『好き』の二文字を虫眼鏡で見て、今日も手紙を燃やしています
朝、起きた。ような気がする。朝起きて、冷たくなった枕に違和感を覚えて瞬きすれば異様に濡れた目元に気付き、朝日が薄いカーテン越しに部屋を照らしていて、起き上がる気力が出なくて、ただぼうっと天井を見つめ続けていた。見つめ続けたままどのくらい経っただろう。すでに正午は回っているのではないかと思う。差し込む朝日が白い壁に映す消臭剤の影。視界の端で角度を変え続けている。
これほど上々の人生もあるまいよ、と。
語りかけてくるのは私の心であった。
特に挫折した覚えがない。人より才能がある方だと思う。努力も嫌いじゃない。むしろ好きだ。ペットボトルに水道水を溜めるのが好きだ。満たすのが好きなのである。よって貯蓄もどんどん増えている、年齢は忘れた。明日には思い出しているかもしれない。
うむ。
好きだ。
君が好きだ。誰だ。君だ。君はどこだ。誰だ。およそ三秒も思考を続けていると疲労のためにストップがかかる。脳が軟化していく感触が生々しく残る。妙に身体がだるい。暑い。特に背中が。蒸れているかもしれない。今は夏だから仕方ないのかもしれない。夏。夏だった。ような気がするのだが。気温からして。違う。昨日の日付は十二月だった。違う。二月だった。
二月なのに暑かった。
異常気象というやつなのだろうか。しかし気象に向かって異常だなんだというのも悲しい話ではないだろうか。ほら、考えてもみたまえ。遥か彼方の夜の星にすら数えられぬような空間ではいったいどんな気象の営みが行われているのだろう。それと比べれば私が息を続けられるだけこの気象も正常というものではないだろうか。気象、起床。起き上がらないとまずいな、と思う。頭が痛くなってきた。うっすら吐き気もする。
今日は何曜日だっただろうか。そんな考えが頭に浮かんできたことに少し驚いた。頭が良いではないか。曜日。文化だ。何曜日だろう。月から金だと嫌な気がする。月も金も好きなのだが。土がいいな、と思う。昨日はどうだったか。昨日の記憶が定かではない。が、定かではないということは……、どういうことだ? 何にしろ私の好みの問題で今日は土か日だ。嗅覚によるとここに土の気配はない。すると日だろう。明日は月だ。日の次に月が来る。まるで天体のようだ。ならば月の次には日が来る。人生のようだ。
何かを食べる必要がある、と気が付いた。
体重が減っている。ということは昨日も何も食べていないのかもしれない。食べなくてはならない。そのためには起き上がる必要がある。どころか、外に出る必要がある。冷蔵庫には水しかない。これははっきり覚えている、と胸を張れたら格好いいのだろうが、習慣の話だ。冷蔵庫にはいつも水しかない。水だけがある。地球のようだ。冷蔵庫の名前は地球という。違う。
よし、せーの、で起きるぞ。
せーの、と言ってくれ。語りかけた。虚空に。答えが返ってきた。「応援ありがとうございます!」なんと。私は自分でも気付かぬうちに誰かを応援していたらしい。頑張って生きてくれ。頑張ってくれ。頑張ってくれ。違う。そういう話でない。起き上がらなくてはならない。せーの。はい無理。
車の通りすぎる音が聞こえてくる。なぜなら近くに車道があるからだ。話し声が聞こえてくる。近くに歩道があるからだ。楽しそうな声だ。幸せそうな声だ。白い。
「ロボはいらんかね~巨大ロボ~」
遠くから声が聞こえてきた。聞いたか? 巨大ロボだってよ。
「ロボはいらんかね~」
買うか、ロボ。ぜひとも買うか、ロボ。ラボ。そのためには起き上がらなければならない。よーし、頑張るぞ。いっせーのっせっせっせーのせのせのせのね。あのねそのねやっぱだめね。
「ロボはいりませんか?」
とても近くで声が聞こえた。だから私はようやく首を動かすことができた。カーテンの隙間から、目が見える。目というか、割と顔が見えている。水色のキラキラした髪の毛。少女だった。
「……気合が出るまで、待ってくれないか」
「待ちますとも。星の光の下りるまで」
