028
馬車で帰宅すると、体はすっかり疲れ切っていた。
いつもに比べれば大したことはしていないはずなので、むしろ気疲れしたと言うべきか。
「お嬢様どうなさいましたか? 顔色が悪いですよ」
「何でもないのよ。ありがとう」
毎日顔を合わせているマチルダがこう言うのだ、よほどひどい顔をしていたのだろう。
とにかく気持ちを切り替えようと、今日は早く寝て仕事は早起きしてやることにした。
睡眠は気分転換に最適だ。
落ちるように眠りに落ちたが、睡眠の質はあまりいいものではなかった。
そろそろ疲れが出てきているのかもしれない。
翌日はマチルダが起こしに来る前に目を覚まし、持ち帰ってきていた仕事を片付けた。
「いつ起きられたのですか!?」
朝、私を起こそうとやってきたマチルダに驚かれた。
前世の記憶を取り戻す前の私は朝が弱かったので、一人で起きたことがよほど意外であるらしい。
「どうしても片付けなきゃいけない書類があって……」
すると、マチルダは呆れたようにため息をついた。
「お嬢様。書類仕事など令嬢のする仕事ではありませんわ。一体どうしてそのようなことを!」
いつもは優しいマチルダの声に、険が混じっている。
どうして非難されるのか分からず、私は驚いてしまった。
「どうしてって……」
没落を回避するために生徒会を手伝っていたら、いつの間にか役員になっていた。
そんな事情を説明したところで、それらの事情を知らない彼女に理解してもらえるとは思えない。
「え、エミリア様のためよ。私が生徒会の仕事をすれば、エミリア様が助かるの」
咄嗟にエミリアの名前を出して誤魔化してしまった。
効果は絶大で、それならば仕方ないとばかりにマチルダはうつむいた。
私は心の中でエミリアに土下座する。
その後、あまり食欲はないので軽くフルーツで朝食を済ませ、私は学校に向かった。
今日もスケジュールが詰まっている。
なんとなく疲れが抜けきれない体に鞭打って午前の授業を終えると、私は昼食をとるカフェテリアには向かわず、昼寝場所を求めてひと気のない古い温室にやってきた。
新しい温室が作られて数年たっているので、校舎から少し離れた場所にあるこちらは手入れもされておらず雑草が伸び放題になっている。
ガラスも割れていてまるで廃墟のような有様だが、そのおかげで人も近寄らないのが私には好都合だった。
なにせ、良家の令嬢が昼寝などしているとばれたら、大事である。おちおち昼寝もできない生活に、私は少しのわずらわしさを感じた。
ちなみに、私がどうしてこんな場所を知っているかというと、それもゲーム知識のおかげである。
攻略対象キャラクターの一人である教師と、ヒロインがここで逢引きをするのだ。
けれど逢引きイベントは決まって夜だったので、昼ならば彼らとかち合うこともないだろうと来てみたのである。
その予想は当たりで、古い温室は静まり返っていた。
私は大きな南国の植物の影になったベンチを見つけ、軽く埃を払うとその上に横になった。
こうして誰にも気兼ねすることなく横になるというのは、ひどく気が楽だ。そうして間もなく、私は眠りに落ちていった。
―――――
雑草を踏む音がして、目が覚めた。
一瞬寝すぎたかと慌てたが、ガラス越しに見る太陽の位置はさほど変わっていない。
だが、ぼんやりと霞みがかっていた頭にゆっくりと危機感が滲みだしてくる。ガサガサという足音に恐怖を覚え、私はそっと侵入者に気付かれないように体を起こした。
南国特有の鮮やかな緑の植物は、手入れを怠ったせいであちこちに葉を延ばしている。枯れていないということは寒さに耐性があったのだろう。そのことに感謝しつつ、私はその葉の隙間から侵入者の姿を盗み見た。
すると、そこに立っていたのは驚いたことにセリーヌだった。
どこかで運動してきたのか、彼はひどく汗をかいていた。
そしてその手には替えのインナーが。
私はその先の展開を予想して目の前が真っ白になった。彼はおそらく、汗をかいたから着替えるためにこの古い温室にやってきたに違いない。
性別を偽っているのだから、着替えの場所に気を遣うのは当然だろう。
だが、それがどうして寄りにもよって今、それもここなのか。
温室の出口は一つきり。セリーヌの横を通り過ぎなければ逃げることはできない。
私は身をかがめ、必死に息を殺した。
何があっても、ここにいることを彼に気付かれてはいけない。
隠している性別がばれたと分かったら――実際には元から知っているのだけれど――彼が一体どんな行動に出るか分からないからだ。
ヒロインに対しては、このことは内緒にしてほしいと口止めするにとどめていたが、彼女から見れば私はエミリア派の人間である。
現時点では、己の秘密を最も知られたくない人間の一人に違いないのだ。
だがその時、午後の授業を知らせる鐘が鳴った。どうやら思っていた以上に眠ってしまっていたらしい。
よりにもよって、次はミセス・メルバの授業だった。
遅刻ぐらいならいいとして、絶対に欠席はできない。
私はどうにか温室から出る方法はないかと、再びセリーヌを盗み見た。
彼はちょうどシャツをはだけたところで、この位置からでも胸に詰め物をしていることが見て取れた。まさしく決定的瞬間だ。
やっぱりゲームの設定と同じで男性だったのかと思いつつ、私はどうにか脱出の方法がないか周囲を見回す。
すると温室のガラスが一部分だけ割れており、腰をかがめれば何とか外に出れそうになっていることに気が付いた。
ここを抜けられれば、セリーヌに気付かれず外に出られるはずだ。
私は迷っている暇も惜しいとばかりに、腰をかがめてその穴から顔を出した。アクリルなんてものはないので、壁の材質はガラスである。慎重に外に出なければ、割れたガラスの切っ先は容易く肌に傷を作るだろう。
慎重に慎重に通り抜けようとしたが、悲しいことに途中でレースが尖ったガラス部分に引っかかった。
レースを破かないようにそっと外そうと手を伸ばし、誤ってガラスで指をこすってしまう。
「いたっ!」
思わず声が漏れて、私は口を押さえた。
だが、時すでに遅し。
私を隠してくれていた植物の大きな葉の向こうから、驚きに顔をひきつらせたセリーヌがお顔をのぞかせていた。




