Chapter 4 -Part. 8-
次の日、僕が会社の売店で缶コーヒーを買っていると、横から急にメグミが顔を出してきた。
「あっ、マツダさんもその缶コーヒー買ったんですか? 私も買ったんです。これ、結構美味しいですよね?」
「俺も結構気に入ってるんだ……あっ、そうそう、昨日はごめんね。何か急に気分悪くなっちゃったんで、メグミちゃんに声かけてから帰ろうと思ったんだけど、見失っちゃってさ」
「いいんですよ。二次会のカラオケ盛り上がって、とても面白かったですよ。それにスズキさんとヒトミ、結構いい雰囲気だったし」
「ヒトミって、メグミちゃんの同期の……へえ、あの二人うまくいったんだ」
「ええ、帰る時なんかもスズキさんが、ヒトミは俺が送るからとか言って、さっさとタクシー乗って二人で帰っちゃいましたよ」
「そう、でもうまくいってよかった」
「そうですね。でも羨ましいなあ、ヒトミ。スズキさんみたいな人とうまくいって」
「メグミちゃんは、彼氏いないの?」
「え、ええ。好きな人はいるんですけどなかなか……あっ、そう言えば、昨日サオリも途中で消えちゃったんですよ。マツダさん、知ってます?」
「あ、いや知らないけど、いなくなっちゃったんだ」
「ええ、まあ後で電話してみますけど……マツダさん、また飲みに行きましょうね」
メグミはそう言うと、売店を後に足早に去っていった。僕はサオリとのことをメグミに話そうかとも思ったが、いずれにしても既に終わったことなのでこのまま言わないことにした。僕は、缶コーヒーをその場で一気に飲み干してからゆっくりと職場に戻った。
そうして四月は足早に過ぎ去り、街は新緑の五月を迎えた。通りの街路樹の葉はその緑を一層鮮やかにし、煌く日差しには本格的な春の匂いがした。道行く人の表情は活き活きとしていて、街は確かに息づいているように感じられた。そんなゴールデンウィークの真っ只中のある日、僕はユキとドライブに出かけた。東京湾を横切り国道を南下すると、やがて目の前に光り輝く海が広がった。海は僕に、そう遠くない夏の足音を感じさせた。そして助手席で楽しそうに笑うユキに、僕は確かな愛の形を見ていた。そうしてしばらく車を走らせると、目の前に灯台が見えたので僕は駐車場に車を止め、灯台まで二人で並んで歩いた。僕らは二人で肩を寄せ合い、花たちが見つめる中をゆっくりと進んだ。空は見渡す限り一面に真っ青で、雲のかけらも見えなかった。やがて目の前には、真っ白な灯台がその姿をあらわにした。僕らは灯台の下を横切ると海の見える場所に歩を進め、近くにあったベンチに並んで座った。海を渡る潮風が肌に心地よく、ユキは風になびく髪をかき上げながらじっと海を見ていた。
「風が気持ちいいわ……ねえ、海を見てるとどうして気持ちが安らぐのかしら? 本当に心が落ち着くのよ」
「そうだな、どうしてだろう? きっと広いからかな? ただただ広くて、俺たちを包み込んでくれるような気がして……だから落ち着くんじゃないかな」
「そうね。でも、今私の気持ちが安らぐのは海のせいだけじゃないの……大好きな人とこうして一緒にいるから」
「俺もだよ。本当に……久しぶりなんだ。こんなに気分がいいのは、やっぱりユキのおかげかな?」
僕は顔を赤くしてうつむくユキをそっと抱き寄せ、ゆっくりとその唇に触れた。それは本当に自然で当たり前の口づけだった。そう、僕らの間にはもはや言葉さえもいらなかった。唇が、そして体が反射的にその心を表現し、僕らは時の流れを忘れるほどに抱き合った。どれくらいの時間が過ぎただろう、突然に携帯の着信音が鳴ったので、僕はユキからゆっくりと体を外すと、ポケットから携帯を取り出して電話に出た。
「もしもし……」
僕は、その電話の声が誰なのかよくわからなかった。電話の声と海風が交錯してとても聞き取りにくかった。でも次の瞬間、僕はそれが誰であるかがはっきりとわかった。
「もしもし、サオリか?」
「うん」
僕は反射的にユキのそばから離れ、少し自分を落ち着かせてから会話を続けた。
「どうした? 急に電話なんかかけてきたりして」
「ちょっとヒロの声が聞きたくなって……あっ、この間はとっても楽しかった。また行こうね」
「ごめん、今ちょっと手が離せなくて。急用じゃないんだったら、また後でな」
「ちょっと待って。実は、ヒロに相談したいことがあるの。今度会って話がしたいんだけど」
「もう会えないよ……これからも会うのはよそうよ」
「どうして? 昔からの仲じゃない。何で会えないの?」
「俺たちは、もう別々の道を歩み始めたんだよ。この間は偶然に会って、久しぶりだったからいろいろ話したけど、結局もう昔には戻れないんだよ」
「友達には戻れないっていうこと?」
「だからもうお互いに、電話したり会ったりするのはよそう」
それから随分長い間沈黙があった。いや、長いと思ったのは時間の感じ方のせいで、本当は短かったのかもしれないが、とにかくその時の僕にはとても長く感じられた。
「わかった。いろいろごめんね……じゃあね」
電話はそうして切れた。僕はこの後味の悪さに少し気分が塞いだが、何とかそれを立て直してユキのところに戻った。
「誰から?」
「ああ、会社の同期のスズキから。今日飲みに行かないかって。まあ、断ったけどな」
「ふうん」
「さて、昼飯にしようぜ。ユキのお弁当楽しみにしてたんだ」
「今日は特製のサンドイッチよ。他にもいろいろ作ってきたから、たくさん食べてね」
「もう、じゃんじゃん食っちゃうよ」
僕とユキはそうしてそこで昼飯を食べ、しばらくゆっくりしてから帰途についた。僕は帰りの車の中で、静かに寝息を立てているユキの横顔を見ながら、これでいいんだとひたすらに自分を納得させていた。再びサオリと会うようになれば、またどうなるかわからない。いくら気持ちの整理がついていても、僕の心の弱さからまた気持ちが揺れ動かないとも限らない。そう、僕はもうユキを離したくはない。たとえ何があっても、僕はもう二度とユキと離れるわけにはいかないのだ。夕日に煌く海岸線を見ながら、僕はサオリとの別れを、そしてユキとの永遠の幸せを固く決意していた。