言うと、彼女はカーテンの向こうに姿を消してしまった。
なるほど。起きなければならない。起きましょう。いくぞ、起きるぞ。ところでここはマンションの5階だ。
*
ようやく身を起こすことができたとき、時計を見ればまだ十四時だった。私にしては頑張った方なのではないだろうか、と思う。まだ一日を無駄にしたとは言い切れぬ時間だ。リカバーのしようはいくらでもある。特にする気はないのだが。
起きると不思議と気力も湧いて出てくるもので、まず最初にしたのは薄いカーテンを開けることだ。向こう側に先ほど見た少女の姿はない。当然かもしれない。また妙な白昼夢を見たものだ、と思う。カーテンを通さない十四時の太陽光は思ったよりもずいぶんと大胆に輪郭を消しにかかっていて、思わず眩しさに目を細める。
窓の下、机には真っ白な便箋が、まだ封を開けていない便箋が置いてある。あまりにも激しい照り返しは、いっそ太陽よりも清潔に見える。そっと手に取った。
来ていたのは何曜日だったろうか――、前の日曜日にはなかった気がする。裏返す。見慣れた名前。けれどその顔はもうすっかり記憶の中ではうすぼんやりとしていて、ただ綺麗だったことくらいしか覚えていない。
中身は見ずともわかっていた。
だいぶ昔からそうなのだ。最初に来たのはいつの頃か、たぶん成人後のことだったと思うのだが。それから不定期に、差出人の彼女から、同じ手紙が届くのだ。短い文で。一言だけ。
私はそれに一度も返信をしたことがない。
これからも、するつもりがない。
手紙を机の上に置いた。これは帰ってからでいい。とにもかくにも今は食事だ。食事をしなければ人は生きていけない。なぜそんなシステムが採用されているのか。食事に関しても生に関しても私はその理由を知らないが、そうなっている。そうなっているからそうする。それでいいのか? 考えるのをやめる。
行こう。鍵と財布を手に。コートはいらない。
部屋から出ると、生温い春の空気に触れた。
エレベーターを待つ間に、風が前髪を揺らすのを。横目には、花の舞うのが見える気もする。このまま、夏まで訪れてしまうような気がした。
マンションを出た。風は思ったよりも強い。背中に自動ドアの閉まる音を聞く。眠っているよりも、ずっと、夢見心地のような陽気に包まれる。
少し歩いて、マンション前の路地を抜けると、駅へと続く川沿いの桜並木がある。
まだ花は咲いていない。
不思議だ、と思う。すでにこの世は春なのに、未だ花はそれを知らない。あるいは、春でないことを知っている。
私ならわからないだろう。そう思う。
一方で、見下ろす川の流れは柔らかく穏やかだ。川上が四月に繋がっているのだろう。温い水は雪に触れれば瞬く間に溶かしてしまいそうで、きっと花の味がする。
何を食べようか。
「あっ」
と声がして、不意に顔を上げると、視界の端に白。手を伸ばしたのは思わずで、つかめたのはたまたまだった。
ぴしり。
音で、次に感触でわかる。紙だ。大きくはない。紙切れだ。何が書いてあるか確かめようとした。して、やめた。声のした方を見た。
マスクをつけた女性が立っている。こちらを見ている。コートを着ている。暑そうだ。
「すみません、それ……」
くぐもった声だった。私の一、二歩進む間に、彼女は三歩を進め、向き合った。紙を渡す。
「すみません」
言って、彼女は踵を返す。やや早足で去っていく。私はゆっくりと歩く。
何の紙だったのだろう。考えていると、先を行く彼女の背中が止まった。そして振り返った。
一、二、三、四、五。私の目の前で止まり、一言。
「ちょっと待って。あんたもしかして――」
そして、彼女は私の名前を呼んだ。私は頷いた。が、誰だかはわからない。話しぶりからして仕事の関係ではなさそうだが、では一体誰か。
「うわー、めっちゃ奇遇。なに、このへん住んでんの?」
「ああ」
「あたしも。うわー、知らなかった。こんなことあんだね」
誰なんだろう。
じっとその顔を見つめながら記憶を探っていると、彼女はそれに気付き、マスクを下げ、
