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死ねない幽霊と、適当霊能力者

『終わりの始まり』




 その日、僕は首を吊った。


 ――はずだった。


 いや、たしかに首を吊ったのは間違いない。現にこうして、天井から垂れた紐で首を吊った僕の死体が、目の前にあるんだから。

 最初は、幽霊になったんだと思った。そんなものは信じてなかったけど、いまの僕と首吊り死体の僕と、二つに分かれた理由はそれしか考えられなかった。

 だけどその仮説は、すぐに揺らいだ。



 首吊り死体になった自分を目にして、僕はやっとこの世からオサラバできたんだと、深く安堵した。

 ホっと息をつき、畳に座りこむ。急須のお茶を湯のみにそそぎ、口をつけた――ところで、はたと気づいた。

 どうして触れるんだ!?

「うわぁっ!」

 思わず、湯のみを取り落とす。

 一息つくのには、お茶が一番だ。いつもの調子で無意識にお茶を飲もうとした。

 それは分かる。でも、それができてしまうのがおかしい。いまの僕は幽霊なんだから、物に触れるはずがない。

 恐る恐るもう一度、湯のみに手を伸ばす。


 触れる。


 たしかに、触ってる。首を吊る前と変わらない、使い慣れた湯のみの感触。

 思わず持ち上げて、だけどすぐに、振り払うようパっと湯のみを投げ捨てた。

 どうしてだ!? いったいなぜ、僕は湯のみに触れるんだ!?

 頭の中を、目まぐるしく思考が走る。

 なんとか自分が幽霊だって確証を得ようと思案するなかで、僕はあることに気づいてしまった。目を背けようとしても背けられない、厳然たる事実に。

 それは、お茶を飲んだ感覚だ。

 湯のみに口をつけた時、僕はほんの少しだけど、お茶を飲んだ。そして、飲み込んだお茶がゆっくりと喉を通っていくのを、たしかに感じた。

 そんな感覚が、幽霊にあるのか!?

 ――分からない。

 そりゃそうだ、分かるはずがない。だって、幽霊になるのは初めてなんだから。

 初めて……? そうなのか? 僕はホントに幽霊になれたのか? 死ぬ前と死んだ後で、こうも何も変わらないものなのか? ホントは死ねなかったんじゃないか?

 いやいや待て待て、落ち着いてようく考えろ。幽霊に首を締められたって話は、よく聞くじゃないか。首に触れるなら湯のみにだって触れるはずだろ? そうだ。それに、ポルターガイストって現象もある。あれも、物に触れなければ起こせない。

 そうやって必死に言い聞かせていると、突然、家のチャイムが鳴った。ビクっ! と体が強張る。

 驚きを抱えたまま、僕は慌てて玄関を開けた。そしてこの行為が、僕の仮説を崩壊させることになった。

まずい! と思ったのは、ドアを開けた後だ。僕はもう、首を吊ってる。呼び鈴を鳴らして出てきたのが幽霊じゃ、誰だってひっくり返るだろう。

 ドアの向こうには、隣の奥さんが立っていた。

 硬直する僕をよそに、

「はい、これ」

 と、奥さんが回覧板を手渡してくる。

 「どうも」と会釈して、僕はドアを閉めた。

 途端、手にした回覧板を置くことも忘れて、僕はその場にへたりこんだ。幽霊であるはずの僕と隣の奥さんとの会話は、なんの滞りもなく運んだ。

 こんなことがありえるのか!?

 たまたま奥さんの霊感が強く、幽霊である僕を見ることができたのだとして。だからって、まったく気づかれないものなのか!?

 幽霊を見れる人は、それが幽霊か人間なのか見分けがつくはずだ。見分けがつかなければ、普通、自分が見たものは人間だと思うだろう。それなら、この世に幽霊を見たと主張する人はいないはずだ。

