だからその手を離さない
アクィラ殿下から告げられた『悪い話』の後で、私は体調をがたっと崩してしまった。
少し頭が重くなったと感じた時にはすでに遅く、自力では満足に立ち上がることができなくなっていた。お風呂の支度途中でハンナの腕にすがるように抱きついたのは覚えているが、気がついた時にはもう広いベッドの中で横になっている自分。
口を開けて声を出そうとしてもからからに乾いた喉からは、ひび割れた音しかでてこない。ひゅっと大きく息を吸いこめば、突然の空気に驚いた喉がまるで異物を追い出すかのように大きく咳き込んでしまう。
「リリー様!……目を覚まされたのですね」
私の咳の音を聞き取ったハンナが、真っ赤に充血させた目を向けた。
「んっ……ハ、ンナ?あ……私、ど、した……の」
思っていた以上に擦れた声しか出てこなかったが、なんとかハンナの名前を呼び、今現在の自分がいったいどんな状態なのかを教えて欲しいと訴える。
するとハンナの口元がゆっくりと弧を描いて持ち上がった。
「ビューゼル宮廷医に診ていただきました。過労との診断です。特に心配するような病気ではないとおっしゃっていられましたが……ご加減はいかがでしょうか?」
ではこの喉の痛みは風邪のための炎症ではなくて、単に喉が渇きすぎているためなのか。とりあえず少しの倦怠感はあるものの、それほどどこが悪いといった感じはしない。
とと、そういえば今の時間は何時になるのだろう?明り取りから入る光は朝のものに感じるのだけれど、喉が擦れるほど寝ていたのなら一晩程度のはずがない。
「今、は……?」
喉を押さえながらゆっくりと声を絞り出せば、ハンナが静かに答える。
「リリー様が倒れられてから、二日目の朝になります。昨日丸一日、目も覚まさずにお休みになられていたのですよ、リリー様」
はっ、そんなに!?どうりで喉が痛い訳だ。
一日半を寝て過ごしたのだから体中で水分を欲している。まずは飲み物を欲しいとお願いして、簡単な身づくろいをした。
絶対にベッドの上からは出せないとハンナにきつく言われてしまったので、ベッドのヘッドボードに枕を立てかけてもらい、そこにもたれかかったままお茶を飲む。
ほんのりと甘いシナモンに似た香りがどこか記憶の扉をノックするように鼻腔をくすぐった。
「これ……って、なんだか覚えがあるのだけれど」
一口飲み込んでからそう伝えると、珍しく全身で喜びを露にしながら、ええ、ええ、と頷くハンナ。
「リリー様のお身体の調子が良くないときには、いつも私がこのお茶を淹れて差し上げておりました」
「ええ。そうね、ハンナ……思い出してきたわ。いつもありがとう」
確かに何度も飲んだことがあるはずのそのお茶は、甘い香りながらもほんのりとスパイシーな味で、本当にシナモンティーにそっくりだ。けれども百合香であった頃の私は、そのシナモンがどうにも受け付けられなかった。
それはリリコットになった今でも同じように思う。
なんだか舌がピリピリするのよね。せっかく淹れてくれたハンナには悪いんだけど、どうにか他の飲み物を……と考えていたところ、バタバタっと大きな音をたててミヨが勢い良く寝室の扉を開けて飛び込んできた。
「あ、姫様!起きられたんですねぇ。良かった、良かったです!」
「ミヨ……心配かけたわ、ね?って……」
「殿下ぁー、姫様が起きましたよーっ!」
その勢いのまま、反対側の扉へと大きな声でアクィラ殿下を呼びつける。
ミヨー……!どうしてそう不敬な!そう声をかける間もなく、王太子と王太子妃のための寝室というこの部屋で寝るようにと言い含められてから、一度も開いたことのなかったアクィラ殿下の私室へと繋がる方の扉が開いた。
そして、シャツとズボンだけの軽装な姿の殿下が慌てて入ってきたのだ。
「アクィラ殿下……」
「リリー、具合は?」
心配そうに声をかけ近寄るアクィラ殿下の目の下には、似つかわしくないクマがのっていた。
こんなにも忙しい時に余計な心配までさせてしまったことに申し訳なくなってしまい、私を呼ぶ声に返事もせずに顔を下げてしまう。