「あ、ごめん。わかんないか。花粉症でさ。あたしあたし、高校一緒だった――」
名前を聞いて、ようやく思い出せた。高校2年のときのクラスメイトだ――、いや。3年のときだったろうか。まあいい。名前と顔は一致した。
「買い物?」
「そうだ」
「駅前?」
「ああ」
「あたしもあたしも」
彼女は私の隣に立った。並んで歩き出した。
「今何してんの? 無職?」
なぜ最初にその可能性が出てくるのだろう。一応はそういうことを考えるポーズを心中で取ってはみたものの、本当のところその質問は妥当だと考えていた。大学を卒業する直前まで、私は働かないものだと思っていた。
「働いている」
「どんな?」
「数字を……、数字から、金を出す仕事」
「うわ、怪しい。変わってないね全然」
変わっていないだろうか。自分では、昔よりずいぶんと暗くなったように思える。人から見ればそうでもないのだろうか。
「君はどうなんだ」
駐輪場を通り過ぎて、駅前の歩道橋を上る。ここを下れば、すぐに駅下のスーパーマーケットがある。
「君?」
聞き返される。何のことかわからず、しかしすぐに思い当たる。ああ、二人称。
「職場以外で話さないから、私的な空間での適切な会話方法を忘れた」
階段を上る。速度が違う。だから私は彼女の顔を、2段上から、振り向いて覗くような形になる。
笑っていた。
「マジ? すごいねそれ。休みの日も家に籠ってるわけ?」
「気付くと終わっている」
「わかるわーそれ。体力めっちゃ落ちるし」
言う通り、彼女の体力は落ちているらしい。階段を上っただけで、軽い息切れをしている。額には若干汗が浮かんでいる。暑いんだろう。私も妙にくらくらする。
歩道橋の上に立つと、下にはひっきりなしに車の通る国道が見える。ダンプがそこを通れば、少しだけ橋が揺れる。視線を上げると、今度は小さな駅の吹き晒しのホームが見える。これは見るたびに不思議な気分になる。空中庭園でも見ているような、奇妙な構図だ。待つ人はまばらで、ベンチに座って本を読む大学生らしき若者だったり、離れぬようにと手を繋いだ親子だったり、どこかに出かけた後だろう外出着の老人の集団だったり、そういう人々が、生活の匂いの消えない程度の存在感で、そこにいる。私もかつてその中の誰かで、いつかその中の誰かになる。なんなら今からすぐに彼女を置いて、その中の誰か一人になることもできる。
階段を下りる。駅へと続く道へ背を向け、折り返す。歩道橋の下、薄暗く、冬の香りを残したままのへこみを下りていけば、隠れた文明のようにスーパーマーケットの自動ドアが私たちを待っている。
籠を手に取ると、どちらからともなく、軽く会釈をして、店内で別れた。このまま二度と会わないこともあるだろう。そう思う。
何を食べようか。とりあえず、カップ麺がいいのではないか、と思った。何故かと言えば、米を炊いていないからだ。すると、家に帰っても主食がなければすぐに食事を始めることができなくなる。だからまずはカップ麺がいいだろう。移動する。
棚の前で考える。学生時代から食べるものはあまり変わらない。時たま開拓者精神に憑りつかれて異常な食べ物を購入したりもするが、普段は同じものばかりを買っている。今日はどれがいいだろう。
カップ麺を買ったら、惣菜を買おう。カップ麺とで食べる分と、炊きあがった米とで食べる分。主菜を調理する可能性――、面倒な気もする。惣菜の種類を見てから考えようか、と。とりあえずはカップ麺を手に取って、
「ロボはどうです?」
虚を突かれた。
一瞬身体が固まって、それからゆっくりと、隣を。声のした方を見た。
水色の髪の少女が立っている。
「とても巨大なロボなんですが。とても素晴らしいロボなんですが」
考えた。この少女は実在するのだろうか。そしてすぐに結論。実在しないだろう、と。これが実在するようであれば、世界はもっと清く正しく美しく、今よりずっと生の意味に溢れている。