 だけど奥さんには、なんの変化も驚きもなかった。

 そりゃあ、隣家とたいして交流はない。でも、幽霊か人間かの区別くらいは、さすがにつくはずだ。

 だいたいこの家は、玄関から室内が丸見えになる。八畳一間のど真ん中に首吊り死体がぶら下がってて、見逃すはずがない。当然、死体を見て無反応、なんてこともありえない。

 つまり、この死体は奥さんには見えなかったんだ。

 ちゃぶ台に駆け寄り、一気にお茶を飲む。湯のみに入れるなんてまどろっこしいことはしない、急須から直接だ。

 少しでも気持ちを落ち着けようとしたその行為で、また新たな事実が僕に襲いかかってきた。

 どんなに飲んでも、お茶の味がしない。

 慌ててキッチンの下をあさり、残っていたカップラーメンを取り出した。お湯もかけずに、そのままかぶりつく。

味つきの麺にも関わらず、なんの味もしない。

 僕は泣きながら、それでもガツガツと麺を口に放りこむ。

 そうだパンも残ってたはずだと、麺でパンパンになった口でパンにもかぶりつく。だけど、相変わらずなんの味もしない。

 口の中に入りきらないパンが、ボロボロとこぼれ落ちる。パンと同じように、涙もボロボロとこぼれ落ちる。それでも僕は、口の中に押しこむのを止めない。


 僕は今日、首を吊った。そして味覚を失い、垂れ下がる首吊り死体を手に入れた。

 あれほど手放したいと願っていた僕の人生は、さらに悪化したうえで、僕にまとわりついたままだった。





『幽霊生活の始まり』




 どれくらいの間、そうしてただろう。見るとはなしに首吊り死体を見つめたまま、夜は更けていた。時刻は、丑三つ刻。

(幽霊になって、初めての丑三つ刻か……)

 つい、そんなことを思う。

あまりにもくだらないことを思いついてしまったと、自分の口から乾いた笑いが漏れた。

 いや、正確に言えば、くだらないことしか考えられない、か。とてもじゃないけど、大事なことなんて考えられないし、考えたくもない。こんな状態でこれから先のことなんて――考えるだけで、恐ろしい。

