一、クリスマスの秘密
他の人より感じる温度が低いって、厄介だと思う。
冷えた手は常に息を吹きかけて擦り合わせる動作は、もう何回繰り返しているんだろう。足はどうにもならないから辛い。指先は氷のように冷たくて痛い。
常に寒気がつきまとっている私は、今、学校にいる。
さて。どうして真っ暗なホームルームで、夜の十時にかくれんぼしているのか。話は今日のお昼に遡る。
季節は冬。
十二月二十五日、クリスマスの日。
机を二つ合わせてそれを四人で囲む、お昼を食べるときのいつものスタイル。
私の右にはシカさんと呼んでいる控えめな女の子。正面にはいつも元気で笑顔のリオ。その隣には、自称「リオ制御マシーン」のアユがいる。
性格は真逆というか、全員バラバラで不思議な組み合わせといった方が正しいと思う。もともとシカさんと意気投合して二人でいたはずなのに、気づいたらリオとアユがまざっていた。二人は幼稚園の頃から一緒らしい。
「いっやー。今日はクリスマスだよ、アユ!」
「うん、そうだね。クリスマスだねー」
アユは自分の孫を見るおばあちゃんのような優しい目をしていた。
もう慣れたんだろうね、とシカさんに小声で言うと、シカさんはくすくすと笑っていた。
「みんな親になにか頼んだりするの?」「うちは新しいカバン!」
リオが聞いてリオが答えるまで、時間はかからなかった。
アユが次に答える。
「あたしはなしです。中学からプレゼント制度はやめてるので」
「シカさんは?」リオが聞いた。シカさんはフルフルと首を横に振る。
え、そうなんだ。みんなクリスマスプレゼントって、もう卒業してるんだ。なんて思っている私も、貰っていないんだけど。
三人の視線が集まり、私は言う。
「私は、なんだろう、カイロとか?」
嘘をつくのは得意だ。
リオは噴き出してお腹を抱えて笑いだした。アユもお弁当箱を持ったまま必死に笑いをこらえていた。真剣に考えたんだけどなあ、と心の中で呟く。
まあ、貰えるなら実際そうしているかもしれない。クリスマスプレゼントが百均ショップのもので済んでしまうほど、低血圧を極めているわけだし。
他の人より感じる温度が低いから、冬なんて地獄だ。風邪ひきは常連。カイロは常備。インフルエンザも夢じゃない。中学の頃はしょっちゅう休んでいた。
でも、それよりも、一番ひどいと思っているのはしもやけだった。
怖いのは、しもやけになる時期が早くなってきていることだ。それに最初、指の関節辺りは紫色に変色していただけだったが、だんだん悪化して茶色の痕が残るようになってしまった。
十二月だから、今はまだ紫色でとどまっているけれど。
右手の小指の第二関節には、目立たない肌色の絆創膏。自由が利かないのは不便だが、土で汚れたみたいな色をしているのを見られるよりはいい。これから絆創膏を貼る指が増えるんだと思うと憂鬱だ。
「あ、そうだ」
リオが卵焼きを口の中に放り込んで顔を上げた。
「それでさ、うちらってお泊り会とかしたことないじゃん? アユと話してたんだけど、今日お泊り会できたらいいなあって」
今日、という言葉にぎょっとした。
「ちょっと急じゃない?」
「わたし、むりです」私に続いて、シカさんも言う。
「ほらぁー、だから言ったじゃん。計画はもっと早めに立てなきゃ」
「ええぇ......」
リオが八の字に眉を下げた。アユの言う通り、計画は当日に立てるものではないと思う。
「お泊りじゃなくて、なにか他のことじゃダメ?」
「例えば?」
リオに聞くと、逆に聞き返されて困る。他のこと......今日なら、放課後にどこか行くのはどうだろう。
ぱっと思いついたことを提案してみたけれど、「いつでもできそうじゃない?」と却下されてしまった。
その後も、アユと私はいろいろ案を出し続け、リオは「だめ」「それはちょっと」と却下を続けた。シカさんはお弁当を食べ終わって、スマホを見ていた。
一向に決まらないから、一向にご飯も減らない。そして、時計を見てハッとした。あと十分で授業が始まる。
私がそう言うと、アユは「もー!」と焦ったようにおかずをどんどん口の中に入れ始めた。
「リオはどんなのがやりたいの?」
「だから、お泊りみたいに初めてのこととか」
