Chapter 1 -Part. 5-
どれくらいの時間が過ぎただろう、ユキはそっと唇を外すと、僕のほうをじっと見て呟いた。
「ねえ、海の声が聞こえない?」
「えっ?」
「とても静かなの。でも爽やかで優しくて、私を温かく包んでくれるの」
「そうか」
「ねえ、何を考えてるの?」
「別に、何も考えてないよ」
「ふうん」
ユキはそう言うと、そっと僕の胸に顔をうずめた。でも僕は嘘をついていた。僕は何も考えていないどころか、ユキとこうして二人でいることに心の安らぎとたとえようのない充足感を覚えていた。ただそれを言葉にすることはできなかった。言葉にすると、それが儚く消えてしまうように思えたのだ。
僕らは随分長い間そうしていたが、やがて夜のとばりが降り、あたりが闇に包まれるとユキは静かに顔を上げ、ライトアップされているほうを指差した。
「あれに乗りたいな」
それは海沿いに立つ観覧車だった。僕らはベンチから立ち上がると、肩を寄せ合いながらゆっくりと歩き出した。それは真下から見るととても大きくて僕は少し驚いたが、意外と並んでいる人も少なく、十分ほどで乗ることができた。僕らはそこに並んで座ると、目の前のライトアップされた港と、そこにかかる白い橋を眺めた。僕は自分の肩や頬に、ユキの柔らかな髪の感触をはっきりと感じていた。そしてその優しい感触は、僕らの今の気持ちを象徴しているように思えた。
「綺麗ね」
そう言って振り向いたユキを、僕はそっと抱き寄せて互いの唇を確かめ合った。めくるめく時の中で、僕はその時確かに幸せの形を見ていた。
そうして僕らの付き合いは静かに始まった。普段の日は、バイトが終わった後に近くの海を見ながら話をし、週末になると映画を見たりドライブに行ったりした。僕にとってそれは本当にかけがえのない時間であり、と同時に生きていることの素晴らしさを実感できる瞬間でもあった。そう、僕はユキとの心の交わりの中に愛という名の柔らかい光を見ていたのだ。
そんなある日、僕の家に突然の電話がかかってきた。それはまぎれもなくサオリからのものだった。
「元気してた?」
「ああ、まあな」
「この前は、何かごめんね」
「いや、別に……」
サオリは僕の言葉を遮るように続けた。
「ところでさ、今度のゴールデンウィーク空いてる?」
「まあ、空いてる日もあるけど」
「実は、ちょっと付き合ってほしい所があるの。いい?」
「まあ、いいけど」
「じゃあオッケーってことで、また電話するから。じゃあね」
「おい、ちょっと待てよ!」
電話は見事に切れていた。僕は突然のサオリの誘いに少し戸惑ったが、同時にほっとしてもいた。この間からの気まずい流れを何とかしたかったのだ。これでサオリとも仲直りできる……僕は結構楽しみにその日を待った。