 と突然、部屋の窓が割れ、巫女姿の女性が飛びこんできた。

「悪霊、たいさーーん!!」

 言って、手にしたお札を僕のおでこに貼りつけた。瞬間、おでこを強烈な痛みが襲う。

「イダダダダダダダ! なにこれ!? なんなの!?!?」

 はがそうとお札に触れた手に、バチっとスタンガンのような鋭い痛みが走る。

「ふっふっふ、無駄よ。そのお札は降霊涼花こうらいすずか特製のお札なんだから、はがすことなんてできやしないわ。さあ観念しなさい、悪霊!」

 降霊涼花と名乗った女性が、ビシっと腕を伸ばして指さしポーズを決めてるけど、こっちはそれどころじゃない。

 おでこに電気ドリルで穴でも開けられてるかのような激痛だ。

「僕は悪霊なんかじゃないですから! 取って! 早く取ってって!!」

 のたうち回りながら、叫ぶ。だけど、降霊涼花はまるで聞く耳をもたない。

「これだけ強い霊気を放ってて悪霊じゃないなんて、笑わせるわ。どうせこの家でも、悪さしてたんでしょ!」

 言って部屋を見回した彼女は、この部屋の主を発見した。そう、首吊り死体である僕を。

そこで初めて、彼女はこの部屋の主が首を吊ってることに気づいたらしい。

「大変!!」

 慌てて、彼女が首吊り死体の僕を助けようとする。

 とそこで、彼女は首吊り死体の僕と幽霊の僕が、同じ顔だということに気づいたようだ。驚いて、死体と僕を交互に見やる。

「だから! 僕が首を吊って! 死んだ後こうなったんですって!!」

 額をつんざく痛みに耐えながら、必死にアピールする。

 それでようやく状況を理解してくれたのか、彼女はお札をはがしてくれ、僕のおでこは無事に激痛から開放された。

 見ると、指先がうっすら透明になってる。若干、除霊されかかってたらしい。

もしかしたらこのお札を喰らえば、この世からさっさとオサラバできるかもしれない。

でも、いままで貼られてて、指先が少し透明になるくらいだ。完全に除霊されるまで、かなりの時間がかかるだろう。それまでの間あの激痛に耐え続けるなんて、絶対に嫌だ。

 だいたい、そんな拷問に耐えられるような根性があるなら、自殺なんてしやしない。この世に耐えられなくて、死を選んだんだから。



「いやぁ、ごめんねぇ~」

 両手を顔の前ですりあわせ、彼女が謝る。上目遣いなその表情は、媚びへつらい、かわいこぶって許してもらおうとする姿だ。

ただ、それが分かってても、男からすればどうにも怒るに怒れない。まあ、だからこそ、女性が多用するんだろうけど。

「本当、ごめ~ん」

 さらにスリスリ、頭下げ下げ、上目遣いもいっそう、露骨に。相手は、ここで勝負を決めてしまおうという腹づもりらしい。

 ゴメンですんだら警察はいらない、と言いたいところだけど、さすがに幽霊は警察の保護対象外だろう。

 それに、彼女のおかげではっきりしたこともある。

「それはもういいですけど……。それより、やっぱり僕は幽霊なんですよね?」

 そう、たしかに彼女は、「悪霊退散!」と言った。そして、彼女が作った幽霊用とおぼしきお札も、僕に効果を示した。

ということは――。

「そりゃそうでしょ。あなただって、死ぬために首を吊ったんじゃないの?」

 まんまと許してもらえたと判断したんだろう。彼女は、すぐさまこっちの話題に乗っかってきた。

 それは少々シャクだけど、早く現状を知るためには、まあ、仕方がない。

「そうなんですけど、どうにも死んだ後の状況に困ってて……」

 僕は、死んだ後も普通に物に触れたり、隣人とも会話できたことを彼女に話した。

「うーん、なるほど。それは、精魂せいこんが幽体のほうに移っちゃったのかもね。どうりで、これだけ強い霊気を発してるわけだわ」

「精魂?」

「そう。人が『心』と認識してるものね。物理的に『心』って臓器はないけど、誰しもが自分の中に心の存在を感じるでしょ? それが、精魂なの。

 精魂を失うと心がなくなって、存在感もなくなるわ。

 幽霊が一部の人にしか見えないのもそのためよ。精魂と五感を強く同調させられる人にしか、見えないの」

「じゃあ、いわゆる霊能力っていうのは?」

「精魂と五感を同調させる能力、のことね。後は同調の強さによって、見えるだけか触れもするのか、変わってくるわ」

 なるほど、幽霊に自我があるのはそのためか。自我の程度に差があるのも。

「通常、精魂のほとんどは肉体に留まって、幽体に移るのはほんのカケラだけ。幽霊との意思疎通が困難なのも、精魂がほんのわずかしか存在しないせいで、心が欠けちゃってるからなの。

 ただ、まれに精魂のほとんどが幽体に移っちゃう場合があるの。現世に強い恨みや未練があると、肉体の死に拒絶反応をおこして、幽体のほうに移っちゃうのね。

 幽霊の目撃談って、恐ろしいものが多いでしょ? 怨念の強い幽霊ほど精魂も強く残ってて、目撃されやすいからなの。」

「その状態が、僕?」

「ええ。だけど、あなたほど精魂が幽体に移ってる状況は初めて見るわ。だから元の肉体が周りからほとんど認識されなくなってるし、あなたも生きてる時と変わらず、普通にコミュニケーションがとれてるの。

 おそらく、ほとんど百%に近いくらい、移っちゃってるんじゃないかしら」

 霊能力があれば生身の人間が幽霊に触れるのなら、その逆もしかり。彼女の説明によれば、僕は霊能力の塊ってことになるから、それなら僕が物に触れる説明もつく。

「じゃあ僕は、このまま幽霊として生きてくしかないってことですか?」

「う~ん。まあもう絶命しちゃってるから、生きてくんじゃなくて死んでく、だと思うけど」

 いや、そこはどっちだっていい! 問題はそこじゃない!

「そうね。今のままじゃ、成仏はできないでしょうね。さっきみたいに無理やり除霊するくらいしか、方法は思いつかないなぁ」

 冗談じゃない。あんな痛いのをもう一度なんて、冗談じゃない。大事なことだから、二回言いました。

「でも、あなたを見てて思ったんだけど、この世に恨みがあるってわけじゃないんでしょ?」

「う~ん……まあ、少しは腹の立つ奴もいますけど、それは誰でもそうじゃないですか? 嫌いってだけで、死んだ後まで恨むほどじゃないですし」

「だとしたら、考えられるのは未練、よね。もしかしたらその未練を解決すれば、成仏できるんじゃないかしら?」

「いやあ、未練だって同じようなものですよ。ああしとけばよかったかなって後悔とか懺悔とかが多少あるくらいで。

 そもそもこの世に未練たっぷりな奴が、首なんて吊らないでしょ?」

「それもそっか」

 と、彼女はペロっと舌を出してみせた。

 ……はたして、まじめに考えてくれてるんだろうか?

