私の名は
ぬるり。生温い液体の中で目が覚めた時、私こと、千代崎百合香は、まず自分の状態を把握する事に努めることにした。
浴槽の中に腕を突っ込み、その手首には刃物で斬ったような傷痕。薄いピンクにも見える膜がその傷からふよふよと漂っている。
一目見て、リストカットだとわかるが、理解できないのは何故私がそんなことになっているかということだ。
冷静に、冷静になれ。
私がまずしなければいけないのは考えることよりも処置である。横一文字につけた傷は深くないものの、どれくらいこうしていて、血量が流れ出たのかわからないから急ぎたい。
流しっぱなしになっていた浴槽の蛇口に手をあてて傷口を洗い、そうしてから目に付いたタオルでぎゅっと傷口を押さえて心臓より上げる。
ふう。そう息を吐くと、くらり、と目眩がした。
もしかしたら思っていたよりもだいぶ血が流れた後なのかもしれない。
あまり状態が良くないようだ。だとしたら、あまり使いたくはなかったが、救急車を呼ぶしかないだろう。
せめて准看護士として働く、勤務先の病院への搬送は勘弁して欲しい。
何があったかなんて噂になったりしたら働きにくくなるじゃないか。
そんなことを考えながら、浴槽の縁に手をかけてゆっくりと立ち上がろうとすると、さらりと肩から落ちる髪に気がついた。
この金糸のようなとても長く美しい髪は、誰?
私は今まで18年間生きてきて、髪を染めたことなど一度もないし、自分でカットし易く、まとめやすいようにとずっとセミロングにしているはずだ。
そういえば、自分のものであるこの肌にしても手荒れもなければ、色も白すぎる。その上とても華奢な美しい指をしていた。
浴槽だって、家賃三万二千円の1Kユニットバスの見慣れたそれなんかじゃない。
繊細な飾りのついた縁をぎゅっと握り、恐る恐る浴槽にはられたお湯の中を覗いてみると、そこには金髪に青い瞳の、それは美しい少女の姿が映っていた。
あまりに驚いた私は、押さえていた手を離して頬をつねる。
「……痛い」
鈴の音を転がしたような可愛いらしい声。だけれど不思議と違和感はない。
訳もわからずに首を捻っていると、背後から何かを切り裂くような悲鳴が聞こえて我に返った。
「きゃあああ!リ、リリー様っ!一体、何がっ?大丈夫でしょうか!?」
慌てて私のところに走り寄る、侍女のハンナの顔を見て思い出した。
そうだ、私の本当の名前は、リリコット・カシュケール。
モンシラ公国大公であるバリオ三世殿下の第二公女。
来月執り行われる結婚式にて、王太子アクィラ殿下の元へと嫁するために、先週この隣国トラザイド王国までやってきたばかりだったのだ。
それも、私の双子の姉である、第一公女メリリッサの身代わりとして――
***
なにぶん生まれからしてどこの馬の骨ともわからない、存在。それが私。
生まれてすぐ施設の門扉に捨てられていた為、戸籍上の苗字は施設の園長と同じ、千代崎を使わせてもらったのだと聞いた。だからといって、別段可愛がられた覚えもない。
ただ、必要なものだからそうしただけだと教えてもらった時にも、そんなもんかと思っただけだった。
ちなみに名前の方はもっと適当で、百合香に意味はなかったらしい。同じ様な境遇の子どもには、園長が知っている花の名前を順番に付けていくだけの慣習だそうだ。
そうして生まれた時から誰にも必要とされない施設育ちの私は、当然のようにほとんどの人から格下のものとして扱われた。
施設内ですら親なし子と言われるのなら、施設外ならなおのことだ。学校へ通うようになれば、無視されるくらいならいい方で、場合によっては大勢に寄ってたかってバカにされる。
気が弱い方ではなかったから、手を出されればそれなりに報復もしたが、すればしたで、これだから施設の子はと言われるので、大抵の場合は放っておいた。
どうせ15歳になれば施設を出ることになる。出来るだけ早く手に職をつけ、一人で生きていけるようになろう。
そこから私の人生が始まるのだと、心に決めてただひたすらその時を待った。
中学を卒業すると、昼はバイトをしながら生活費を稼ぎ、夜間は奨学金で学校に通うことにした。生活はカツカツだったが、看護学校は色々な年齢や境遇の人が多く、少なくとも中学よりも楽しく充実した学校生活を送れたのは嬉しかった。
そうして准看護師の資格を取った後、念願の病院での職を得たのだ。
誰にも何も言われない私だけの人生。
ようやくその第一歩を踏み出したのだと喜んだ矢先だったのに、どうしてこんなことになったのだろう。
覚醒してからというもの、なんとか思い出そうとしたものの、二人分の記憶が交錯仕合っているため上手くいかないようだ。
今はどちらかというと百合香としての記憶の占める部分が多く、リリコットの方は自分がそうであるということと、人の名前と顔、そしてメリリッサの代わりにここへ来たのだというくらいしか覚えていない。
一応は言葉も読み書き出来るし、生活様式も身についているようだから問題はないと思うけど……
千代崎百合香であり、リリコット・カシュケールでもある私は、前途多難なこれからの生活に小さく溜め息をついた。
そんな私の微かな嘆きを、目の前の美しいブロンドの青年は耳敏く聞き取ると、緑色の瞳を歪めながら、それはそれは上から見下ろすような態度で話しかけてきた。
「メリリッサ嬢、君はいったいこの国へ何をしに来たのだと思っているんだ?」
メリリッサとは、私の双子の姉の名前だが、この場合、彼がそう呼ぶのは正しい。
なにせメリリッサの婚約者でもある、このアクィラ王太子殿下は、姉の身代わりとして妹の私が嫁ぐことになったことなど一ミリたりとも知らされてなどいないのだ。
そんな騙し討ちは、モンシラ公国の為にも口が裂けても言えることではない。たとえ記憶が曖昧でも、絶対にあってはいけないことくらいわかる。
私が何も言えずに黙っていると、大きく舌打ちをしてアクィラ殿下が言葉を続けた。
「結婚の儀式前に自死未遂などやめてくれ。私は結婚などどうでもいいが、今さら予定は変えられないし、他の者を探すのも面倒だ」
殿下の言い分はごもっともだと思う。だけど、面倒だから死ぬなというのはなかなか酷い。
「しかも、護衛とはいえ男が君の浴室に入るというのも外聞が悪い。身持ちが軽いと言われても仕方がない有様だな」
侍女が二人しかいないのにそれは無茶と言うものだ。それに意識のないものを急いで運ぶのなら男手があった方がいいに決まっている。
整った顔を歪め、苛立ちを隠そうとしない殿下の言葉に、それだけ私が歓迎されていないことはわかったが、しかしだからといって、寝室で横になっているケガ人の前に来てまで嫌味をぶつけることはないんじゃないかしら?
腹を立てたせいか、少しだけやり返してやりたいと思って、つい声が漏れてしまった。
「アクィラ殿下はお見舞いにいらして下さったのですよね?でしたら十分お気持ちはいただきましたわ」
『もういいから帰れば?』という気持ちをたっぷりと乗せて笑顔で話しかけると、アクィラ殿下の端正な顔が驚きの表情でこちらを凝視していた。
その上、私の側に仕えている侍女のハンナとミヨの二人までもが、何故だか目を見開いている。
ええと、たいした反論をした訳じゃないのに、この反応はなんなの?
少なくとも公女としておかしな言葉遣いをした訳ではないはずだ。
一体全体、私はどれだけ受け身体質の人間だったのよ!?