「こういう系のがやりたいとか、具体的になにかないの?」
アユが聞いて「そんなのすぐ思いつかない」なんてリオが答えるものだから、アユの表情は歪む一方だ。
会話を始めて二十分で喧嘩になりそうな空気。仲がいいのか悪いのかよく分からない。いや、いいんだとは思うけど。
シカさんに助けを求めようかと思い右隣を見る。ふと、シカさんの携帯に目がいく。
何を見ているんだろう。ニュースかなにかだろうか。
白い画面に横書きの文字が列になって書かれているのが分かった。
そおっと近づいて気づかれる前に見ようとしたら、すぐに気づかれてしまった。
「なに見てるの?」
「夜の、学校にね、たぬきだって」
「たぬき?」
こちらに向けられた画面を見る。
ニュースという読みは正しかったらしい。まとめると、夜のある小学校の校舎にたぬきが入っていた、という記事だった。夜に学校をまわっていた先生が気づいたみたい、とシカさんは付け加えた。
お弁当箱を片付けながら考える。
たぬき。小学校。夜。夜の学校......。
「あ」と、無意識のうちに声が漏れていた。
前でいろいろ言い争っている二人に向かって、私は言う。
「夜の校舎に入るの、どう?」
二人は少しの間、口を開けたまま固まった。喧嘩になるのは嫌だから咄嗟に思い付きで言ってみたけど。
待てよ、よく考えたら相当やばいのではないか? いや、やばいと思う。
自問自答したときにはもう遅かった。リオの表情がぱあっと効果音でも出そうなくらい明るくなる。いや、だってシカさん、絶対そういうのは無理でしょ。アユが私を見てそう訴えている気がした。
私もそう思ったから、ゆっくりと様子を伺うように目を向ける。そしたら、シカさんは目を輝かせていて。
「ぜひ、行きましょう」
予想外の言葉に三人は固まった。
**
事前に開けておいた一階の教室の窓から入って、鍵を閉めて証拠隠滅。
シカさん情報によると、夜の学校は誰かが回っているのでそう簡単には動けないらしい。まあ、歩く音は静かな廊下によく響くし、暗い中じゃライトは必須のはず。気を付けていれば大丈夫だ。
校舎に入る前に、来たら来たでとアユが言っていた。まあ、その通りだろう。
「ちょっとリオ、歩くの速いよ」
「なに言ってんの、進まないじゃん」
意外だったのは、シカさんがこういうのに興味があったこと以外にももう一つあった。アユが苦手だったことだ。
リオは歩きにくいから離れてほしいとさっきから言っているけれど、それも聞かないでずっとリオの右腕にしがみついている。いつもかっこよくて強いイメージがあるのに、こういうところは乙女なアユ。
弱みを握ったとかそういうものじゃなくて、ただ素直に、意外な一面を知れてよかった。
というか、さっきから感じてはいたけど、校内って案外寒いんだな。もっと温かいと思っていた。
黒のタートルニットに、グレーに近い色の青のデニムパンツ。上にコートかなにか羽織るものを持ってこればよかった。
校内探検のあとも、私達はしばらく廊下をさまよっていた。
「どうする、このあと」アユが小声で言う。
時間を確認すれば、ちょうど秒針が12をまわって十時になった。お化け屋敷感覚で色んな教室を回ったのは結構楽しかった。ただ、温度は気になる。
息を吹きかけた冷たいガラスが、白く曇る。頬に手を当てれば、手が温かく感じた。そろそろ帰りたい。帰ったほうがいいと思う。
そう言いたかったけど、誰もなにも言わないから言いにくい。シカさんはあまり表情には出していないけど、ルンルンしているのが伝わってくる。もっとここにいたいんだろう。
そうやって躊躇っていたのが、裏目に出たようだ。
「わたし、かくれんぼ、したい」
「かくれんぼ?」
「いいんじゃない? 楽しそう!」
珍しく活発なシカさんにいつも通りのリオ。
こうなったらアユも私も止められない。シカさんと私、アユとリオの組み合わせだったはずなのに、今では意気投合して新しい組み合わせになってしまっている。
「じゃあ、十時半に学校の校門の前で集合しよう」
「鬼は誰?」
「先生がまわってるんでしょ。先生にしたら?」
アユが提案すると、リオは面白そう!と笑う。
「やば、本当のかくれんぼみたい! でも、見つかったらうちらアウトだよね?」
