033
ガリガリと、爪を噛む音が部屋に響く。
「お、お嬢様……」
令嬢付きのメイドは、主人の乱心に動揺したようにか細い声を上げた。
「なによ! うっさいわね」
お嬢様と呼ばれた娘は、右手親指の爪をがりがりとかじりながらメイドを睨みつけた。
――アイリス・ペラム。
『星の迷い子』ではプレイヤーの身代わりとなる少女である。
「出てって! 出てってよ!」
彼女は手近にあった花瓶を掴み、メイドに投げつけた。
運よくメイドにぶつかることはなかったが、その行動がより一層若いメイドを怯えさせたのは間違いない。
「し、失礼しました!」
これ以上部屋に留まれば殺されかねないと、メイドは脱兎のように逃げていく。
それを鋭い視線で見送ったアイリスは、まるで怒れる兎のように足を踏み鳴らした。
「なんで……なんでなの」
愛らしい容姿と清楚な小花柄のドレスを身に纏っていることが、彼女の特異な行動をより一層狂気じみて見せている。
またあのメイドも辞めるかもしれない。
アイリスの脳裏に、そんなどうでもいいことが浮かんですぐに消えた。
アイリスは、前世ではゲームや漫画を愛する根暗な根暗な少女だった。
ゆえに、彼女は異世界トリップの知識も持っていた。日本とはかけ離れた文化様式を持つ国々で、主人公が現代日本の知識を生かし周囲に認められていくという、ある意味お約束となったストーリー展開である。
ゆえにその知識を生かしてこの世界でも私TUEEEを実行しようとしたのだが、そう簡単にはいかなかった。
まず、事業を起こそうにも金がなかった。
彼女の家柄は、貴族では最下位の男爵家である。
更に父親も、特に金を稼ぐ能力があるわけでもない凡庸な男だ。
うろ覚えの知識でいろいろ試行錯誤してみたが、なにもうまくいかなかった。
身近な使用人に命令して化粧品なり料理なりを作らせてみたが、どうにも思ったようにいかない。
これではどうにもならないとお菓子を手作りしてみたりもしたが、それほどお菓子作りが好きというわけでもなかった彼女は一回作ったことのあるクッキーのレシピぐらいしか思い出すことができなかった。
そしてそのクッキーもまた、温度管理をお任せにできる電子オーブンがなければ綺麗に焼くことすらできないのだった。
そんなこんなで十歳を前にすっかり絶望したアイリスだったが、自分はゲームのヒロインなのだから、王立学校に入学できればすべてが変わるのだと思っていた。
華やかな攻略対象キャラクター達。
夜寝入る前に誰を攻略するのか検討する時間だけが、彼女の喜びだった。
それぞれに、引けを取らない地位と名誉と美貌を持つ男たち。
彼らに愛される自分を想像しては、有頂天になって眠りにつく。
――あのキャラもいい。だがこのキャラも捨てがたい……。
もともと彼女はゲームの絵師のファンだったため、外見で言えばキャラ全員がストライクゾーンだった。
だがその中でもやはり、ウィルフレッド王子は別格だ。
金髪碧眼で心優しい、まさに絵にかいたような王子様。
彼を落とすことができれば自然と王妃の座が手に入る。ウィルフレッドしか攻略したことのないアイリスは、彼のことをほぼ安パイとして見ていた。
己のゲーム知識を使えば、間違いなく攻略できる相手。なので彼女は、ウィルフレッドと親密度を高めつつ、他の攻略対象キャラクター達の攻略方法を解明することに心血を注いでいた。
だからしばらくは、気づかなかった。
順調に攻略を進めているはずのウィルフレッドとの間に、起こるはずのイベントが起こらないことに。
彼に渡すべきプレゼントも、いつも鞄に入れていたが一向に渡す機会が訪れない。
それどころか、学校中探し回っても彼と出会うことすらできなくなった。
ジョシュアの苦言を受けたウィルフレッドがアイリスのことを避けていたのだが、彼女はそのことに気付かなかったのである。
それに、ライバルキャラクターであるエミリアが思い通りに動かないのも、大変面白くない。
アイリスの予定では今頃、彼女はエミリアを蹴落として生徒会役員入りしているはずであった。
だが実際に生徒会役員となったのは、シャーロットという地味な脇役キャラである。
そしてそのモブキャラが、現在アイリスを最もイラつかせているキャラクターであることは間違いなかった。
先日のクッキーの一件で、シャーロットもゲーム知識を持っていると気づいたアイリスは、彼女を現在の立場から引きずり下ろすため一計を案じた。
セリーヌ率いる隣国と縁深い一派に、エミリアをウィルフレッドの婚約者にするためシャーロットという女生徒が怪しげな集まりを主宰していると囁いたのである。
実際アイリスは、ゲーム知識を持つシャーロットが何か不正をしているのだろうと半ば信じ切っていた。
そうでなければ、あんな可愛いわけでもない地味なモブが王太子の代名詞でもある生徒会に入るなど、ありえない。
その上シャーロットは、なぜかライバルキャラであるエミリアにも一目置かれている様子である。ヒロインがウィルフレッドに近づくのを徹底的に妨害するはずの彼女が、シャーロットの生徒会入りを容認しているのはあまりにも妙だ。
そしてこの作戦は、攻略対象キャラクターであるセリーヌに近づくためのものでもあった。
アイリスは、セリーヌが男性で攻略対象であることこそ知ってはいても、攻略したことがないので詳しい攻略方法が分からない。
なのでPVで採用されていた着替え中のセリーヌとの遭遇スチルを再現しようと彼を追い回していたのだが、それがうまくいかなかったのだ。
今回の作戦は、そんなセリーヌに情報を流して恩を売り、なおかつシャーロットを生徒会から排斥するという一石二鳥の作戦だった。この作戦を思いついたとき、自分は天才じゃないかとアイリスは一人悦に入っていたほどである。
だがそんなアイリスを昨日、驚くべき知らせが襲った。
それはシャーロットに続き、セリーヌとエミリアが生徒会役員として承認されたという知らせだった。
どうしてそうなるとアイリスは歯噛みしたが、そんなことをしているのは彼女一人で学内はむしろ歓迎ムードだった。
ここでエミリアだけが役員になればセリーヌを婚約者候補として推している一派は激しく反対したことだろう。だが彼女も同時に生徒会入りを果たしたことによって、ウィルフレッド王子がいよいよ正式に婚約者をきめる気になったのだろうと学内は沸き立っていた。更にセリーヌを主軸とする一派も十分に勝算はあると見込んでいるのか、総じて好意的である。
それが気に入らず、アイリスはこうして昨日から荒れ狂い学校を休んでいた。
重い花瓶であろうと関係なく人に投げつけるため、彼女を世話するメイドたちは皆怯えて泣き出す者まで出る始末だ。
ぎりぎりと爪を噛みながら、アイリスは必死に頭を働かせていた。
そして心に誓うのだった。自分の代わりにおいしい思いをしているシャーロットを、必ず後悔させてやるのだと。