だから無視をした。幻覚だろう。とうとう昼間からはっきりと幻を見るようになってしまった。それに危機感も湧いてこなかった。私はこの先どうなってしまうのだろう。
「どうですか、ロボ。五百万円」
高いな。いや、高くないか。五百万円で巨大ロボが買えたら、それはもう、もうだろう。巨大ロボを操縦して何を破壊しようか。考えて、どうして一番最初に破壊が頭に浮かんでしまったのか、悲しい気持ちが浮かんだ、という幻覚。人を助けたい。という内面化された規範。が、客観視されて外に出てきてしまっている。
「買う気がしませんか? でしたら特別に、私の作ったロボの歌を披露してさしあげますよ。ちなみにこれ、本来だったら一回一万円は頂くところなんですが」
うーむ、がめつい。
一食百五十円のカップ麺を手にした男にいきなり一万円を要求するのはなかなかできることではない。気力に溢れた妄想だ。思い、まあとにかく無視しよう、と。ひとりのときであるならともかく、人目に触れる状況で幻と会話していたら警戒一直線だ。
何はともあれ、惣菜である。カップ麺の棚を出る。
惣菜コーナーは店のやや奥まった場所にある。歩みを進める。すると、また例の――、マスクの彼女がいた。私と目を合わせて、そのあと、視線が後方へスライドした。ぎょっとしていた。何だろう、気になって後ろを見た。水色の髪の少女。それ以外には特にない。変哲もない。
「五百万円で巨大ロボを買いませんか?」
「えーっと……、お知り合い?」
「……」
「ねえちょっと」
「誰と?」
「いやその子と」
指差さず、行儀よく手のひらで示したのは私の背後。水色の髪の。
「見えるのか」
「えっなにそれ見えちゃいけない系?」
「いやわからないが」
「地球上の生物に対する悪影響は渡航時点で限りなく小さくなるよう処理されています。ご心配なさらず」
マスクの彼女は私を見た。
「そういう仕事?」
どういう仕事があるのだろう。
しかしこれではっきりしたことがある。この水色の少女、幻覚ではないらしい。おそらく。ずっと夢を見続けている可能性、そもそもマスクの彼女も私の幻覚であるという可能性も排除できないではないが、これは生存に対する向き合い方の話で、自分の見ているものと他者らしき存在の見ているものが一致している場合、それがどれだけ怪しく思えても実在すると認めるのが良い。そうしなければ混乱したまま先へ進むことができないのだ。
「そちらの方も、どうですか。ロボを買いませんか?」
「ロボ?」
「巨大ロボを売っているらしい」
「なんで?」
なんで。これほど根本的な問いも世の中には中々ない。『なんで?』『なんで?』『なんで?』三回も続けばどこから出発しても最後の答えは同じになる。『生きているからだ』
「路銀を作っているのです」
「ろぎ……、旅行?」
「はい」
「どこから?」
「宇宙の彼方からです。あなたたちを基準にすれば」
驚くべきことにマスクの彼女は水色の髪の少女と対話を試みている。おそらく接客業の経験があるのだろう。凄まじいことである。
「えーと……」
しかし水色の髪の少女のあからさまに狂った答えには困っているようで、眉間に薄ら皺を寄せ、それから私の方にちら、と目配せをしてきた。
特に意図がつかめなかったのでウインクで返した。諦めたように彼女は首を振り、
「……このへんに警察ってあったっけ?」
聞かれて、そういえばどのあたりにあったろう、と考える。一瞬頭を過った風景があったが、あれは駐輪所管理人の詰所だ。警察。しばらく行った覚えがない。結局思い付かず、首を傾げて彼女の方を見返すと、
「あれ」
ふと。
「いなくなってる」
水色の少女は、私たちの傍から消えていた。
*
「あんた、相変わらず変なやつねー」
お互い両手にレジ袋を吊り下げたまま、また川沿いの道を歩いていた。彼女の左の袋からは、卵のパックがぺこぺこと鳴る音が小さく聞こえ続けていて、その足取りは花が水に触れる速度よりもゆっくりとしていた。
「あれは私とは関係がない」
「うっそだー。修学旅行のとき幽霊見たとか言ってたのあんただったでしょ、確か」