「その時は連帯責任でしょ」
「まあ、そうだね。リスクありのかくれんぼ、どう?」
最後はまだなにも言っていない私に話が振られる。もちろん丁寧にお断りしたいが、そんなことができるわけがない。
いいね、楽しそう。私の発言により、かくれんぼが決定する。
すると、なんということだろう。タイミングよく、コツ、コツとどこからか小さな足音が聞こえてきたのだ。私だけじゃない。三人も気づいていた。
そして、スタート、と焦って誰かが言ったのを合図に、四人はバラバラになった。
一刻も早く帰りたい私は、すぐに外に出られるように一階のホームルームで待機することにした。
外と中の温度はさほど変わらないが、外は風があるからまだ中にいるほうがいい。十時十分。あと二十分の辛抱だ。
少しは空気がこもるだろうと思って、私は教壇の下のスペースで膝を抱えて丸くなっていた。指先が冷たい。関節が痛い。はあっと息を吐いてそれを手で包み込むようにすると、次にゆっくりと擦り合わせて温める。
寒気がするからなにか羽織りたい。温かいものが飲みたい。ああ、明日はなにしようか。学校の帰りにコンビニにでも寄って、カイロを買おうかな。
考えることをやめれば強烈な眠気に呑まれてしまいそうで、私はただひたすらそんなことを考えていた。
手の甲に爪をたてたり爪切ったりもした。
痛いのを我慢するのは、得意だ。なにも言わないのも、得意だ。
そうやって耐えて、いくらか時間が過ぎていった。手が疲れてきて、膝を抱えていた腕を緩めたときだった。
――――。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
私の足の先のほんの数メートル先。ガラガラと鈍い音を引きずりながら戸を開ける、大きな影。ゆっくり動き、それでいて辺りの闇に溶け込んでいたから、形がはっきりしていなかった。
長く細い二本の足。いや、引き戸の幅ギリギリの大きさの一本の足? どろどろと溶けて地面を張っている液体のようにも見える。
私にそれは、人間ではなくなにか化け物のようなものに見えていた。
焦った私の頭は、半分動いていないのにも関わらず高速回転を始める。そしてたぶん、私は重大なミスをしていたということにことに気づいた。
寝てしまったのだ。耐えたつもりが、完全に眠ってしまっていた。
足音が聞こえなかったのもそのせいなんだろう。もし聞いていたなら、すぐに窓から逃げることだってできた。
数分前のことなのに記憶が無いのも、納得がいく。手の甲に爪の痕がないのも、もうとっくにやめていたからだ。
足音が近づいてくる。
一人が見つかれば連帯責任なのだから、ここで私はこの人に見つかるわけにはいかない。だから一瞬、逃げようと思った。
大きめの懐中電灯から出た光が、私の横を音も立てずに通り過ぎていった。そして、自分の着ている服の黒に光が当たって静止したのが、視界の隅に映った。
反射的に、身を隠すこともできなかった。刹那、背中を悪寒が走り、頭の中でその一瞬が途絶えることなく何度も再生される。逃げようなんて考えは打ち砕かれ、どうすることもできない状態に簡単に追い込まれてしまった。
鼓動はだんだん加速する。頭から足の先まで全身に響き渡る。
少ししてから、パチン、とスイッチが切れるような音がした。懐中電灯の電源を切ったようだ。
辺りから音が消えても、どくんどくんと嫌な音が私の体を支配していた。何を考えているんだろう。さすがに私に気づいてないなんてことはないはず。
......。
ああ、そうか。この後どうするか、迷っているのかもしれない。
「親には言わないで」と泣き出したりすると面倒だから、どう接するかを考えているのかもしれない。
でも、それにしては長すぎる。もしかして、私が白旗を上げて出てくるのを楽しみに待っているんだろうか? 性格が悪いんだな、先生って。
もし男の先生なら、出てきたときになにかしてくる可能性もないわけじゃない。まあ、そんなこと、ないとは思うけれど。
自分の中を流れる凍りそうなほど冷たい血の、騒がしく生々しい音が不安を煽っていく。感情を殺しきれず、手が震えているのが分かった。
