042
「さぁて」
マチルダを追い返したアイリスが、こちらを向く気配がした。
今すぐに目を開けて、彼女を批難すべきだろうか。
近くに彼女以外の気配はない。だが、使われた薬の副作用は相変わらずで、目を開けたところでアイリスの隙をついて逃げることはとてもできなそう立った。
だが、そんな私の迷いをあざ笑うように、アイリスは言った。
「そろそろ目を覚ましたら? シャーロット・ルインスキー」
私は迷った。
彼女の言葉が、私が起きているか確かめるためのブラフである可能性もある。
しばらくそのまま目を閉じていると、突然鋭い風切音が響いた。
―――パシン。
一瞬後に頬に鋭い痛みが走り、反射的に目を開いてしまった。
私の顔を覗き込んでいたアイリスと目が合う。
彼女の顔には、なんとも形容しがたい嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
「やっぱり寝たふりだったのね」
その言葉を聞いた瞬間、私の心は決まった。
たとえ何があろうとも、彼女に気持ちで屈してはいけないと。
その侮蔑もあらわな視線からは、彼女が自分の下だと思う人間をとことんいたぶる類の人間だということが透けて見えた。
頬をぶたれたことで少し意識がはっきりしたことに、私は感謝した。
「こんなところに私を連れてこらせて、一体どうするつもりですか?」
じろりと睨みつけると、アイリスがつまらなそうな顔をする。
黙り込んだ彼女は放っておいて、私は周囲からできるだけ情報を得ることにした。
ろうそくの薄ぼんやりとした明かりに照らされているのは、見たことのない建物だ。
隙間風が入ってくるのかぴゅうぴゅうと音が鳴り、そのせいで炎が揺れて明かりもなかなか安定しない。
どうやら天井の高い木造の建物のようで、私が載せられている石の台座はまるで祭壇のようになっていた。
だだっぴろい空間に参列者のための席がずらりと並ぶ。
どうやらここは、教会のような建物であるらしい。
と、そこまで観察したところで、アイリスは私のもう片方の頬を打って言った。
「無視してんじゃないわよ」
笑みをなくしたアイリスの目は完全に据わっている。
静かな殺意を感じ、私は彼女に悟られないように小さく息を呑んだ。
「ほんと、信じられない図太さよね? 脇役のくせにウィルフレッドやジョシュアに近づくなんて。果てにはセリーヌまで生徒会に入っちゃうし、どこまで私の邪魔をすれば気が済むの?」
別に望んで彼らに近づいたわけではないが、どう言い返したところできっと彼女は納得しないのだろう。
口にしたことで改めて苛立ちを覚えたようで、彼女は私に馬乗りになり更に頬を打った。
パチンパチンと、高い天井に連続して頬を打つ音が響く。
一回打たれるごとに、私は脳がぐらぐらと揺れる不快感を味わった。
一回一回の力はそう強いものではないが、積み重ねられるうちに頬がまるで炎にあぶられているかのような熱を持つ。
アイリスも同様に手のひらに痛みを覚えたのか、彼女は頬を打つのをやめ肩で荒々しい息をついた。
「邪魔なのよ。あんたさえ、あんたさえいなければ……っ」
別に私がいなかったとしても、アイリスは攻略対象たちとゲーム通り幸せな結末を手にできるとは、とても思えなかった。
なぜなら私は、生徒会への投書で彼女が普段どのような態度を取っていたのかを知っている。セリーヌを追いかけまわしたり、ジョシュアにクッキーを押し付けたりと、実際に目にしたり耳にした彼女の行いもまた、決して褒められるようなものではなかった。
彼女の言動からは、徹底的に他者に対するいたわりが欠けている。
なのに全身から一方的に『愛してほしい』と叫んでいる彼女は、この世界の人々と決して対等に関わる気がないのだろうと思った。
幸か不幸か頬を打たれ続けた影響で、そんなことを口にする元気もなくなっていたが。
これからアイリスは一体どうするつもりなのだろうと、私はぼんやりと彼女を見上げた。
「あははは! あーはは、ははははっ」
すると唐突に、彼女は笑い始めた。
愛らしいピンク色の髪は憐れなほどに乱れ、新緑色の瞳は欲に塗れて濁っている。
彼女の方こそ、悪魔に魅入られているのではないかという気すらした。
ぞわぞわと、収まらない寒気が背筋を駆け抜ける。
彼女は私に馬乗りになったままひとしきり笑うと、まるで地上に投げ出された魚のように不器用な呼吸を繰り返しながら、肩を震わせて言った。
「でもそれも、今日で終わりよ」
アイリスの瞳は、圧倒的な優位に酔いしれていた。
彼女は私の上から降りると、まだ笑い足りないとばかりに目尻を拭う。
「あんたが飲んだ薬はね、覚醒こそ早いけれど丸一日は体の自由を奪う薬なの。手に入れるのに苦労したのよ」
どうりで、さっきからちっとも動けないはずだ。
それにしても、どうして今更そんなことを説明しだしたのか。
彼女の勝ち誇った顔を見ていると、嫌な予感しか感じられない。彼女の復讐がこれで終わりならどんなにいいか。
私はエミリアやセリーヌに呼び出されたことなど、これに比べれば嫌がらせでも何でもなかったなと場違いな感慨を抱いた。
「だからね、あんたはせいぜい苦しんで死になさい」
アイリスはそう言うと、胸元からマッチの箱を取り出した。




