Chapter 6 -Part. 4-
その日は朝から鉛色の曇が空一面に立ち込め、冬独特の寂寥感がその寒さとともに街全体を覆い尽くしていた。平日ではあったが、僕は会社を休んでユキとの待ち合わせ場所へ向かった。海辺の公園には人影もなく、僕は海を見つめる銅像の下に座り、ただぼんやりとその荒く波立つ姿を見ていた。今日、このクリスマスイブの日にユキがここに来る保証はどこにもなかったが、僕はユキを、いや自分自身の想いを信じて、今日一日をこの場所で過ごすことに決めていた。僕は何としてでもユキと会い、今の自分の気持ちを伝えきりたかった。このありったけの想いを、ありったけの言葉で伝えたかった。たとえそれがユキの心に届かなかったとしても……いや、ユキの心に届かせる自信はあった。でも、肝心なのはユキ自身の気持ちのほうだった。彼女が本心から僕を想ってくれるかどうか、正直なところ僕には確信が持てなかった。もちろん、そうさせた責任は全て僕自身にあったのだが……僕は言い知れぬ不安と冬の寒さに苛まれながら、それでもただひたすらにユキを待った。
夕方になるとついに雪が舞い始め、僕はコートの襟を高くしながら、その雪の彼方にユキの姿を求め続けた。でも、ユキは一向にその姿を現すことがなかった。僕の不安は次第にその大きさを増していったが、それでも僕はただユキを信じて待った。それが僕の今までの行為に対する償いであるかのように……。
それは夜も十時を過ぎた頃だった。僕はあまりの寒さに耐えかねて銅像の下を離れ、公園から砂浜に降り立ち、波打ち際をゆっくりと歩いていた。雪は一向に止む気配を見せなかったが、かといって激しく降りしきることもなく、淡々と僕の目の前を過ぎり、コートの肩の上に静かに舞い降りた。海は既に暗闇の中にその姿を隠していて、かすかに白い波だけが僕の目に映っていた。そうして、僕が頭の上に降り積もった雪を払い視線を元に戻すと同時に、あたかも覆い隠していたベールが剥されるかのように、眼前の雪の向こうにユキの姿が飛び込んできた。
「ユキ……」
「久しぶり……」
僕らはその言葉だけを交わすと、そのまま並んで海を眺めた。ユキは真っ白なコートを身にまとい、それは僕にたった今舞い降りてきたばかりの雪の妖精をイメージさせた。
「元気だったか?」
「ええ」
「俺、お前にいなくなられて、お前が俺にとってどれだけ大切かがよくわかったんだ。失くしたものの大切さが痛いほどにわかったんだ。もう離したくない。ずっと俺のそばに、俺と一緒にいてほしい」
「私も、ずっとあなたと一緒にいたい。あなたと一緒にいつまでも過ごしていたい。でも私、もうあなたのことが信じられないの。信じたいんだけど駄目なの。私、今まであなたと付き合ってきてとても幸せだったし、本当に夢のような時間を過ごせたわ。でもずっと前から、多分あなたと初めて会った時から、あなたの中にある何かが気になってたの。今思えば、それが原因でこうなったのかもしれないんだけど」
「俺の中にある何かって」
「うまく言えないんだけど、それはあなたの中にある弱さというか、儚さだと思うの。普段はそれが優しさとなって私を温かく包んでくれるんだけど、いざとなった時にその弱さが表に出てくるの。そして、あなたの心が儚く移ろってしまうんじゃないかってそう考えると、どうしようもなく不安になるの。だから、あなたがサオリさんと会って何もないことがわかっていても、心のどこかでひっかかるの。今思えば、あの時も、最初に別れた時もそうだったのかもしれない。その時はわからなかったけど」
「それは俺自身が一番感じてることなんだ。時々、いやいつも自分の弱さには本当に腹が立っていたんだ。昔からずっと……そして、いつも後になってから悔いるんだ。ああすればよかった、こうすべきだったって。でも、もう後悔したくないんだ。お前を手放したくないんだ」
「私だって、いつまでもあなたと一緒にいたいの。あなたと離れたくないの。でも……やっぱり駄目なのよ」
「じゃあ、どうすればいい? どうすれば、俺を信じられるんだ?」
僕のその問いかけに、ユキはしばらくうつむいたまま答えようとはしなかった。あるいは答えられなかったのかもしれなかったが、いずれにしてもそれはユキの問題であり、僕はユキからの言葉を我慢強く待つしかなかった。
「ねえ、このまま二人でどこかに行かない? 二人だけの場所に、二人だけの永遠の世界に」
「それって……」
僕が最後まで言葉を続けないうちに、ユキはその場に靴を脱ぎ捨てると、そのままゆっくりと海に向かって歩いていった。
「ユキ、何するんだ!」
「二人だけの無人島に行くのよ。さあ、一緒に行きましょう」
ユキはそう僕を誘うと、次第に海原の中にその身を沈めていった。その姿に、そしてその光景に、僕は一瞬この世とは異なる別世界にいるような錯覚を覚えたが、次の瞬間我に返ると、ほとんど反射的にユキのもとへと走っていった。そう、僕はこれが最後のチャンスだと悟ったのだ。僕がユキと永遠の愛を貫き、そして僕自身が弱さや儚さから解放されるラストチャンスなのだ。僕はなおも前に進み続けるユキに追いつき、その手を取ると、まるで何かに引き込まれるように二人で海の中に分け入っていった。そう、これでいいんだ。これで僕らはひとつになれる、そして僕自身も強くなれると思いながら……そして二人の行き着く先には、もう誰にも邪魔されることのない、僕の弱ささえも邪魔することのできない永遠の世界があるのだ。
僕とユキは、そうして大海の彼方にある永遠の楽園に戯れる二匹のイルカになる……。