Chapter 3 -Part. 1-
そうして僕らは四月を迎えた。偶然とはいえ、思えば一年前の、あの海辺の公園での再会から全ては始まったのだ。いろいろなことがあったけれど、僕はこの時、本当の幸せというものを胸に抱きながら社会人になっていたのかもしれなかった。僕は、都心にある会社に就職し勤め始めた。そこは通信事業を扱う中小企業だったが、将来性のある有望な会社だった……と、少なくとも社長はそう言っていた。実家から一時間程度で通えることもあって、僕は一人暮らしをしないことにした。一人で暮らすと結構金もかかるし、正直給料が本当に安かったからだ。何年か勤めてからでもいいだろうと気楽に思っていた。サオリは短大の二年生になり、短大と僕の会社が近かったこともあって、僕らは一緒に昼飯や夕飯を食べたりした。今度はサオリのほうが就職活動をしていて、新入社員で残業の多い僕となかなか会う時間が取れなかったが、それでも僅かの時間を惜しむように、僕らはそのかけがえのない瞬間を大切に共有した。眠れない夜にふとユキのことを考えることもあったが、その時は何にも増してサオリへの想いが強かったこともあり、その淡い想いは次第に記憶の彼方に遠ざかっていった。
やがて月日は流れ、街は真夏の彩りに染められていった。サオリは何とか会社の内定を取り、僕も休暇を取ることができたので、僕らは思い切って沖縄に行くことにした。そして七月も終わろうかというその日、二人は青い海が光り輝く南国の空の下にいた。
「わあっ、すごーい!」
サオリはホテルの近くにある真っ白な砂浜を走り、服のままマリンブルーの海に足を踏み入れた。
「ねえ、ヒロもおいでよ!」
そう言って笑ってはしゃぐサオリの姿に、僕は確かに夏を、そしてサオリへの愛しさをもまた感じていた。煌く太陽は、そんな僕らを歓迎するかのように光り輝いていた。
そして夜、僕らはホテルの部屋の窓辺に佇み、そこから暗闇に染まる海を眺めていた。
「私、時々不安になることがあるの」
「何が?」
「この幸せが一体いつまで続くのかなって。ひょっとしたら、急に終わっちゃうんじゃないかって」
「そんなことないさ」
サオリはそれでも静かに首を横に振った。
「でも、止まない雨がないように、終わらない恋もないような気がするの。人の気持ちって、強いけど儚いものなんじゃないかって」
「確かにそうかもしれない。終わらない恋なんかないかもしれない。でも、それでいいんじゃないかな。だからこそ、人は限りある今を精一杯生きて、大好きな人を精一杯愛するんだから。いつこの幸せが終わってしまうのかを考えるより、今の幸せを精一杯感じればいいんじゃないかな。俺はサオリのことが大好きだし、今そのことを強く感じてるよ」
サオリは僕の腕に身を委ねて呟いた。
「やっぱり、ヒロと付き合ってよかった」
「俺もだよ」
「ねえ、私たち、大きな海を泳ぐイルカみたいだと思わない?」
「イルカか……そうかもな」
「それで、二人で寄り添っていくつもの海を越えていくの。ねえ、それってとても素敵だと思わない?」
「そうだな」
「いつまでも、一緒にいようね」
「もちろんさ」
僕はサオリの髪を優しくかき上げ、それから静かに口づけをした。そう、この時の僕はこの甘く溶けるような夜が、そしてサオリとの日々が永遠に続くことを願っていたのだ。
次の日、僕らはレンタカーを走らせて、メインビーチから少し離れた鄙びた小さな砂浜に向かった。そこはレトロティックで落ち着ける雰囲気の場所で、僕らはその海でひとしきり泳いだ後、ジュースを飲みながら砂浜に寝転んで、照りつける太陽をその肌に思い切り感じていた。
「とってもいい雰囲気ね」
「俺、こういう海好きなんだ。ひと昔前の海水浴場って感じで落ち着けるし」
「そうね。メインビーチもいいけど、こういう雰囲気も悪くないわね」
「だろっ?」
僕らはそうして本当に静かな時間を過ごしていた。耳元では優しく風の歌が聞こえ、打ち寄せる波音と繊細なハーモニーを奏でていた。ふと目を開けると、透き通るような青空にぽっかりとした夏の雲が浮かび、プリズムのように輝く太陽の光は強く、でも優しく僕らを包んでいた。そしてすぐ横には、それに負けないくらいに輝くサオリの姿があった。
「ねえ?」
不意に問いかけるサオリの声に、僕は急に我に返った。
「えっ?」
「キス……してもいい?」
僕らは青く広がる空の下、白く輝く砂浜の上でゆっくりと互いの唇を確かめ合った。僕はその唇にはっきりとサオリを感じ、また自分自身の揺るぎない想いをも感じていた。そう、その瞬間僕らは互いの唇を通じてその心をひとつにしたのだ。
それからの数日間を、僕らは夏の海風と波の音を聞きながら過ごした。僕は、この瞬間が永遠に続けばいいと思った。それはまぎれもなく、僕のこれまでの人生の中で最も満ち足りていた瞬間であり、生きていることを体感できた瞬間でもあった。サオリもまた、この真夏の楽園の風に包まれてとても輝いていた。僕はそんなサオリの姿を眩しく見つめ続け、心の底から求め続けた。
そして最後の日、ショッピングをしたいとサオリが言ったので、僕らは那覇の街中に繰り出したが、夏休みの真っ只中というだけあって大通りは人の群れで溢れ返っていた。
「すごい人ね」
「それに暑いな」
「いいじゃない、夏なんだから」
「まあそうだけど」
「あっねえ、あれ見てよ。綺麗ね」
サオリが指差すその店のショーウィンドウには、銀色に輝くイルカのネックレスが飾られていた。
「あれ、お揃いで着けたいね」
「ああ、でも……」
その値段は何気なく買うにはあまりにも高かった。もしペアで買ったら、向こう三ヶ月間は生活に苦しみそうだった。でも、僕は迷うことなくそれを買った。何故だかわからなかったが、それが僕らにとってとても大切な、二人の愛を象徴しているもののように思えたからだ。
「でも、本当に大丈夫?」
「まあ、これくらいはな」
「ありがとう、一生大事にするね。さっそく着けてみようよ。ヒロのは、私が着けてあげるね」
サオリはそう言うと、僕の首にそのネックレスをかけた。そして、僕もサオリの首にかけた。二人の胸には銀色のイルカが夏の日差しを浴びてきらきらと輝き、僕はその眩しさに思わず目を細めた。それはまさに、変わらぬ二人の愛の産物のようだった。