Chapter 3 -Part. 5-
そして、それから一週間が過ぎた日曜日の夕方、僕は自分の家で一本の電話を受け取った。
「もしもし、サオリだけど……今、家にいるの?」
「ああ……この間はごめんな」
「ううん、いいの。それより、今から会えない? 話したいことがあるの」
「ああ、いいよ」
「じゃあ、一時間後に海辺の公園で」
「わかった」
僕は死んだ電話を手にしながら、久しぶりのサオリの声をその胸に感じていた。でも、同時にサオリからの別れ話を予期している自分もいた。僕はその想いを振り切るように頭をゆっくりと左右に振ると、そのまま家を出て公園へ向かった。
一時間後に僕が公園に着くと、サオリは海を見つめる銅像の下に座っていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところ」
「上の方に行こうか?」
僕らは並んで歩きながら公園の奥にある階段を上り続け、弓なりに続く砂浜と、その向こうに島の見える高台に立って、暮れゆく空に浮かぶ富士山を見つめた。
「ここから見る富士山って、すごく綺麗ね」
「ああ、もう二十年以上見てるけど飽きないよ」
「ねえ、実は私、ヒロに謝らなきゃいけないことがあるの」
「謝らなきゃいけないのは俺の方なんだよ。だって……」
「そのことじゃないの。私、ヒロに隠してることがあるの。あの時、ヒロが正直に話してくれたことで、逆に私のほうが言えなくなっちゃって……ずっと辛かった。でも、私も正直に話すわ。去年の秋から冬にかけて、ヒロの仕事が忙しかった頃、私、ヒロに会っちゃいけないんじゃないかって、真剣にそう思ったの。だってあの時のヒロ、本当に辛そうだったから」
「だから、あの時は俺……」
「わかってる。でもあの時は、辛そうにしているヒロを見ている、私自身も辛かったの。だから、会わないほうがいいのかなって思って。でも、それも辛くて……そんな時人数合わせで行った合コンで、ある人に話を聞いてもらったの。それで仲良くなって、何回か一緒に出かけたり、ご飯食べたりしているうちに、その人、私のことが好きだって言ってくれて、それで……」
「キス……したんだね?」
「ごめんなさい。でも信じて。何て言うか弾みのようなもので、それから一度も会ってないわ。その人のことは何とも思ってないし、私が好きなのはヒロだけよ」
「俺は何も言える立場じゃないよ。俺はもっとサオリを傷つけたし……前にサオリ言ってたよな、人の気持ちって強いけど儚いものなんじゃないかって。だから今、この今の俺たちの気持ちこそが、一番大切なんじゃないかな。俺は今、サオリのことを愛してるし、この気持ちに嘘はないよ」
「ありがとう……よかった。私、すごく嬉しい。あっ、これ渡さなきゃいけないって思ってたの。ちょっと遅れちゃったけど」
それは三日遅れのチョコレートだった。僕はたまらずにサオリをきつく抱き締め、その弾みでチョコレートが地面にこぼれ落ちたことも気にならなかった。僕は、自分自身とサオリの身に起きたことを忘れるかのようにその唇を求め、そして二人の新たな出発を強く願った。夕暮れの富士山は、そんな僕らを暖かく見つめ続けていた。
それから僕らは、再び二人の時間を築き上げ始めた。僕とサオリは、以前にも増して親密になれたような気がした……少なくとも僕はそう信じていた。三月に入ると、僕は会社のプロジェクトに追われるようになったが、サオリが近くにいることを心で感じていたので不思議と疲れを感じなかった。たまに会社が早く終わった日や日曜日になると、僕は何よりもまず真っ先にサオリと会った。サオリと会って二人の時間を共有することだけが、その時の生きる全てと言っても過言ではなかった。でも僕は無意識のうちに感じていた。この二人のかけがえのない時間が長続きしないことを……僕はサオリを愛していたのではなく、二人の関係を続けていくことだけに精一杯だったからだ。
それは三月のある日曜日の夕方だった。僕はサオリをドライブに誘い、海岸道路を西へ走らせていた。でもその日のサオリは終始無言で、僕が何を話しかけても頷くか首を横に振るだけで言葉というものを決して発しなかった。僕はついにサオリとの会話を諦め、カーステレオのスイッチを入れた。するとドリカムの『星空が映る海』が流れ出したので、僕の心の中に二年前のことが過ぎり、その懐かしさのままに行き先を変え、あの時に行った海の見える高台へと向かった。高台へ続く沿道の桜はまだつぼみを開かせてはいなかったが、公園から見える夜景の美しさはあの時のままだった。僕らは目の前に聳え立つ大きな鉄塔に歩を進め、オレンジ色に光る町の灯りと車の流れ、そしてその向こうに広がる夜の海の闇を再び目の当たりにした。
「サオリ、覚えてるだろ? 二年前のあの時のこと」
サオリは僕の言葉には答えずに、ただその夜景をじっと見つめていた。
「サオリ、どうしたんだよ今日は。さっきからずっと黙ったままで」
サオリはなおも何も言わずにうつむいていたので、僕はもうそれ以上声をかけるのを止めた。そして、そのままどれくらいの時が流れただろう、サオリは急に顔を上げ、僕に向かって叫んだ。
「私、やっぱりヒロのことが好き……大好きよ!」
そして、いきなり胸に飛び込んできたサオリの唐突さに戸惑った僕は、でも次の瞬間、その体をしっかりと受け止めていた。その時に、サオリの首から落ちたイルカのネックレスを拾うことも忘れて……。