Chapter 1 -Part. 2-
それはもう十年近く前のことだった。僕はまだ小学六年生で、その日の朝も自分の部屋の窓から隣の家の部屋の窓を見ていた。やがて部屋のカーテンが開き、そこに見慣れた顔が現れた。
「ヒロくん、おはよう。今日もいい天気だね」
「ああ、まあね」
「何よ、その寝ぼけた顔は。早くしないと学校に遅れるよ」
「まったく、うるさいなあ」
彼女は隣に住んでいた小学三年生で、年下ではあったが昔からよく遊んだりしていて、言わば幼なじみのようなものだった。でもそんなある日、彼女が家の都合で引っ越すことになったので、僕は彼女にイルカのネックレスをプレゼントした。
「ありがとう。一生大事にするね」
「おおげさだなあ」
「ううん、私の大切な宝物よ」
あれから十年、まさかあの子がここにいるなんて……。
「ヒロくん、どうしたの?」
気がつくと、そこには彼女の、十八歳の女の子の顔があった。と同時に、二人でずぶ濡れに抱き合っている姿があった。周りの人々は、何事が起きたのかというような怪訝な目で僕らを見ていた。僕は彼女の腕をほどくと仲間に別れを告げ、彼女と二人で逃げるようにその場を離れた。
「濡れちゃったな。どこか入ろうか?」
「そうだね」
僕らは近くの喫茶店に入り、窓際の席に座った。雨は小降りにはなったものの、まだしっとりと街角を濡らしていた。
「サオリが引っ越しちゃってから、もう十年になるよな?」
「そうかあ、もうそんなになるんだね。でもね、私また鎌倉で一人暮らし始めたのよ。何かあの頃が懐かしくて、もちろんヒロくんにも会いたかったしね」
彼女……サオリは、短大への入学を機に鎌倉に戻っていた。十年という歳月は、当然のように人を変えていく……今目の前にいるのはサオリではあったが、当然のように小学三年生のサオリではなかった。僕は時の流れの速さに戸惑い、また言いようのない切なさを感じたが、やがてそれも淡い記憶の彼方に消え去った。
「あっ、そう言えば何日か前、あの海辺の公園にいなかったか?」
「えっ、行ってないよ。またあ、人違いじゃないの?」
でも、サオリは明らかに嘘をついていた。たとえ十年が経ったとはいえ、僕にはサオリの癖がよくわかっていた。嘘をついた時に瞬きをするその癖が……でも何故嘘をついたのか、そして何故あの時泣いていたのかは、どれだけ考えてもわからなかった。
僕は考えるのを諦めると、気を取り直して再びサオリと話し始めた。昔遊んだ頃のことや引っ越してから今までのことを、僕らは二人の記憶の溝を埋めるかのようにただひたすらに話し続けた。
気がつくと終電の時間が近づいていたので、僕らは急いで店を出ると、そのまま脇目も振らずに駅へと走った。帰る方向は同じだったので、僕らは同じ電車の座席に向かい合って座った。終電はいつものように酒の匂いと人いきれで充満していたので、僕は耐え切れずに窓を開けて、夜露に濡れた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。雨はもうすっかり上がっていた。
「ヒロくんって、今彼女とかいるの?」
「今はいないよ」
「ふうん、そうなんだ。彼女いないんだ」
「俺ってモテないからなあ」
「そんなことないよ。ヒロくん、とっても素敵だよ」
「ありがとな、お世辞でも嬉しいよ」
「ううん、そんなんじゃない。私、本当は……」
「えっ?」
「ううん、何でもない」
サオリはそう言った後、急にうつむいて口をつぐんだ。サオリがその時何を言おうとしていたのか、僕にはうっすらと理解することができた。でも僕は、サオリの気持ちに応えることはできなかった。何故なら、僕の中には既にある一人の女性の姿が宿っていたからだ。ふと窓の外を見ると、そこには本当にひたすらの暗闇が広がっていた。
やがて電車は鎌倉に着き、僕らはお互いに黙ったまま駅前のロータリーで別れた。サオリの家は駅から歩いて十分ほどの所だったので、僕は送って行くと言ったが、サオリはうつむいたまま黙って首を横に振った。僕はそんなサオリの後ろ姿を黙って見守りながら、深く長いため息をついた。今日起きたことを考えるには僕はあまりも動揺し、そしてその目まぐるしい展開に疲れていた。懐かしいサオリの顔に会えたことへの喜びと同時に、また何とも言いようのない戸惑いや切なさをも感じていた。僕はあれこれと考えるのを諦めてタクシーに乗り込んだ。江ノ電の終電は、とうの昔に発車してしまっていたからだ。