するとヘッドボードに寄りかかるように座る私の横にアクィラ殿下が腰を下ろした。
「リリー」
そう私の名前を呼ぶと、上げた両手を私の両頬にぴしゃりと音が出るほど勢いよく添えて、むぎゅっと顔が変形するくらい力を入れて押し上げた。
うえ……は?タコさん口みたいになった顔で、アクィラ殿下の顔を見つめればクマが乗っていようがお構いなしのような綺麗な緑の瞳が輝いている。
「変な顔だが、熱もないな」
「へ、変な顔って……殿下がさせたんじゃありませんかっ……」
アクィラ殿下へと噛みついてしまってから手に持っていたシナモンっぽいお茶の存在を思い出した。
気が付けば半分以上を布団の上に零してしまったカップを手に持ち換え、あっちゃーと心の中で叫ぶ。すでにだいぶ温くなっていたのと、厚くふかふかの布団を掛けていた為、全く私には被害はないが掛布団はしっかりとお茶を吸いこんでしまっていた。
「ご、ごめんなさい」
「構わない。カリーゴ、急ぎ替えのものを用意してくれ」
アクィラ殿下のその言葉と同時に動いたカリーゴ様は、一旦殿下の私室へと戻るとふわふわの掛布団を手にして帰ってきた。とりあえずはこちらをと渡されたのは殿下の使用されているものだったらしい。
「もう起き上がれますから、これは」
さっと取り換えられた布団を返そうとしても、この場にいる全員の目、つまりはアクィラ殿下に、ハンナ、ミヨ、それからカリーゴ様までもが黙って横になれと言っている。
さすがに起きぬけでこれだけの人数を押し切る気力はないから、ここは黙って従うことにしよう。
その上で、ビューゼル先生監修の胃に優しい病人食と飲み物を用意してもらい、なんとか喉の渇きとお腹の減り具合を落ち着かせた。
用意されたものを全て片付けてから、私が倒れたことに対して謝ろうとすると、アクィラ殿下はすぐにその謝罪を遮ってこう言った。
「私がきみを守るといったろう、リリー。逆に倒れるまで君の疲労に気が付くことが出来なかった私の方に非があると思うが?」
「そんな……アクィラ殿下に非など、あるわけがありません。ただ私、っ……メリーの話を聞いたから……」
たとえ本当に体が疲れていたとしても、決定的だったのはおそらくメリリッサが私の結婚の儀の為にトラザイドへ向かっていると聞いたからだ。
それはもう、一昨日そう知らされた時に感じた嫌悪にも似た恐怖が物語っている。
私自身はメリリッサに対して怒りばかりが先行していたから気が付かなかったが、刷り込みされた恐怖心はリリコットの中にしっかりと根付いていたらしい。
怖い怖い会いたくない。
そう、確かに私はあの瞬間メリリッサがここへ来るという事実に恐れをなしたのだ。その結果が、疲労という形で体全体に出てしまった。
「だったらなおの事謝ろうとするな。私たちはこれから夫婦となるのだ、何があろうとリリーの手を離すことはない」
「殿下……」
ぎゅっと私の手を握り、何かを射抜くかのような瞳で強く言い放つ。
「たとえ死の螺旋を描きながら私の空から落ちようとも、絶対にきみと離れない」
思わず息を呑むそれは、――アクィラ殿下の覚悟。
王太子としての地位がどうなろうとも私を選ぶのだと、彼は言ったのだ。
その強く激しい言葉に、胸の奥深くで傷ついて眠っていた可哀想なリリコットが息を吹き返す。
私も、私も、私だって、と。
頑張る、頑張れると、ぽこぽこと胸から湧き上がるこの気持ちが、アクィラ殿下の手のひらに伝わるようにと力を込めて握り返す。そうすると、ふっと空気を和らげて労わるように優しい声を出した。
「大丈夫。そう簡単には私のテリトリーで他の者を自由勝手になどはさせない。だから一緒に、リリー」
「はい、アクィラ殿下。私もずっと一緒にいると……そしてメリーには負けないと誓います」
そうだ。私が私であるために、メリリッサと向き合う。
一体何のためにここへ来るというのかわからないけれど、絶対に負けたりはしない。アクィラ殿下との手を離さないで生きていくためにも、そう心に強く気合を入れた。




