自身、そんな曖昧なものを信用するようなタイプではないのは、短い付き合いだがわかっている。
彼女は力こそが全てだと考えている人だ。だからこそこの不自然なお守りがとても怪しく見えるのだけれども……
「よかったじゃないですかー、姫様ぁ。これで、何があっても大丈夫ですよお。なんたって、ラゼロ辺境伯家門外不出の秘術ですからねえ」
いやミヨ、あんたも絶対に信じてないでしょうよ。
オブラートに包みながらそういった意味の言葉を伝えると、ミヨが私の手の中にある問題の用紙を抜き取った。
「いいんですよぉ、だって秘術ですからなんでもありです。それにこれは、ある意味ラゼロ辺境伯家がバックについているっていう証明になるんですからー」
そうして手もちの封筒の中に畳んでしまう。それはそうだけど……あれ?その封筒は見覚えがある。
のし袋のようなそれは、以前私が作って休日のお小遣いを入れて渡してあげたものにとてもよく似ていた。
「ミヨ……その袋、私が作ったものと同じかしら?」
「あ、これっ!実はですねえ、この間の姫様から貰った袋、ルカリーオ商会へ持ってったら、ぜひ商品化したいっていうことでぇ、サンプル第一号です!ちょっとその辺に無い、いい紙を使ってますんで、触り心地が全然違いますよ!おすすめの逸品ですぅ」
ぽんっと渡されたのし袋は、確かに艶々した触り心地の良い紙で作られている。
高そうだなーって、おーい。何を勝手に商品化しているんだか。
「まずは、王太子妃殿下のお墨付きをいただきたいんで、使ってやってくださいな」
本当にミヨは抜け目がなさすぎる。半分脱力しながら、いっそ使用料でも取って借りたお金の返却に当ててやろうかと、不届きなことを考えた。
「でも、結婚の儀のドレスで持ち歩くことは可能かしら?」
そういえば、ウエディングドレスはかなりタイトなマーメイドラインだった。どうやって持ち込めばいいのだろう。
「それは、懐剣を帯剣する為の装飾ベルトを工夫いたしましょう。私が手配いたしますのでご安心を」
ファルシーファ様がそう請け負ってくれた。なら訳の分からない用紙の一つや二つくらい持っていったとしても大丈夫だろう。
うん、と小さく頷く。たとえ気休めだとはいえ、私の為を思って持ってきてくれたものを無下にすることはない。
しかも、ミヨの言う通りラゼロ辺境伯の影響力はこのトラザイドではとても大きいはずだ。
「役に立ちますよぉ。私の勘ですけどねえ、姫様。これさえあれば女狐なんてイチコロです」
ミヨのあやしげな予言を聞きながらドレッサーの上にのし袋を置き、ファルシーファ様、ハンナ、ミヨの順番に顔を合わせていく。
いまだに全てを思い出した訳ではない私だけれども、アクィラ殿下の元に嫁ぎ、王太子妃となるべくための気持ちはすでに固まっている。
だから、何としてもメリリッサの妨害を撥ね退けて、この結婚の儀を滞りなく終わらせなければならない。
「よろしく頼みましたよ」
気持ちを込めて伝えると、三人が美しい礼をしながら「はい」と答えてくれた。
私たちの出来ることと言えば、正直言ってすでにもうほとんどない。後は、アクィラ殿下やヨゼフ、カリーゴ様たちが動いてくれることによって対応するしかないのだ。
だからこそ大きく息を吐いて考える。たとえどんな結末になろうとも、私は私として堂々と儀式に挑む。それこそが、最後まで出来る私のあがきだ。
そうしてゆっくりと沈みゆく夕日に染まり始めた部屋の中で、迫りくる結婚の儀にあらためて決意を固めていった。