そんなこともあっただろうか。思い出そうとして、かろうじてその記憶の輪郭だけは浮かべることはできたけれど、実感が伴わず、無意味を感じてやめた。
何にしろ、あの爽快な水色髪を幽霊として処理できるのであれば、彼女もなかなか独自の世界感覚を持っているなあ、と思った。
気のない相槌を打った。会話が止んだ。柔らかい風が吹いている。暖かい日の光が枝に反射している。靴裏がコンクリートを叩く音でさえ、優しく聞こえる。
本当の春が来ると、花びらがこの川を染めてしまう。
それを見て、何を思うかは日によって違う。
ただ美しいと、それだけ思う日もあれば、花の死骸が川を埋めていると、寂しく思う日もある。
何を見ても、きっとそうだった。
「すっかり春だね」
沈黙を開いたのは、彼女だった。
私は応える。
「そうだな」
「もうすぐ一年終わっちゃうし」
「早いな」
「ほんとだよ、ほんと。……ね、」
彼女の声が落ちた。
ひそやかに、囁くような声で、けれど風に乗せてはっきりと私の下へ。
「あんた、高校卒業してから、何してた?」
考える。
ふりをしていた。
本当は、考えるまでもなく、答えは決まっていたのである。
「何も」
彼女は、マスクの下で、微笑んだ。ように思う。それから、
「だーよーねっ!」
べし、と右のレジ袋で、彼女は私の腿の裏を叩いた。
抗議しようと私は背筋を正したが、彼女は言葉を続けて。
「もうちょっと、生きるかあ」
あんまりその声が。
満ち足りていたものだから。
「……いいんじゃないか」
「うわ、他人事」
「他人だからな」
「そりゃそうか」
川の途中に小さな橋がかかっている。そこで私は橋を渡り、右の坂の上に。彼女は左の踏切の向こうへ。方向を変える。
「じゃーねー」
と。
両手に袋を下げては手を振れるでもない彼女の言葉に、私も軽く頭を下げて、合図した。
歩き出した。
*
部屋に戻ると、白ばかりが目についた。
白い部屋だ。ついさっき、買い物に出る前は少しばかり影のある部屋だと思ったのだが。目が光に慣れたのかもしれない。
机の横には、水色の髪の少女が立っていた。
「ロボは要りませんか?」
聞かれて、自分には何が必要なのか、考えた。
何をしたいのか、考えた。
「どんなロボットなんだ」
「それはすごいロボットですよ。きっと、この星で一から作成しようとしたら、資源が枯渇してしまうくらいに」
「それが五百万円か」
「破格です」
「だな」
ふう、と白いレースのカーテンが膨らんだ。
ベランダに面した窓が開いている。少女はそこから入ってきたのだろうか。
思い、少女を見る。
手紙も視界に入る。
私は財布の中身を確かめた。
「もしかして、君。虫眼鏡など持っていないだろうか」
「ええ、持っていますよ」
「二万円で売ってくれたりしないか」
財布から顔を上げた。
少女はそこにいなかった。代わりに、机の上、不思議なデザインの、しかしそれとはわかる虫眼鏡が置いてある。
もう一度、財布に目を落とす。きっかり二万円。なくなっていた。
虫眼鏡を取った。
手紙を取った。
それから引き出しの中、一度も使ったことのない、どうしてそこにあるのかも覚えていない、灰皿を取った。
ベランダに出た。
日が延びた。
未だ太陽の光は強く、これからすることも、上手くいきそうだと思った。
灰皿を置いた。
その上に、手紙を置いた。
そしてその表面に、きっと、その便箋の中、言葉が置いてあるだろう場所に、虫眼鏡で光を集めた。
なかなか変化は目に見えず、失敗かと思った矢先、か細く白い煙が立った。
ほどなくして、小さな火がついて、見る間にその手紙を包んでいった。
めらめらと、紙の黒くよれていく様を見ていて、何を考えるでもなく、私は指を火の中に差しこんだ。
しかし火勢は弱く、私の指の皮すら焦がすことなく、ただその炎も、終わっていくばかりだった。黒くなった紙に手を触れれば、ぐずりと形を失くし、小さな炭になって灰皿に薄く貼りついてゆく。
あおくやせた指が、ささやかな炎を圧し潰していくのを、じっと見ていた。