「う~ん、じゃあ、なんだろう……。たまたま、とか?」

 さも良い思いつきをしたかのように、言ってくる。

 人生最大の行動をたまたまで台無しにされたんだとしたら、僕は神を一生、許さない。女子トイレの中に逃げ込んだとしても、追い詰めてやる。

「まあいずれにせよ、あなたの状態はかなり特殊ってことね」

 お手上げだと言わんばかりの表情で、彼女が言う。

 しかしそれで済まされたら、こっちはたまったもんじゃない。なんとか、上げた手を下げてもらわなきゃ。

「やっぱり精魂が移った原因が分からないと、成仏できないんですか?」

「そのはずよ、普通はね。まあ、私の場合はさっきみたいな力技の除霊がほとんどだから、その辺、あんまり知識はないんだけどね」

 言って、彼女がテヘヘとはにかむ。

 これまでにも何体もの霊がさっきのような目にあってるんだとしたら、心の底から同情するばかりだ。この人の場合、僕の時のように、悪霊でもないのに悪霊だと間違えてひどい目にあわせることなんて、日常茶飯事そうだから余計におっかない。

 幽霊からしてみれば、通り魔にも近い存在じゃないだろうか。

 だけどいまは、乱暴でがさつな、この通り魔霊能力者しか頼れる者はいない。

「じゃあ、降霊さんの知り合いでもいいんで、誰か詳しそうな人はいませんか?」

 僕がそう尋ねると、通り魔は困った顔で頭を掻いた。

「あ~、ごめんね。私この仕事始めたのが二日前だから、そういう知り合いとかいないのよね」

「は? 二日前!?」

 駆け出しの新人ってことか?

「実はね、二日前にたまたまお祭りの屋台で見つけちゃったのよ、これ」

 そう言って彼女は、一冊の本を取り出した。本のタイトルは、『決定版! 初めてでも失敗しないお札の作り方』。

「もともと霊感はあったから、これまでもパンチやキックで除霊してはいたんだけど。ほら、私だっていちおう、女の子でしょ? それだといろいろと大変なのよ。

 そんな時にこの本に出会って、「よし、これならもっと効率的に除霊できる!」って思って。それを期に、霊能力者として仕事をすることにしたわけ。

ちょうどその時、前の仕事をクビになって、無職だったしね」

 …………。

 なんということでしょう。僕が頼りにしようとしてた霊能力者は、かくもくだらない理由で霊能力者を始めやがったのです。

 幽霊と化したいまの僕にとって、霊能力者の存在はとても重要だ。それなのに、冷やし中華を始めるように気楽に始められちゃ、たまったものじゃない。

「あ、でもね。ちゃんと由緒正しい本なのよ。だってこの本には、相当な霊気が宿ってるんだから。お祭りで一目見た時も、すぐにピンときたのよ。

 現に、あなたに使ったお札も効果あったでしょ? あれねぇ、私が本を見て最初に作ったお札なの。最初にしては良くできてると思わない? 自画自賛になっちゃうけど、我ながら良くできたと思うのよね~。

 あ、それ以外にもいろいろ作ったんだけど。私なりにアレンジした自信作が……これこれ。じゃ~ん! どう? ラインストーンとシールでお札をデコってみたの。名づけて、デコ札! カワイイでしょう~。でも、男の子にはなかなかこのカワイさは伝わらないかな~~。

 あ、いま除霊にカワイさなんて必要なのかって思ったでしょ? チッチッチッ、分かってないなぁ~。

あのね、除霊するにしたって気持ちが重要なのよ。気持ちが盛り下がってちゃ、除霊できるものもできなくなっちゃうの。だから、道具ひとつとっても自分のテンションをあげる要素が必要っていうか――」

 僕の気持ちを無視して延々としゃべり続けてるこの無神経エセ霊能力者に、僕は込められるだけのありったけの怨念を込めて吐き捨てた。

「   か   え   れ   !!」





 夜明け前の空が白み始め、窓の外がわずかに明るくなる。時計を見れば、まだ六時半。

 当然、幽霊に出勤時間なんてないから、起きるには早過ぎる。それでも僕は、体を起こした。

 結局、一睡もできなかった。

 それは、自殺をしても現世から逃れられなかったショックでもなければ、昨日エセ霊能力者に窓を破られて寒かったからでもない。

 本来、この真冬に窓を破られたんじゃ、寒くて凍え死んじゃうところだ。だけど幸いにも、僕は幽霊だった。

すでに体が死んでるからだろう、どうやら気温を感じることはないらしい。冬の寒さも暖房の暖かさも、いっさい感じない。それでも寝る時に布団をかぶっちゃうのは、長年のクセなんだろうけど。

 じゃあ、どうして眠れなかったのか? 

