001
――あ。
と、思った時にはもう遅かった。
階段の踊り場にいたはずの私の足は、ふかふかとした赤い絨毯から離れてしまっていた。手すりを掴もうとするが、全ては手遅れだ。
視界がさかさまになり、重力に従って体が地面に叩きつけられた。そのまま慣性に従って、ごろごろと階段を転がり落ちていく。
といっても、記憶にあるのは階段から足が離れたところまでだ。その先は、私が落ちたところを目撃していた友人から話を聞いた。
友人――そう、その友人こそ私が階段から転げ落ちることになった原因でもあるのだが。
私はその友人に命じられて、ある人物の動向を探っていた。
なんでこんなことを私がと思いながら、それでも逆らうことはできなかった。そしてその監視の対象が突然振り返ったことで、咄嗟に隠れようとして階段から落ちてしまったわけだ。つまり自業自得である。
友人の名は、エミリア・ユースグラット。
ユースグラット公爵家のご令嬢で、私は彼女に従う所謂取り巻きというやつだった。
おかしな話かもしれないが、この日までは私は彼女に付き従う自分になんの疑問も抱いてはいなかった。そりゃあ、多少横暴で無茶を言ってくるとは言え、階級が上である彼女に逆らうなんてまったく思いつきもしなかったのだ。
私はそういう、おそらくは流されやすい娘だった。
ついでにいうなら、この性格は私の家庭環境にも関係していた。
我が家は伯爵位を持ちながら貧しい家柄で、どうしようもなく領地運営の才能がない父は上位貴族に取り入ることしか頭になかったのだ。
父と顔を合わせればいつも、エミリアの言うことは何でも聞くようにと言われていた。まるで彼女に少しでも逆らえば、我が家が滅ぶとでも言いたげに。
そういう理由もあって、私はエミリアの言うことなら何でも聞いた。彼女が望むように相槌を打ち、必要ならば他人の悪口も言ったし悪戯だってした。この世で最も恐ろしいことは、エミリアとその周囲にいる取り巻きの令嬢たちの輪から外されることだった。
けれどもう、そんなことは言っていられない。
だって私は、思い出してしまったから。
エミリアが――悪役令嬢であることを。
***
目が覚めると、まず知覚したのは体中のずきずきという痛みだった。
どうしてこんなことになっているのだろう。
不思議に思い目を開くと、そこは自室ではなかった。知らない天井どころではない。天蓋付きの贅沢な天井だ。
驚いて体を起こそうとすると、全身に激しい痛みが走った。うぐぅと小さく唸り、ふかふかのベッドに再び体を預ける。
部屋には誰もいないようだった。明り取りの窓が小さいせいで、部屋の中は薄暗い。一体今は何時ごろなのか。
どうしてこんなことになっているのか、記憶を掘り起こしてみる。
私の最後の記憶は、残業終わりで疲れて帰宅して、アパートの階段を上っている辺りで途切れていた。天気は横殴りの雨で、部屋に入ったらすぐにお風呂に入るんだと意気込んでいたはずだ。
しかしベッドに寝かされた私の体は、着替えさせられているのか雨に濡れたような感触はなかった。
一体どうなっているんだと思いながら、今度はゆっくりと上半身を持ち上げる。
「いたっ」
こめかみにずきりと痛みを覚え、思わず声が出た。
そして同時に、頭の中に覚えのない記憶がよみがえってくる。自分が伯爵家の娘であること。エミリアの取り巻きであったこと。彼女の命令で公爵家の夜会にきていたウィルフレッド王太子殿下の後をつけていたら、突然振り向かれたことで驚き階段から落ちてしまったこと。
「なにこれ?」
あまりの記憶の混乱具合に思わず笑えてくる。
私は平凡な事務員に過ぎず、更に言うなら他愛もないオタク趣味を隠して生きる何の変哲もない独身女だった。
(てゆーか、エミリアって……)
その名前には見覚えがあった。
エミリア・ユースグラット。
ちょうど先日フルコンプしたばかりの、乙女ゲームにそのような名前のキャラクターがいたはずだ。
恋愛ゲームアプリ『星の迷い子』は、世にも珍しいライバルキャラクターに特化した乙女ゲームだった。
攻略対象キャラクター一人一人に対して個別のライバルキャラが存在しており、お目当てのキャラの親密度を上げるごとに、ライバルキャラからの攻撃も激しくなるという誰得仕様だ。
何とも女のいやらしい部分を突いたゲームと言える。
私はそれにすっかりはまってしまい、大人の資金力を用いて存分に楽しんでいた。
エミリアというキャラクターは、ゲームの中でもメイン攻略キャラである金髪碧眼の王太子を攻略する際に立ちはだかるライバルキャラだ。
赤い目に赤い髪という目が痛くなるような配色のキャラデザがなされており、主人公に典型的な意地悪をする上シスコンという色々詰め込まれた設定にファンの間では『敵意を通り越して愛しさすら感じさせる』と言われる特殊なキャラである。
その記憶にあるエミリアの立ち姿と、たった今蘇ったもう一つの記憶――私に王太子の後をつけるよう命じたエミリアの姿は完全に合致していた。
(ということはなに? 私ってもしかしてエミリアの取り巻きなの?)
もしここがゲームの世界だったとしても、エミリアの取り巻きなんて名前もないモブである。スチルに姿すら現さないモブ中のモブと言っていい。
(いやいや、ありえない。ありえないから!)
夢にしてももうちょっとどうにかやりようがあったのではないかという自分の状況に頭を抱えていると、控えめなノックの音がしてカチャリとドアが開いた。
「あら……シャーロット様、お目覚めになったのですね!」
返事を待たず部屋に入ってきたメイドらしき女性は、まさか私が目覚めていると思わなかったらしく驚いたような声をあげた。
どうやら私は、今はシャーロットという名前で間違いないらしい。
シャーロット・ルインスキー十六歳。
これが私の、乙女ゲームのモブキャラとしての日々の始まりだった。