アクィラ~ORACIÓN~
父上であるトラザイド王国国王陛下から、婚約が決まったのだと知らされたのは私が十二歳になる暑気の終わり頃のことだった。
その日は前日の雨に加えぶり返しのような日差しを受け、異様なほどの熱が溜まった王宮内は蒸し風呂のような湿り気を帯びていた。
今年は天候が不順だなと、その直前まで今年のリーディエナの花の付き具合を心配していた私は、父上の執務室へと呼び出されその言葉を聞くまでは何ら想像もしていなかったのだ。
「…………婚約、ですか?」
不快感を顕わにしてそう問い返せば、父上は再度私の目を見ながら言い渡す。
「そうだ。モンシラ公国の第一公女との婚約だ。近いうちに正式に契約を取り交わすことになる。そのこころづもりでいるように」
普段ならば一度発した言葉を二度も繰り返すようなことをしない父上が、わざわざ問いかけに応えて下さるということは、少しは私の心を慮っているのだろう。
玉座にあるものとしての陛下は常に王太子である私に厳しくあるが、父上としては少しばかり子どもたちに甘いところがある。
それが垣間見える今、思わず本音がこぼれそうになった。
「父上……私は、私は……」
結婚などしたくない。モンシラの第一公女といえば、リリーの姉メリリッサのことだ。まさか彼女との婚約が調うだなんて思いもよらなかった。
あの日、リリーを一方的にいじめていたメリリッサの姿を思い出す。
顔も姿も、声さえもそっくりといっていいほどに似ていたが、彼女だけは考えられない。
いや、メリリッサだからこそ考えたくはないのだ。
その一言が喉の一番上にまでせり上がってくるが、どうしてもその一言が口からは出てこなかった。
「モンシラへ融資をしていたスメリル鉱山だが、落盤事故のおかげで発掘作業がかなり遅れてしまっているのだ。追加の融資を頼まれたものの我がトラザイドの負担が大きすぎる。かといって、あと一歩のところまできている発掘を放り出すにはいかない」
つまり、その融資の担保、いや人質といっていいような婚約なのだろう。
モンシラのバリオ大公には大公妃から生まれた双子の公女たちしかいない。そんなモンシラ公国の事情はリリーに出会った後、すぐに調べたから知っている。
そもそもモンシラ公国は、その昔はガランドーダの前身であるガラッド族に滅ぼされた国の貴族の一所領にしか過ぎなかった。
才の最も高いものが治めるという領主の決め方のお陰で、混乱の最中どさくさに紛れて公国として形を成したはずだ。
直系の男子がいなくとも大公家の血筋をひく貴族を婿にすればいいという算段なのだろう。
だったら?それならば、何故メリリッサなのだ。
私の婚約者ならばリリーでいいじゃないか。リリーが私のところへ嫁ぎ、第一公女が公国を継げばいい。
たとえ他人から見れば人質のようなものだとしても私はリリーのことを大切にする。絶対にだ。
そう父上に向かい進言しようとしたが、その強い瞳の光に押しとどめられた。
「モンシラは、スメリル鉱山の権利を第一公女が生まれたのと同時に移していた。それではトラザイドとモンシラの共同採掘の利権に不備が発生する。それもまあ、しばらくは知らぬ存ぜぬで通していたがな。そのまま鉱山発掘が失敗すれば第一公女の債務として扱い、成功ならば大公女として跡をとらせようと考えていたのだろう。あさはかというかなんというか」
父上は執務用の机に載っていた書類に目を落とし、軽く息を吐いた。モンシラのくだらない画策に頭を痛めているのだろう。
「そこへこの落盤事故だ。再融資につき精査していたところに知った事実を突きつければ、よほど追い詰められていたのだろう。スメリル鉱山の権利書を持たせた第一公女をトラザイドの王太子へ嫁がせると言ってきた。勿論全ての利権が手に入るわけではないし、そこまでするつもりもないが、少なくともあちらからの勝手な破棄は出来なくなる。だとしたら断る理由などない」
息が止まりそうになる。握った手の平に爪が食い込んで血がにじんでいくのがわかった。
「アクィラ、わかるな。これはトラザイド王国の王太子としての務めだ。モンシラ公国第一公女との婚約を命じる」
陛下がそう仰るのと同時に首を垂れた。
これは王命だとはっきりと言葉にされれば抗うことは出来ない。私は生まれてきた時からそう教育されてきたのだ。
王家の人間として国の平安のために生きること、それこそが存在の理由なのだと。
機械的に望まれる言葉を吐き出して、執務室の扉を開けた。蒸し暑い空気が体にまとわりついて足が重く鈍る。
歩くごとにずぶずぶと沈み込みそうな足を必死で動かしながらたどり着いたのは王宮の裏庭。
ここは、あの日リリーと話し込んだあの場所とよく似ていると気が付いてからは、私の一番のお気に入りの場所となった。
大きな木の下に立ち、額をその幹に打ちつけた。木陰の幹はひんやりとして苛立つ頭を少しずつ落ち着かせてくれる。そうして懐かしい思い出に浸った。
二年前に出会い、他人から見たら子どもらしい他愛無い約束をしただけのリリー。
それでも私は本気でその約束を果たそうとその日から考え続けていた。
ボスバ領の言葉も覚え、既に何度か領を訪ねてもいた。いつかリリーと共に、リーディエナの花を見に行けるようにと。
それももう、叶えることはできない夢となった。
別れる前に、リリーがおどけながら言った言葉を心の中で反芻する。
『覚えていてね、アクィラ様。他人から見ると可哀想に見える方が私の方だから』
一緒にいる間はいつも楽しそうに明るく振る舞っていたリリーが、一瞬だけ垣間見せた寂しそうな表情。
隣で笑わせてあげたいと思ったのに。
「ごめん、リリー。ごめんね」
伝う汗が地面へと黒い染みを作っていく。それを見ながら私は小さくつぶやいた。
祈っている。ずっと、祈っている。彼女がいつでも幸せでいられるように――