そしてようやく、無言の空間に短い言葉が投下された。
「大丈夫?」
透き通った低声に丁寧な声遣い。どこか色っぽくて、囁かれているような優しい響きを持っているそれは、確かに頭上から降ってきているのに、まるで耳元で言われたみたいにはっきりと聞こえた。
それから間をあけず、トン、と地面を踏む音が一つ響いた。反射的に顔を向ければそちら――――左隣に、中腰になってこちらを覗いている男の人と目が合った。ちゃんと、人間だった。
お堅い感じではなく、それもだいぶ若そうな男性。男性......というより、お兄さんか。マスクをしているせいで顔全体は分からないけど、二十代ぐらいだと思う。
ブルーグリーンのニットセーターの上から、杢グレーのチェスターコート。黒のスキニーパンツは清楚さがあり、落ち着いた印象を受ける。首からシルバーのペンダントをさげていた。
詰まっていた息を吐く。緊張が解けかけて、緩んだ服と肌の間に隙間ができた。それが寒くて、慌てて体を丸くする。
なんだ、大丈夫って。柔らかい口調はわざとなのか分からないけど、警察の人みたいだ。まあ、先生だし、似たようなものか。そんなことを思っていたら、あるものが目に入った。
しばらく見つめあったまま、静止した。先に動いたのは私。
教壇の足に手をかけて飛び出すと、大きな体を突き飛ばして一直線に廊下に向かう。
「待って」と後ろから聞こえた気がした。
大丈夫。捕まらなければ大丈夫。心の中で呪文のように唱えながら、階段を上って廊下を走る。そんな私を、速い足音が追いかけてくる。今何時? みんなはいないの?
気づいたら辿り着いていた特別教室棟の三階の窓から、校門の前でいくつか影が見えた。
どうしよう、どうしよう。助けを求めようとして叫べば、校舎にいる先生達が気づく。なんとかして逃げないと、私のせいでみんなが怒られてしまう。
......いや、違う。そんなの大して重要じゃない。コートのポケットには、なにかが入っていた。決めつけるのは良くないけれど、今は例外。そのなにかは月光を反射し、きらりと光ったのだ。
優しそうな声。汚れの目立たない黒のズボン。マスク。男性。光るもの。
嫌な予感がした。こんなに条件がそろっているなんて、なんて運が悪いんだろう。いや、運とかそういう問題ではないのかもしれない。
よく考えれば、冷静になってみれば分かった。あんな人、私は知らない。
あのお兄さんは、先生じゃない。
一階に戻ってきた。後ろの足音が突然消えて腕を掴まれたのは、ホームルームまであと少しのところだった。千切れるほど強く握られた腕。前に進まない体。あ、と口からこぼれた声。
反射的に振り返れると、そこには目元に薄い笑みを浮かべて私の肩に手を伸ばしている鬼がいた。
「追いついた」
顔から血の気が引いた。捕まれた腕を見てこの先に怒る何かを予測すれば、どうしようもない恐怖と不安に襲われて目に涙が滲んだ。
怖い、怖い。殺される。なんで、私なの。
月が雲に隠されて、ふっと廊下に闇が落ちてきた。
息を切らしている二人の間に、沈黙が流れる。手が腕から外れた。まるで鬼は、私は逃げても無駄だと言っているようだった。逃げてみろ、と笑っているみたいだった。
もしここで逃げれば、なんとかなるかもしれない。だって、教室はすぐそこなんだから。今度こそ追いつかれずに校舎から出られるかもしれない。
だが困ったことに、心と体は反対方向に動いていた。どれだけ奇跡の起きた場合を想定しても、私の足は淡い希望なんかとっくに捨てていたから、靴の裏に接着剤でもつけられたみたいに離れなかった。
辺りを静かに薄明かりが包み込む。私が固まっていたから、鬼は私を見下ろして言った。
「追いかけてごめん。怖かったよね。
でも、そういう仕事だから見逃すわけにもいかないんだ」
嫌な汗が背中を流れる。はは、と笑う声が不気味で、震えが止まらなかった。
声が出ない。いやだと心の中で繰り返し、静かに首を横に振って後ろに下がる。鬼はまた何かを言おうとして口を開くから、私は耐えられなくなってぽろぽろと涙をこぼした。
そしたら鬼は目を見開いて、懐中電灯を落とした。マスクの奥から「え」とくぐもった声がした。
