あなたのとなり
ぎゅっと力を入れた拳をほどき、その差し出された懐剣を手に取ろうとしたところ、するっと目の前から消え去った。
あれ?と一拍置いてから前に立つオルロ殿下を見れば、懐剣の入った箱を両手で上に上げている。
「その……オルロ殿下?」
渡してくれるんじゃなかったの?と首を傾けると、申し訳ありませんと声がかかる。
「こちらは当日まではご内密に。公女殿下におきましても、あまり騒々しく取り沙汰されるのはお好みではないでしょう?」
まあ確かにそうだ。
まだまだこれからあちらの部屋こちらの部屋と移動していかなければならないのに、この懐剣を身に付けていけばきっとなんやかんやと噂されるのは間違いない。噂好きな人ほど細かいところまでよく見ているものなのよね。
「ですから、今日のところは昨日と同じ模擬刀をお渡しいたします。こちらをどうぞ」
「わかりました。ありがとうございます」
そう言って渡された模擬の懐剣を、先ほどの部屋で飾り付けた絹の装飾にくくり付ける。
懐剣に巻いてある組み紐を絡ませ外れないようにしっかりと胸の左下に付けていると、ファルシーファ様の険のある声がオルロ殿下を襲う。
「模擬刀でよいのならば、何ゆえこの場に運んで来られたのでしょうか。説明ならば口ですればよろしいです。まるで見せびらかすだけといった振る舞いは随分と幼稚にみえます」
うわぁ、トゲトゲしい。そんなわざわざ言わなくてもいいことを言ってしまうところは、あまりファルシーファ様らしくない。
どうもオルロ殿下のやることなすことが気に入らない様子だ。オルロ殿下の方はといえば、そんな彼女の言葉にも全く気にすることなく懐剣の箱を閉じた。
「仕方がありませんね、ファルシーファ殿。これも、同紋の懐剣が仕上がったからには、すぐにでも公女殿下へ見せたいと言った、兄上の幼稚な独占欲の賜物ですから」
うっぐ……うん。そう、なんだよね。
やっぱり、こうやって懐剣の紋の話を聞いて、現物を見せられれば、アクィラ殿下の気持ちが痛いほどに感じてしまう。
それに私の方だってアクィラ殿下を想う気持ちがより高まったし……胸がじわりと熱くなるのと同時に、その熱が頬まで上がってくるのがわかる。
だがしかし、ファルシーファ様にはいま一つピンとこないようだ。
「いや、私はアクィラ殿下のなさることが幼稚などというつもりはなく、あなたのその取り上げるような行動に苦言を呈しているのですよ、オルロ殿下」
などと、あまりにも外れたことを言い出した。
そこ今はあんまり関係ないよね?というか特に突っかかるようなところじゃないから。いや、だからねと、落ち着かせようと口を挟もうとしたところで、オルロ殿下の呆れたような息がはーっと吐き出された。
「相変わらず人の内の機微に触れるのが苦手なようで、お変わりがないことですね。ラゼロ辺境伯の心境お察しいたします」
「なっ……!」
だーっ!待て、待って!ちょ、こんなところでケンカしないでよー!
ファルシーファ様がまたドレスのどこからか武器のようなものを取り出そうとした気配を感じて慌てて間に入る。
多分……恐らく、いや絶対にファルシーファ様の方がオルロ殿下より強いよね。こんな結婚の儀を前にして、リハーサルで第二王子にケガさせることになったらマズいでしょ。
「ファ、ファルシーファ様っ!ほら、そろそろ次に参りましょう。時間、ね。オルロ殿下、それではまた……ええと、当日よろしくお願いいたします。ではっ……」
両手を上下に振りまくって今何をするべきかを思い出させる。時間通りの練習大事!と言い聞かせれば、流石にファルシーファ様も姿勢を正した。
そうして失礼いたしますと静かにオルロ殿下へ伝え腰を折る。まあ最後にぎろりと一睨みするのは忘れなかったようだけど、なんとか懐剣の儀の部屋からは無事退出することができた。
その後は、昨日と同様の道筋を辿りつつ、粛々と儀式をこなしていく。
神馬の像への礼拝だの、そのための神水での手を洗う禊だの、トラザイド王国独自の儀式だが、その理由などを教えてもらいながらやってみると、なかなか感慨深いものがある。こうして一つ一つこなすことによって、徐々に気持ちがしっかりと固まってくるのがわかるのだ。
リハーサルの今でさえそう思う。きっと本番の結婚の儀ともなれば、その思いもひとしおだろう。
そうして最後の部屋までたどりつくと、その扉の前で立ち止まる。
この部屋は、花嫁のお母様、つまりはモンシラ公国の大公妃殿下の控室だ。この部屋に入り、最後の語らいをして、そのエスコートによって大聖堂へと向かうことになる。
「リリー公女殿下?」
扉に手をかけたファルシーファ様が、動こうとしない私に向かい気遣うような声をかける。私はそれに軽く手を挙げて遮った。
昨日入ってみたこの部屋は、一国の正妃を迎えるに相応しく豪奢で華やかに整えられていた。でも、今はまだそこに誰も居ない、寒ざむしいだけだ。
お母様とここで対峙する日、その時、いったいどういった話をするのか、話をしたいのか、まだ何一つ私の中では決まっていない。
お母様が私をただの駒の一つだと言い切られたら?もしかしたら、メリリッサだけが幸せであればいいと言われてしまったら?
そんな想像だけでもぶるりと体が震えてしまう。
けれども、私は決めたのだ。
たとえどんなことを言われようとも、私はトラザイドで、アクィラ殿下と一緒に生きると、生きていくと。
左胸の下に付けた懐剣に手を置き、ドレスの長い裾を翻して、くるりと扉に背を向けた。
「行きましょう、今日はここには入る必要はありません」
私のその言葉に、ドレスの裾を丁寧に直しながら一瞬言葉を詰める。けれど、
「お時間にはまだ早いのですが……いいえ。アクィラ殿下は首を長くしてお待ちでしょう」
何かを感じ取ってくれたファルシーファ様が頷いてくれた。
「ええ、私も早く会いたいわ」
そう言って私は、アクィラ殿下の隣に立つために大聖堂へ向かって足を進めていった。