 どれだけ眠ろうとしても、いっさい眠気を感じなかったからだ。

 最初は、それでもなんとか眠ろうと、目を閉じ、ベッドにジっと横たわっていた。もちろん、大量のヒツジも導入された。

 だけど、どれだけ時間が経ってもいっこうに眠気がこず、導入したヒツジが頭の中でハードル競走をくり広げ始めたころには、眠れもしないのにベッドに横たわってることが苦痛になっていた。

 結局、約四時間ほどで、僕の『寝ようチャレンジ』は終わったことになる。

 まあ、眠くないのなら寝なくても構わないんだけど、まったく寝ずにいるってことがどうにも落ち着かない。これも、長年のクセなんだろうけど。

 とそこで、僕のお腹がグウゥ~っと鳴った。

 嘘だろ!?

 完全に、想定外だ。幽霊のお腹が空くなんて、もっとも想像してなかった事態だ。

 カロリーを消費するからお腹って空くんだろ? じゃあ、幽霊がいったい何にカロリーを消費するんだ? だいたい、食事したところで幽霊が食べ物を消化できるのか?

 疑問は尽きないけど、考えたところで分かるはずもない。幽霊についてすらよく分からないのに、その食事事情なんてもっと分からない。

 とにかく、空腹が耐えがたい以上、腹になにかを入れるしかない。幸い、買い溜めしたカップラーメンが、キッチン下にまだ残っていた。

沸騰したお湯をいれ、箸をフタの上に置いて三分待つ。そこでふと、大事なことを思い出した。

そういえば、僕は味覚を失ってたんだ。

 あの時は気が動転しててはっきりとは覚えてないけど、味覚のない食事が、文字どおり味気ないものだったことは確かだ。

 安物のカップ麺でもそれなりに旨い。人生の中で比較的マシだった食事までもが苦痛になってしまったんだから、僕の人生はますます救いのないものになってしまった。いや、もう死んでるんだから、人生じゃなく、人死じんしってとこか。

 深く深く、ため息をつく。息を吐くだけでここまで絶望感を伝えられる者は、人間でも幽霊でもまずいないだろうって自賛するくらい、僕のため息は絶望感に満ちていた。

 そうこうしてるうちに三分が経ち、僕はカップ麺のフタを開けて、箸でつかんだ麺を口へと運んだ。モニョモニョとした食感だけが、口の中に広がる。

 マ、マズい!

 味つけを失敗した料理のマズさは知ってる。だけどこれは、それ以上だ。

 無味がこんなにマズいとは思わなかった。かみ切れる輪ゴムを食べてるかのような不快さだ。

「この状態で、ぜんぶ食わなきゃいけないのか……」

 拷問だ、紛れもなく。

 ただ、腹が減ってるのもまた、事実だ。

 すでに死んでる以上、空腹で二度死にするようなことはないだろうけど、この空きっ腹を耐え続けるのもまた、拷問だ。

食う拷問か食わない拷問か。両方が辛い二択とは、とことん救いがない。

 究極の二択として、「うんこ味のカレーかカレー味のうんこか」なんて笑い話が流行ったけど、現実における究極の二択は、一ミリも笑えない。

 結局、箸で麺を突いてできるだけグチャグチャにし、スープと一緒に流し込んだ。「良く噛まないと体に悪い」なんて昔からの小言は、幽霊には関係ない。

死ぬ以上に体に悪いことなんて、無いんだから。

 と次の瞬間、ケツからの排泄を感じた。まったく、なぜにこういう感覚だけは残ってるのか……。

 おいおい、このうえ漏らしたとか、冗談じゃないぞ!? 