先生だったらよかった。先生なら怒って済まされることだった。私は知らなかったんだ。夜の学校がこんなに怖いって。まさか。だって、本当に、お兄さんのような人がいるなんて思わなかったんだ。
私はなんて子供なんだろう。なんて、馬鹿なんだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい」私は蚊の鳴くような声で言った。
自分の体を自分で抱きしめると、思っていたより冷たかった。そのまま崩れるように、床に膝をついた。息が荒い。このまま凍え死んでしまえたらどれだけいいだろう。そう思った。
鬼は私に近づいた。中腰になると、乾いた音を立ててなにかが床に落ちた。そちらに顔を向けても、涙で視界が歪んでよく分からない。ただ、さっきと同じように光っているのだけは分かった。
鬼はそれを拾い上げて、見つめていた。それをポケットに入れると、無言でコートを脱いで私にかけてくれた。
「こういうの初めてだからよく分かんないんだ。本当は先生に言うべきなんだろうけどね、僕はそんなことしたくない」
その言葉を頭の中で反芻し、首を傾げた。なにを言っているの。私を、殺すんじゃないの。どうして、優しく、してくれるんだろう。服をかけられたとき、残っていた温かさにどきっとした自分がいた。
鮮明になった視界に映ったのは、ズボンの左ポケットに入っているカッターナイフ。怯える私にお兄さんは言った。
「今夜のことは秘密にしよう」
左手の人差し指をマスクの上に当てる仕草が、綺麗だった。「クリスマスだからね、今日は」と付け足すと、お兄さんは目を糸のように細めて笑った。
それから私は、お兄さんに言われるまま、教室に入って窓から外に出た。待ち合わせ場所を聞かれて答えると、結構見えるから早く帰るように言われた。見えるのは私も知っていたけど、お兄さんがどうしてここまで親切なのかは分からなかった。
「あの」
「ん?」
窓を閉めようとしたお兄さんに私は声をかける。一つだけ聞いてもいいかと問えば、お兄さんはいいよと言って窓から顔を出した。
「なんの仕事してるんですか」
カッターナイフのことが頭から離れないし、お兄さんが言っていた「そういう仕事」というのがなんなのかが気になる。もしかしたら私はすごいことに首を突っ込んでしまったんじゃないか。お兄さんと関わりを持つことに危険はなかったのか、って。そんな単純な理由だった。
「ここの先生」
「うそ......!」
私はびっくりして、思わず声を上げてしまった。このお兄さんとは初対面だ。単に関わる機会がないから知らないだけ? 先生の顔ならもう覚えたはず。知らないなら、来年からの新しい先生とか?
そうやって深く考えていたら、「嘘だよ」と頭上から笑い交じりの声が降ってきた。もう、なんなの、この人は。
からかうから睨んでやろうと思って顔を上げる。しかし、そこには誰もいなかった。鍵の閉められた窓の奥は真っ暗で、さっきまでいたお兄さんは幻だったんじゃないかと思った。
その後、私は校門に向かった。集合時間から既に二十分も経っていたから、みんな帰ってしまったと思い込んでいた私にリオが抱きついてきたときは驚いた。
帰路について見えなくなる前に、一度だけ私は校舎を振り返った。
お兄さんはまだ学校にいるんだろうか。なんのために学校に、いたんだろうか。あのカッターナイフは......。
「そのコートおしゃれだね。行きに着てたっけ?」
立ち止まった私にシカさんが話しかけてきた。少しの沈黙の後、私は頷いた。シカさんは当たり前だけど、不思議そうな顔をしていた。
話をややこしくすればお兄さんに迷惑がかかるだろう。答えてはくれなかったけど、もしお兄さんの正体がそれなら、尚更だ。
けれど、みんなは知らないんだな、勝手に決めていた鬼があんな人だったなんて。マスクをしていたけど、今思い返せばかなり顔がよかった気がする。テレビに出てくるイケメン芸能人の顔なんてどうでもいいのに、お兄さんにはなにか惹かれるものがある。
「いつか、返してくれればいいよ」
体を包むぶかぶかの杢グレーに目を向け、お兄さんが言っていた言葉を思い出す。
その時の私はただ素直に、いつかっていつなんだろうな、と思った。