Innocent World
「あの権利書は、貴女が持っていっていいものではない」
ぎりぎりと腕を締め上げるように持ち上げられていく。痛みに耐えつつ不自然な格好に向いていく自分の肩を見つめながら、この男は何を言っているのだと考える。
スメリル鉱山の権利?そんなものが私にあるの?でも、それって……
「っ痛……、う」
「ほら、正直に出してもらえればこれ以上酷いことはいたしませんよ」
痛い、痛たたっ!って、酷いことしかされてないんですけど!?信用できるかっ!
あまりの痛さに、どうにかしてやり過ごそうと、藁をもすがる気持ちで右手を動かせば築山の土が、ざりっと音を立てる。
「隠し場所を教えなさい。早くっ!そうすれば、貴女だってモンシラへ帰れる。こんなところで後ろ指をさされなくとも、修道院あたりでゆっくりと余生を過ごせばいい」
「う、う……なに、を、言って……」
ノバリエス外交官の馬鹿げた言い草に、頭が一瞬で沸騰した。
怒りにまかせて土ごと握りこぶしをつくる。
ふざけるな。私の人生をあんたなんかに決められてたまるか!
そんな思いをのせてキッと睨みつければ、彼の方も興奮状態で私の腕をさらに捻り上げ、大声でわめきたてた。
「鉱山の権利書は、第一公女殿下のものですっ!貴女のものではありません!」
その言葉をかけられたのと同時に、私は掴み取った築山の土を思いっきりノバリエス外交官の顔へと投げつけた。
「ぐっ、目が、あっ……」
勢いよく飛んだ土はちょうどノバリエス外交官の目に直撃したようで、私を束縛していた腕が離れ、彼は痛みに膝をついた。
その隙に体をひるがえして、私はナターリエ様を逃がした方へと走り出す。左腕はまだじんじんするけれども、気にかけている暇はない。
そんなことよりも、たった今ノバリエス外交官から引き出した言葉の方が私にとっては大ごとだった。
――バレたっ!私がリリコットだとバレていたんだ!
ノバリエス外交官は、私がメリリッサではなく、リリコットだと言いたかったに違いない。
スメリル鉱山の権利がどこにあるべきかなんて私は知らなかったが、彼は確かにその権利が第一公女のものであり、私のものではないと言い切った。
「んんんっー、どうしよう……」
片側が池になっている小道を、追いつかれないようにと急いで走る。
踏み外して池に落ちては元も子もないから集中しなければと思いながらも、どうしてもさっきのノバリエス外交官が言った言葉について考えてしまう。
リリコットとメリリッサが入れ替わっていることを知っているのは、両親である大公殿下と大公妃殿下、それから私と一緒にトラザイドへついてきてくれた、ハンナ、ミヨ、ヨゼフの三人だけのはずだった。
それが何故、一外交官であるノバリエス外交官が知りえるというのだろうか。
……誰かが彼に教えた?信じたくはないが、そうでなくては説明がつかない。でも、誰が?頭の中で、皆の顔がぐるぐると浮かんでは消える。
固定しない彼女たちの顔を振り切るようにして足を前へと無理矢理動かす。
とにかく、今はまずここから離れることだ。そして、ノバリエス外交官から私たち姉妹の入れ替わりが伝えられる前に、自らアクィラ殿下へと話さなければならない。
元々、今日アクィラ殿下が帰って来たら告白すると決めていたが、一刻も猶予がなくなった。ノバリエス外交官の意図がわからないのならなおさらだ。
もしもアクィラ殿下が受け入れてくれたなら、入れ替わったままでも構わないと思っていたのだけど、やっぱり、ダメかな……?
