想い出をいっぱい
「それで?リリー」
「えっ……?」
「私の方は今一通り話したような事情なのだが、君は?手首を切った時のことも非常に気にはなるが、私のことをいつ思い出したのかも出来れば教えて欲しいと思っている」
思いが通じ合ったアクィラ殿下は、これまでほとんど突っ込んでこなかったことにも遠慮なくぐいぐいと食い込んでくる。
まあ私としても、思い出しきれていないリストカットの前後はともかく、すでに好きだと告白してしまったからには十年前の出会いを思い出したきっかけなど話してもなにも問題はない。
「そう、ですね……最初はアウローラ殿下や他の弟殿下の方々と、アクィラ殿下のお小さい頃のお話を聞かせてもらったことがきっかけでした。それからイービス殿下に、あのテーブルクロスの刺繍がリーディエナの花だと教えてもらったおかげで、……その、大体のことを思い出しました」
つまりは私の初恋とその失恋の思い出をということだ。
そこまで告げるとアクィラ殿下は、むぅと小さく唸って少しだけむくれた。
「どうなされましたか、殿下?」
「いや、やっぱりそれかと思ったのだが……」
そう答えると、せっかく、だが、思い出したのだから、などとぶつぶつ呟き始めた。
なんだろう?と首を捻っていると、ソファーの座面から何かが床へと落ちたのに気がついた。
「アクィラ殿下、何か落とされましたよ……あら、それは?」
私の指摘に、アクィラ殿下がその油紙に包まれたそれを拾い上げる。
それって、ヨゼフが投げてよこしたものだったよね。私を助けた時に水没したのも同然だったから、水弾きのための油紙も役に立たなかったというそれは、濡れて無駄になったらしいけど何だったのだろう?
ちょっと興味津々といった顔で眺めていると、アクィラ殿下の長い指がその包みを剥がし始めた。
「テーブルクロスの刺繍を見た時にリリーだと確信した。しかしその時点では君はまだ記憶を失っていたままのようだったし、あまり問い詰めても逆効果だと考えたんだ」
そう言えば、アクィラ殿下の態度ががらりと変わったのは、模様替えした私の部屋に入った時だった気がする。
「ただ同時に、もしかしてこれを見れば思い出すのではないかという期待も膨れ上がった」
油紙の中から取り出された手帳は水を大量に含んで紙のほとんどが張り付いていた。アクィラ殿下はその紙をゆっくりと剥がし、ある一点をめくり出す。
そして、そこには――
「リーディエナ……?」
水で膨張した手帳の中では花の形はすでに成されていなかった。
ただ、確かにそこには青色が染みのように残っていたのだ。
十年前にアクィラ殿下が私に教えてくれた深く、高い、空のような青ではないが、私にはそんな青の一部に見えた。
「そうは見えないがな」
少し苦笑いするアクィラ殿下の顔を驚き見つめる。
「あ……まさか、このために、ボスバ領に、え……?」
「いいや、ボスバ領での別の急ぎの用は確かにあったんだ。母上……王妃殿下よりのご用命でね。同じ場所なのだから、そこに私の用事を組み込んだだけだ」
慌てて尋ねる私に、なんでもないように答えるアクィラ殿下。
でも本来ならば持ち出しを禁じられているはずのリーディエナの花を、こうして持って帰ってくるのにはきっとなんらかの話を通さなければならなかっただろう。
王妃殿下の用事と同時に済ませながらあれだけ急いで帰ってきてくれたアクィラ殿下に対して、申し訳ないという気持ちと同じくらい、嬉しいという気持ちも感じてしまう。
「ありがとうございます、アクィラ殿下。もしお許しをいただけるのでしたら、これを私に譲ってもらえますでしょうか?」
花の形なんて残ってもない。色だってきっと本物には遠く及ばないだろう。どうみても他人がみれば、ぐちゃぐちゃになった花の残骸だ。
それでもアクィラ殿下が私を、私の記憶を元に戻そうとして持ってきてくれた押し花だと思えば愛おしくてたまらない。
だからその手帳をリリコットの新しい思い出にしたいと願い出たのだ。
いっぱい。そうだ、これからいっぱいの思い出をここで作っていく、その第一歩にしたいと思った。
一瞬、大きく瞳を開いたアクィラ殿下だったが、その言葉の意味を察してくれたのだろう。ゆっくりと瞳を細めながらそっと私の耳元へと唇を運ぶ。ふっとかかる息が熱い。
「喜んで捧げよう、私の可愛いリリコットへ」
そして、そう優しく囁いた。
***
コンコンと規則正しいノックの音が聞こえたちょうどその時、正に私は今日三度目のキスを仕掛けられている途中だった。
「で、で、殿下、アクィラ殿下っ!ほら、きっとカリーゴ様です。早く入れてあげましょう」
その音に我に返った私は、腕ごとがっつりと捕まえられているので体をそらしながら必死になって伝える。
少しだけ不満そうな顔を見せつつも、やるべきことを優先したアクィラ殿下は「入れ」と許可をだした。
許しを得たカリーゴ様が扉を開けて部屋に入るのと一緒に、後ろに続いてハンナ、ミヨ、それからヨゼフも揃って入室してきた。
いつものメンバーを目にすると、甘ったるい空気が途端に日常のものへと変化する。しかしいまだアクィラ殿下にべったりと張りつかれたままの姿はそれなりに恥ずかしい。
カリーゴ様とハンナは何事もありませんといった顔で定位置に付いたが、ヨゼフの呆れ顔やミヨのニヤニヤした表情がいたたまれなくてつい体を縮めて小さくなる。
「それで、アクィラ殿下。公女殿下とは満足いくお話合いは出来ましたでしょうか?」
「勿論だ。なあ、リリー」
カリーゴ様の質問に照れもなく堂々と答える殿下とは違って、私の方はといえばまだまだこの体勢には慣れそうにもない。黙ってコクコクと頷く姿は自分でも何かのおもちゃのようだと思ってしまう。
それでもアクィラ殿下と想いは同じなのだということは伝わったようで、皆の祝福の空気がじんわりと漂ってくるようだ。
……なんとなく生温かい気もするけど。
そんな微妙な間を一気に詰めるように、アクィラ殿下は皆に向かって言い放った。
「さあ、そろそろこれからの予定を進めていくぞ」