 恐る恐るパンツの中をのぞくと、さっき流し込んだラーメンが、そのままの状態であふれていた。

 ショックだ……。とにかく、ショックだ……。なにが悲しくてこの歳でオモラシをしなきゃならないのか。

 入れてすぐ出すなんてトンネルか早漏くらいだと思ってたけど、まさか自分のケツもお仲間だったとは。

 ラーメンは消化されることなく排泄されたようだけど、不思議なことに腹は膨れてる。

 どういう理屈なのかは分からないけど、いまの僕は、口から食べたものが即座にケツから排泄されるらしい。そしてなぜか、食べ物が体の中を通っただけで、満腹感を得られる。

 ここまで訳の分からないことだらけだと、もはや疑問に思うことすらバカバカしい。

 うん、もう幽霊はこうゆうもんだよ。すべての幽霊はもれなく漏らしてる。そうに決まってる。そう思い込む。

 パンツの中の麺は、流しこんだ時のまま、なにも変わらないように見える。

 これをもういちど口から流しこめば、食費もかからず永久に空腹をしのげるんじゃないか? と考えたけど、さすがにケツから出たものをもういちど口に入れる勇気はない。

 いや、これは勇気の有る無しじゃない。人間の尊厳、プライドに関わる問題だ。口からケツへ、ケツから口へ。人として、魔のリサイクルに手を出すわけにはいかない。

まあ僕は、人間やめて幽霊になってるわけだけど。

 とにもかくにも、リサイクルができない以上、これをなんとか処理しなきゃならない。

 僕はそうっと、ラーメンがこぼれないようにパンツを脱いだ。そのままパンツを器にして、トイレまで輸送する。こんなマヌケな輸送は、世界でもめったに無いだろう。

 とそこで、僕はおかしなことに気づいた。

 パンツが濡れてない。

 どうゆうことだ? あれだけの量が出たら、パンツどころかズボンにまで染みてて当然のはずだ。

 試しに、ズボンも確認してみる。こっちも濡れてない。

 ますます分からないと首を傾げる僕の目の前で、さらに不思議なことが起こった。ケツから出たラーメンが徐々に透明になり、そのままフっと消えてしまったのだ。

「ええ!?」

 突然のことに、唖然とする。

 目の前にあったものがゆっくりと透明になって消えてくなんて、まるで幽霊みたいじゃないか――。

「あっ!」

 そこで、気づいた。

 さっきのラーメンは、幽霊になってたんじゃないか!? 

 僕が首を吊って幽霊になった時、その時に身につけてた物も、同時に幽霊になった。これは、例のエセ霊能力者に言われたことだから、間違いない。

 いや、エセ霊能力者に言われたから間違いないって物言いは、かなり無茶苦茶だけど。エセといえども除霊はできるんだから、さすがにそれは間違ってないと思う。

 身につけてた物が幽霊化するなら、食べた物が幽霊化することだって、充分ありうる。

 僕が食べたことで幽霊化したんだとすれば、ラーメンが持ってる精魂は、僕のが移ったと考えるべきだろう。ラーメンに、心は無いんだから。

 僕の体を通った時間はわずかだから、移った量もたいしたこと無いはずだ。だから、すぐに消えてしまった。

 ってことは、これから食事をするたびに、毎回ケツから食べたものが幽霊として出てくるってことか? 

 おいおい、僕は幽霊製造機じゃないぞ! しかもケツからの製造って、そんなマヌケな製造方法があるか!?

 ――なんだろう、この敗北感。なんにも負けてないのに、敗北感が凄まじい。

 製造機になるのは嫌だけど、だからってなにか対策できるわけでもない。しばらく経てば消えるってことで、我慢するしかないのかな……? 

 次から次へと、僕を取り巻く状況は、悪化するばかりだ。

 新たな事実に僕がうなだれてると、突然、きのう割られた窓の外に、ニョキっと手が現れた。その手が、ガシっと窓枠をつかむ。

 僕が呆気にとられてる間に、その手の主は腕力かいなぢからでもって、自分の体を窓の上へと引き上げた。

「はろ~~~」

 愕然。

 まさに、愕然。

 現れたのは、昨日のエセ霊能力者。

「おじゃましま~~す」

 と、室内に入ってくる。

「おじゃまします」と言われて本当にジャマだと思ったのは、今日が初めてだ。

 だいたい、そこは玄関じゃない。それにお前は土足だろう、靴を脱げ、靴を!

「いやあ、昨日は突然でごめんねぇ~」

 今日だって、突然だ。それについて謝れ、いますぐ謝れ!

「そうそう。これ、お詫びと言えばなんだけど、シフォンケーキ。美味しいのよ~。

あ、ナイフある?」

 味覚を失った僕にケーキとか、いい根性してるな!? そもそも僕は、甘いものが嫌いだ!

 いったいどんな神経をしてれば、昨日の今日で訪ねて来られるんだろう。神経が太すぎる。図太すぎる。

お前の神経はレインボーブリッジのワイヤーケーブルか!

 今日でよく分かった。僕はこの女とは、根本的に合わない。性格がどうのというのを通り越して、運命的にあわないんだろう。それを、ヒシヒシと感じる。

人間版、水と油、だ。

 しかし女は、そんな僕の気持ちなど、構いもしない。

「あったあった、ナイフとお皿。これ、借りるね」

 と、勝手にちゃぶ台へと持ってくる。

僕が「いいよ」と返事をしたわけでもないのに、なんて図々しいんだろう。これはもう、ワイヤーケーブルなんかじゃ収まらない。電柱だ。電柱なみに図太い神経の持ち主だ。

厚かま神経が体中に張り巡らされてるんじゃないのか!?

「さてと、どれくらい切り分けよっか? ってこれ、邪魔ねぇ」

 言って、あいかわらず天井からぶら下がったままの僕の死体を、手で払いのけようとした。

 なんてことをするんだ! 仮にもそれは、“『元』僕”だぞ!!

