043
「なにを……」
気を張っていても、隠している恐れが伝わったのか、アイリスは飛び切りの笑みを浮かべた。
「私を馬鹿にしてばかりいる、頭のいいあなたなら見てわかるでしょ? この教会と一緒に、あんたを燃やしてやるのよ」
彼女のあまりに残忍なたくらみに、絶句する。
アイリスは薬によって私の体の自由を奪い、その上で建物に火をつけようというのだから。
私は力を振り絞り、彼女からマッチを奪おうとした。
だが腕はのろのろとしか動かず、アイリスは簡単に私の力ない手を振り払う。
「ふふ、動けるだけ褒めてあげる。でもあんたはもう終わりよ」
そう言うと、アイリスは建物の隅に集めてあった屑の山に火をつけた。
どうやら最初から火種として利用するために、燃えそうなものを集めておいたらしい。
パチパチという火のはぜる音がして、私はマッチの火がその火種に燃え移ったことを知った。
「それじゃあ最後の時間を楽しんでね」
そう言って、アイリスは笑いながら建物を出ていった。
私は何とか起き上がろうとするが、まるで体を動かすための神経が寸断されているのではと思えるほど、ぴくりとも動くことができないのだった。
そうこうしている間に焦げ臭いにおいが鼻をつくようになり、パチパチという音もどんどん大きくなっている。
首を倒して火種を見れば、燻っていた炎が小さな焚火となって姿を現しているのが見えた。
白い煙がもくもくと上がり、私の焦りをより一層煽り立てる。
火事で死ぬ人は炎ではなく煙に巻かれて二酸化炭素中毒で死ぬのだという、前世の知識が脳裏をよぎった。
幸い今のところそれほど煙は吸っていないが、身動きができないのだからそれも時間の問題だろう。
炎は隙間風にあおられどんどん勢いを増し、その赤い舌で朽ちかけた教会の壁をちろちろと舐めている。
確実な死の予感が、横たわる私ににじり寄る。
これならば、自覚する暇もないほど一瞬で死ぬことができた前世の転落死の方が、いくらかましだったかもしれない。
まるでカウントダウンのように自分の寿命が縮まっていく現状は、どんなに気持ちを強く持とうとしても絶望で胸がつぶれそうになる。
こんな結末を迎えるくらいならば、シナリオ通り没落していた方がよかったのだろうか。
アイリスの目につかないようエミリアの取り巻きを続け、そしてエミリアの悪事から目を逸らして共に断罪されればよかったのか。
だが、いくら絶望に打ちひしがれても、自分の努力を無駄だと思いたくはなかった。
確かにその努力によってマチルダの疑念を買いこんなところに連れてこられたのかもしれないけれど、それでも私が何も成せなかったわけじゃない。
エミリアは悪役令嬢ではなく正統派の令嬢への道を進み始めたし、セリーヌだって将来的に姿を消さなくても、ウィルフレッド殿下のお力添えがあれば別の方法で身を立てることができるはずだ。
たとえ私が死んだとしても、きっと何もかもがアイリスの思い通りになるということはない。そもそも彼女のやり方では、誰も幸せにならない。彼女の思い通りの世界なんて、まっぴらごめんだ。
そのことをほんの少しだけ小気味よく思いながら、私は煙を吸い込んで咳き込んだ。
教会の中はどんどん煙の濃度が高まりつつある。煙は高い場所に集まる性質があるので寝かされている私はまだそれほど煙を吸ってはいなかった。
だがそれも苦しむ時間が余計に長引くだけのような気がして、それほど喜べたことでもないが。
こうしている間にも炎は確実に燃え広がり、火種があった場所に大きな火柱が立ち上がり始めていた。
私は次はどんな場所に転生するのだろうと現実逃避しながら、せめて恐怖に支配されないよう心を強く持とうとしていた。
***
「ジョシュア様!」
焦った声で名を呼ばれ、馬車に揺られながら物思いにふけっていた青年は我に返った。父に命じられて出席した夜会を、これでも早めに切り上げてきたのだ。
「なんだ。騒々しい」
考え事を中断されたジョシュアは不機嫌であった。
そもそも、シャーロットと顔を合わせることがなくなったここ数日、彼はいささか情緒が不安定気味である。
馬車が止まり、御者台からおりた御者が扉をあけ放つ。
「ご覧ください。どうやら火事のようです」
扉の向こうから、人々のざわめきが聞こえた。
そしてその更に向こう。どうやら王都の接する森の方角から、黒灰色の煙がもくもくと立ち昇っているようである。
ジョシュアはすぐに頭を切り替え、もしこれが森を焼く火事であった場合の被害を試算した。
生木は燃えにくいが、一度火がついてしまえばそう簡単に消すことは難しいだろう。更に、民家に燃え広がれば被害は甚大なものとなる。森に近い箇所は新市街にあたり、ほとんどが石造りの旧市街と違って木造の建物も多くあると、ジョシュアは知識として知っていた。
「くそ。厄介だな」
彼は顔をしかめると、御者に扉を閉めるよう指示した。
城では今頃事態を把握して斥候を出している頃だろう。ジョシュアは一刻も早く帰宅して、父親であるユースグラット公爵の指示を仰ぐべきだと判断した。
いくら王子の学友とはいえ、ジョシュア自身は宮廷でまだなんの役職も賜っていない。
だから下手に動けば逆に邪魔になる危険性すらある。
だがその時、ジョシュアは咄嗟にあることを思い出した。それは旧市街の中枢にあるユースグラット公爵家と違って、シャーロットの実家であるルインスキー伯爵家のタウンハウスが新市街に近い場所にあることだった。
だからなにというわけではない。この火事もおそらく伯爵家とは関係ないものだろう。だが、なぜだかジョシュアはシャーロットの無事を確認したくてたまらなくなった。
彼の理性は、一刻も早く公爵家に帰るべきだと叫んでいる。
だがジョシュアは、理性とは全く異なる決断を下した。
「ルインスキー伯爵家に向かってくれ」
「は?」
一瞬何を言われたか分からないという風に、御者が首をかしげる。
「ルインスキー伯爵家に向かえと言ったんだ! 急げ!」
いつもは冷静な主の怒号に驚き、御者は慌てて馬車の扉を閉めた。
そして再び、馬車が動き出す。
ジョシュアはなぜか嫌な予感を拭うことができず、絨毯の敷かれた床をいらいらと踏み鳴らしたのだった。




