020
「まって!」
廊下を歩くアイリスの背中を見つけ、私は叫んだ。
お淑やかじゃないとか、礼儀にかなっていないとか、そんなことはどうでもよかった。
今はただアイリスを呼び止めること。そして彼女と話すことしか、頭になかった。
足を止めた華奢な背中が、ゆっくりと振り返る。
「なにかしら?」
ピンク色の髪をした少女は、先ほどとは違う大人びた笑みをたたえていた。
彼女の目の前に立って、はあはあと肩で息をする。
追いつけた安堵と、まず何を言うべきかということで私の頭は真っ白になった。
そんな私のことを、彼女は余裕の笑みで見つめている。
まるで――私が追いかけてくると知っていたかのように。
「あな……たも」
ようやく息が整い、私は彼女をまっすぐに見つめた。
どんな小さな仕草も、見逃してしまわないように。
「日本から、きたの?」
この言い方が、正しいかどうかは分からなかった。
でも『ツンデレ』という単語は日本独自のものだと思うし、外見はこの世界でしかありえない姿なのだから転生者だというのが私の考えだ。
言い終えた瞬間、一瞬のうちに脳裏にはたくさんのシミュレーションが展開された。
彼女が日本という国を知らない場合。あるいは知っていても、『星の迷い子』はプレイしていない場合。
同郷だと喜んでくれたらいいが、さっきの様子を見ると私に敵対心を抱く可能性もある。
一体どんな反応を示すだろうかと注意深く観察していたが、彼女の興味は全く別のところにあった。
「その袋」
「え?」
アイリスに指摘されて、私は自分の手を見た。
そこには、さきほどごみ箱から救出したばかりの、クッキーの包みが握られている。
「どういうこと? なんであなたが持ってるの?」
笑いながら、彼女は言った。
その笑みは、生徒会室で見せたそれと同じ、自分の優位は絶対に揺るがないのだという自信を秘めたものだった。
「あっ……こ、これは……」
咄嗟に、クッキーをもったまま彼女を追ってきてしまったことを私は悔いた。
これではまるで、彼女にクッキーを突っ返しに来たようではないか。
どう言い訳しようか悩んでいると、アイリスはわざとらしくため息をついた。
「まったく、いやになっちゃう」
言葉とは裏腹に、彼女は含み笑いをやめようとはしなかった。
「ジョシュアが直接返しに来てくれればよかったのに」
彼女の黄緑色の目が、余計なことをと雄弁に語っている。
「それにしても、あなた」
くりくりとした小動物じみた目が、まるで値踏みするように私の全身を見回した。
そしてくすりと、小さな嘲笑。
「やっぱりあなたも日本の人だったんだぁ。道理でおかしいと思った。その顔でライバルキャラとか、笑えるもの」
彼女の言葉は、隠そうともしない毒によって埋め尽くされていた。
まるで虫でも見るような、自分の優位を欠片も疑っていない眼差し。
「ゲームの知識を使って、モブのくせに生徒会役員? はっ! それで主人公たる私に成り代われるとでも?」
彼女はどうやら、私がウィルフレッドやジョシュアに近づくために生徒会に入ったと勘違いしているようだった。
「違う! 私はそんなつもりじゃ……」
私の目的は、ゲームから離れることにあった。
ゲームでは名前すら出てこないモブなのに、悪役令嬢の巻き添えで没落エンドなんてまっぴらごめんで、だから自分で人生を切り開こうとした。
生徒会になんて入るつもりはこれっぽっちもなかったし、アイリスの邪魔をする気だってなかった。
そう――今日までは。
「惨めね。たまらなく惨め。そんなに地味な顔で、名前もないモブのくせに、私になれるわけないじゃない。どうして分からないの?」
彼女はかわいらしく小首をかしげて、言った。
「ここは私のための世界なの。王妃の地位も、いい男も、全部私のもの。あんたに分けてあげられるものなんて何一つないんだから、さっさと舞台から消えてよ」
話せばわかるのではないか――。
私の淡い期待は霧散した。
彼女に話せば労せずして没落を回避できるかもなんて、儚い夢だった。
「そんな……」
「はあ、いやになっちゃう。モブなんかと話して時間を無駄にしちゃった」
そう言って、彼女はサヨナラも言わず私に背を向けた。
その背中を見ながら、呆然と立ち尽くす。
湧き上がってくる感情を、どう表現していいのか分からなかった。
これは怒りなのか呆れなのか、それとも悲しみなのか。
気づくと、涙が出ていた。
でもそれは彼女に対する怒りからの涙でも、罵倒された悔しさの涙でもなかった。
「ジョシュアたちは、ものなんかじゃない……」
今まで私は、エミリアもジョシュアもウィルフレッドも、関わるべきではないゲームのキャラクターだと思っていた。
でも同じ転生者であるアイリスと話をして、猛烈に感じたのは彼女の言葉に対する反発だ。
自分を変えようとしているアイリスも、生徒会を一人でどうにかしようと躍起になっているジョシュアも、キャラクターなんかじゃない。そこに生きている一人の人間だ。
そう思ったら、涙が出てきた。
自分も最初はただのキャラクターだと思っていた事実が、どうしようもなく情けなく感じる。
「ぜったい、許さない」
私はこの時、決意した。
アイリスには、何一つあげはしないと。
彼女のような人に、この世界を思い通りにされるなんてまっぴらだと。
たとえ彼女に取り入って没落を免れたところで、アイリスが王妃となった国で政務官として働くことなんてできない。
自分以外人間だと思わないようない人に、仕えるなんてまっぴらだ。
「あんたがそういう態度なら、こっちだってやり方を変えさせてもらう」
乱暴な感情が爆発的にあふれ出し、どうにも止めようがなかった。
あの女の好きにさせてたまるか。その思いが私を突き動かしていた。
手の中で、クッキーの包み紙がクシャリと音を立てる。
今までずっと没落しないための防御に徹していた私が、攻撃に転じた瞬間だった。