 死者に対する冒涜だ! 霊能力者のくせに死者を丁重にあつかおうという気持ちがないなんて、どうなってるんだ!? まるで蚊を払うかのように、僕の死体をどけようとするなんて!

「うーん、やっぱり不思議ねぇ。私でも触れないなんて」

 幸いにも女の失礼な行為は、彼女が僕の死体に触れなかったため、未遂に終わった。

 ただ、僕の死体が不思議な存在だってことに関しては、同感だ。なぜなら、僕自身も死体に触ることができないんだから。

 何度か試してみたけれど、どうやっても触ることができない。それができてれば、僕の死体を吊り下げたままになんかしておかない。

 いくら精魂がほとんどないからって、元の体の持ち主ですら触れないなんてことがあるんだろうか?

 この部屋でテーブルの役目をはたせるのはちゃぶ台しかないから、テーブルを必要とする状況では、いつも目の前に僕の死体が吊り下がってることになる。

 当たり前だけど、これは決して気分の良いことじゃない。

 それならちゃぶ台を動かせばいいって思うだろ? 残念、なぜかちゃぶ台も動かせない。

 さすがに僕の死体とは違って、触ることはできる。ただ、なぜかまったく動かない。

 蹴っても殴っても、フライングクロスアタックをかましても、まるでそびえ立つピサの斜塔のように、ビクともしない。

 おそらくは僕の首吊りとなにかしらの関係があるんだろうけど、今のところ、さっぱり分からない。

 と、考えをめぐらせる僕の耳に、女の素っ頓狂な声が響いた。

「あ、ごめ~ん。私、土足だった!」

 いま頃かよ!

 よくいままで気づかなかったな。気づけずにいたほうが不思議で仕方ないわ!

「あっちゃあ~、あちこち汚しちゃってる」

 そう言って、玄関に靴を置いてきた女が、布巾で床をふく。

 ふむ、まあ当然の行為だが、汚したまま放ったらかしにしなかったことは良しとしよう――って、それは台拭きだろ! 台拭きで床をふくんじゃない!!

 やっぱりこの女とは、とことん合わない。宇宙人とだって、もう少し分かり合えるんじゃないか?

「なんか私一人でバタバタしちゃって、ごめんねぇ~」

 言って、女は雑巾だと勘違いしたまま、台拭きをゴミ箱へと捨てた。

 なんたる悲劇、僕の台拭きさんがご臨終あそばされてしまった。

 ってか、仮に雑巾だとしたって洗って何度か使うだろ。なんで一回で捨てちゃうんだよ!

 ぜいたく女の毒牙にかかってしまうとは。哀れ、台拭きさん。

「ふ~、やっと落ち着いたね。さ、ケーキ食べよ」

「いや、僕はケーキはちょっと……」

「なに? 甘いの苦手?」

「まあ、それもあるんですけど」

「えー、もったいない。じゃあ、私がも~らい」

 女が、僕に切り分けたはずのケーキを取る。自分でぜんぶ食べるなら、いったい何のために持ってきたんだろう?

「はぁ~、落ち着く優しい味。あなただって食べればいいのに」

 勝手に人の家に上がり込んで、勝手に落ち着かれちゃ困る。そろそろ帰ってくれないかな?

「あ、そういえば! バタバタしてて忘れてたけど、私、用事があって来たんだった」

「用事?」

 これまでの行動を考えると、嫌な予感しかしない。

「これこれ。この本に、今のあなたの状態と似てるものがあったのよ」

 そう言うと、彼女は一冊の本を取り出した。題名は、『超厳選! 驚きの幽霊百選』。

 ……大丈夫か、その本!?

 そもそも、超厳選したにも関わらず百って多すぎやしないか? 幽霊の種類にそれほどの数があるとは思えないし、あったとしても超厳選ができてない。だいたい、幽霊って存在そのものが驚きなんだから、それ以上、驚かせなくっていい。

「すごいのよ、この本。霊能力者に向けてだけじゃなく、自我を持ってる幽霊向けに症状の説明や安全な成仏の仕方なんかが書いてあるの」

 幽霊に向けて書かれてるって――だとしても、幽霊はどうやって読むんだ?

