Chapter 5 -Part. 5-
僕らはそうしてしばらく抱き合っていたが、やがて空から雨粒が落ちてきていることに気づき、走って駅へと向かった。でも最終電車は既に出てしまっていて、僕らは雨で体を濡らしたままその場に佇むことになった。
「参ったな、終電出ちゃってるよ」
「そうね」
「サオリ……どうした?」
「ううん、ちょっとぼおっとしちゃって」
サオリの顔が少し赤らんでいるように見えたので、もしやと思い僕がその額に手をやると、普通ではない熱さが伝わってきた。サオリに熱があることは明らかで、僕は取りあえず寝かせる場所を探そうと駅の周りを見渡したが、ラブホテルくらいしか見当たらなかった。僕はさすがに躊躇したが、サオリをこのままにしておくわけにもいかず、その体を抱えるようにしてホテルに入った。部屋に入った僕は、まずサオリをベッドに寝かせ、タオルを水で濡らしてからその額に載せた。
「ごめんね」
「何言ってんだよ。俺のことはいいから、ゆっくり寝てろよ」
サオリは小さく頷くと、ゆっくりとその目を閉じた。僕はこまめに額のタオルを換えながら、ただサオリの熱が下がるように祈り続けた。
どれだけの時間が過ぎたのだろう、僕が目を覚ますと、窓のカーテンの隙間から日の光が差してきていた。どうやらそのまま寝てしまい朝になったらしかった。僕は、ゆっくりと目を上げてサオリの顔を眺めた。夕べの顔とは異なり、サオリの熱は明らかに引いているようだった。僕は念のため額のタオルを換えた後、自分でも顔を洗った。鏡の向こうにいる自分は相当ひどい顔をしていた。僕は静かに首を横に振った後、しばらく鏡の向こうの自分と見つめ合ってからベッドへ戻った。サオリは既に目を開けていて、僕の姿を見るとゆっくりと起き上がった。
「まだ、寝てなきゃ駄目だよ」
「ううん、もう平気。熱も下がったみたいだし……それより、ありがとう。一晩中看病してくれたのね」
「俺も途中で寝ちゃったから。でも熱が下がってよかった。しばらく休んだら帰ろう。一人で家まで帰れる?」
「うん、もう大丈夫。でも本当に、ヒロには迷惑かけちゃって、本当にごめんね」
「困ったときはお互い様だろ。きっと疲れていたんだよ」
「相変わらず優しいね」
それからしばらくして、僕らはそのラブホテルを出て駅へと向かった。僕はサオリが電車に乗るのを見届けてから、反対側のホームで自分の乗る電車を待った。昨日の夜から今までのことが、記憶の洪水となって僕に押し寄せていた。俺は一体何をしているんだろう……僕は繰り返し自分にそう問いかけながら、土曜日の朝にこうしていることを必死に理解しようとしていた。ホームに差し込む太陽の光は、来るべき秋の到来を予感させるかのように柔らかかった。
僕は自分の部屋に戻ると、そのままベッドに横になり、昨日のサオリとのやりとりを思い出していた。サオリの言葉が、僕の頭の中を何度も駆け巡った。少し前の僕だったら、そのままの流れに任せてサオリとやり直すこともあったろう。でも、今の僕にはユキがいる……もうユキとは離れたくなかった。今度こそ僕はユキのことを愛し抜き、そして守り抜かなければならなかった。今の僕にとって一番大切なものは、間違いなくユキ一人なのだ。
ふと気がつくと、頭の奥のほうから僕を呼んでいる声がした。始めのうちはその声が何なのかわからなかったが、次第にそれが声ではなく音であることに気づき、さらにそれが携帯の着信音であることがわかった時には、僕はもうはっきりと目が覚めていた。どうやら考えごとをしている間に眠ってしまったらしかった。僕はベッドからゆっくりと起き上がると、枕もとに置いてあった携帯に出た。
「もしもし」
「私、サオリ。夕べはごめんね。疲れたでしょ? 本当に、何て言ったらいいか……でもありがとう」
「気にするなよ。それより具合はどう?」
「うん、今まで寝てたんだけど、もう大丈夫みたい。熱も下がってるし」
「そうか、でもまだ寝ていたほうがいいぜ」
「うん、そうする……ねえ、昨日私が言ったことだけど、気にしないでね」
「あ、ああ」
「私、熱のせいで頭がぼおっとしてたから、変なこと言っちゃったかもしれないけど、もう大丈夫だから。一人でやっていけるから。ごめんね、いろいろ迷惑かけちゃって」
「そうか、俺はもう何もしてあげられないけど頑張れよ。そのうち、きっといいことがあるから」
「うん、ヒロも元気でね……じゃあね」
電話はそうして切れた。僕は割り切れない一抹の寂しさを胸に抱きはしたが、いずれにしても別々の道を歩き始めた二人が再び交わることがないことを改めて感じた。ふと窓の外を見ると、あたりは既に真っ暗で鈴虫が羽を震わす音だけが静かに鳴り響いていた。