はっと、自虐的な息を吐き捨てて前をみると、そこにはとっくに走って逃げたと思っていたナターリエ様の姿があった。
「ナターリエ様、何やっているんですか!どうしてまだこんなところに!?」
呆然と佇むナターリエ様の後ろに追いつけば、彼女の目の前からは道が途切れ、代わりに池の中には置石の役目をするように小さな岩が点々と飛び出していたのだった。
「これは……」
「い、行けないわ……あんなの、無理……」
ようやく言葉を発したかと思えば、ぶるぶると震えながらその場にしゃがみ込む。私は公女にあるまじき行為と思いつつ、大きく舌を打った。
流石にこれを飛べとは言えない。距離だけ見ればほんの三、四メートルくらいだが、このドレスであの小さな岩に張りつきながら移動するなんて、私ですら余裕がない。
だったら逆に築山を登って向こう側に出ていくしかないと考え、ナターリエ様の腕をとり、無理矢理にでも立たせた。
「ならばこっちよ。さあ、早く登って」
「いや。……もう足が痛くて、あんなとこ登れない、ダメよ。ねえ、誰か、呼んでちょうだい……」
「この期に及んで何を言っているの!?あなた、池にこのまま落とされてもいいの?」
私のその台詞に、ひぃっ!と一瞬息をのんだが、落とされてはたまらないと思ったのだろう、必死な形相で築山にはりつきあわあわと足を動かし始める。
それでも階段があるわけでもない部分を登るのは貴族令嬢のナターリエ様には難しいようで、ずるずると足を滑らせる。
なかなか上がっていけない彼女のお尻を思いっきり押して、少しでも進めさせようと四苦八苦していたところで、ノバリエス外交官の姿が現れた。
「はっ、足手まといがいたお陰で追いつきましたね、メリリッサ公女殿下」
「……あなたも、思ったよりは早かったわよ」
本当に早かったなと、もう一度舌打ちをしそうになった。
ノバリエス外交官の髪も服も濡れて水が滴り落ちていたから、きっと池の水で目に入った土を落としたのだろう。嫌な機転ばかり利かせるなと思う。
「ええ、私はこうと決めたことは必ずやりきるのです。しかし、どうもメリリッサ公女殿下には私の話が通じないようですので、やり方を変えようかと思います」
「あら、話が通じないのは私でなくて、ノバリエス卿の方ではなくて?」
そんな私の強がりに、まるで対抗するみたいに彼は笑いながら近づいてきた。
「ほらそのように。まあいいです。これから貴女には誘拐されていただくことにしましょう」
その言葉に目が点になる。え、誘拐って何……?馬鹿なの?馬鹿でしょ?
この王宮内でそんなこと無理にきまっている。入り込むのはまだ出来たかもしれないが、大の大人一人をここからどうやって運ぶつもりだ。
しかも今決めましたって、どんだけ計画性がないのか……杜撰すぎる。
「おあつらえ向きに、そこに手引きした犯人役もおりますので、安心して誘拐されてください。ああ、無事に帰られるかは、公女殿下次第ですけどね」
けれども彼自身はそんな私の考えていることなど全く気にもせずに恍惚とした表情で語る。
なんというか、もはや狂信者の様にしか見えない。
でも、だからこそこんな男に捕まる訳にはいかないと思う。逃げ切らなければ。でも、どうやって?
こうしてノバリエス外交官が一人悦に入っている内に、ナターリエ様はなんとか四阿の土台まで手が掛かっていた。
だったら?そう自分に問いかけたのと同時に体が動いた。
くるりと向きを変え、ノバリエス外交官に背を向ける。そうして思いっきり地面を踏み込んで、置石ならぬ、置き岩へと飛びついた。
「てやっ!」
なんとか一つ目の小岩に捕まると、よっこらせとばかりにその上に乗り上げる。
ぐうぅ、これヒールがめちゃくちゃキツイ。いいや、捨てちゃえ。
踵を擦り合わせて靴を脱ぎ捨てると、ストッキングだけになる。
これならば飛べると、次の岩に移り飛んだ。なんとか着地に成功したので、そこから後ろを確認してみれば、なんとノバリエス外交官は池に飛び込み着衣のまま泳ぎ始めた。しかも意外に速い。
ヤバい、これじゃああっという間に追いつかれてしまう。慌てて次の岩へと飛びつこうとしたところでバランスを崩した。思ってた以上に足もとの岩が不安定だった。
あ!と思ったその時には、もう池の中。しかも嵩のあるドレスのスカート部分は水をたっぷりと含み、体中にまとわりつく。
空気をと、もがき腕を動かそうとしても、水面に浮かびあがれない。
ダメだ。とんでもないミスをした。
このまま私はここへ沈んでいくのかな?だったらせめて、もう一度あの青い空を見たい。
幼かったあの日、アクィラ殿下がリーディエナの青とよく似ていると教えてくれた空の色を。
だから力を込めて体を反らし、きらきらとした水面を見上げた。
瞬間、たくさんの気泡が体中を覆う。
そして腰がぐうっと持ち上げられた。まるで無重力状態から、突然地面に降り立ったかのような感覚。
「げほっ、あっ、ごほ……あ、え?」
あれだけ欲しいと願った空気が一気に肺に飛び込んだせいで、体が驚きむせてしまった。
大丈夫だから落ち着いてと囁きながら、げほげほと咳き込む私を抱き上げ、水で顔に張り付いた髪の毛をゆっくりと直してくれている、
その人は――
「ア、アクィラ殿下……?」
「リリー、リリー、間に合ってよかった。リリー……そうだよな?」