 僕みたいに誰からも見れる幽霊だけじゃない、姿の見えない幽霊もいる。てか、大抵はそうだ。そんな幽霊が本屋で立ち読みしてたら、周りの人には本が空中に浮いて、ひとりでにページを繰ってるように見える。

この本にだけそんな心霊現象がやたらと起きてたら、どこの本屋も取り扱わないだろう。

 だけどこの人は、そんな疑問を露ほども抱いてないらしい。

「私にも触れないあなたの死体に違和感を感じて、ちょっと調べてみたのよ」

 なるほど。違和『感』を、『感』じたのね。どうやらこの人は、多感症のようだ。

「えーっと……ほら、このページ。『具現化霊ぐげんかれい』ってあるでしょ。おそらく、これだと思うのよ」

 たしかにそこには、『生きている時と変わりない状態の霊』って記述がある。だけど、こんなうさん臭い本、信用に値するか?

「この本って、信憑性あるんですか?」

「もちろん! だってこれは、霊能力者の間でいちばん売れてる本だって、近所の書店員さんも言ってたんだから」

「はぁ!?」

 専門書を選ぶ基準が、『近所の書店員のおすすめ』。こんな霊能力者がいるだろうか?

 そもそも書店員は、どうやって霊能力者を見分けるんだ? 額にバカでかく、『霊能力者です』なんて、書いてあるわけでもないだろうに。

 「霊能力者なんですけど、霊能力者のための本ってあります?」なんて買いに行ったとしたら、霊能力者ではなく、頭のおかしい奴と認定されるだろう。

 まあ、目の前の人は行きそうなんだけど。

 百歩譲って、書店員が霊感の持ち主で、見分けることができたとしよう。で、どうやって売上の統計をとるんだ? 

 日本中の霊能力者がその書店に集まるわけじゃない。それとも、『全国霊感書店員連絡網』とかでもあるのか?

 書店員の募集要項に『霊感必須』なんて、見たことも聞いたこともないけど。

「んー……。他になにか、本物だって証拠になりそうなものはないんですか?」

 いちおう、聞いてみる。当然、心の中では、「どうせデタラメだろ」と思いながら。

「んっとねぇ……じゃあ、これはどうかな。具現化霊に起きる、体の症状についての記述。

えっと、味覚がなくなったり、暑寒を感じなくなったりするんだって」

 「どう、そういう症状ある?」と、彼女が聞いてくる。

 ――ある。

 紛れもなく、いま僕が苦しんでる症状だ。

 まさか、この本は本物なのか!?

 いやいや、この人が持ってきた本だぞ。到底、信じられない。

 祭り屋台で本を購入したことがきっかけで霊能力者になって、今日でまだ三日。勝手に悪霊だと決めつけていきなり襲いかかってくるわ、武器のお札はゴテゴテとデコるわ。

 なによりも彼女自体が信憑性に欠ける。

 お札をはられて成仏しかけた以上、霊能力があるのはホントだろうけど、素質のある素人が好き勝手やってるようにしか見えない。

「たしかにありますけど、人間から幽霊に変わってるわけだし、五感を失ってもおかしくないですよね?」

「それはそうなんだけど、具現化霊の場合、食欲はあるらしいのよね。もう死んでるから餓死したりはしないけど、空腹感はあるんだって」

 ――それも当たってる。空腹感と味覚の喪失が合わさったせいで、苦しんでるわけで。

「あと、痛覚もないみたいね」

「でも、お札をはられた時、痛かったですよ?」

 あのデコ電気ドリルの痛みは、忘れようったって忘れられない。

「あれは、痛覚とはまた別物なのよ。霊的なゆがみから引き起こされるっていうか。だから、防ぐことも弱めることもできないの。

そうじゃなくて、物理的なものからの痛みやダメージがないってこと」

 物理的な痛み――。

 試しに、壁を叩いてみる。感触はあるけど、痛みはない。 

 この感触があるってのが厄介で、そもそも痛くないのか、痛覚がないから痛くないのかが分かりづらい。

 痛くないと言われても、もし痛かったらって不安はあるわけで、なかなか思いきりは叩けない。痛みを感じる程度には叩いたつもりだけど、わざと痛くすることなんて無いから、適切な力加減だったかは微妙だ。

 ただ、いま叩いてみて痛みがなかったことで、多少、不安は和らいだ。

 もうちょっと思いきりやってみるか。

 向こうずね。弁慶の泣き所って言われるここなら、ぶつけただけで痛いはずだ。

 壁の角になってるところを、思いきりガンっと蹴飛ばす。

 ――痛くない。

「やっぱり、痛覚はないみたいね?」

 爪を立ててほっぺたをつねっても、耳や髪を引っ張っても、痛くない。

「てことは、この本は本物?」

「ね、だから言ったでしょ?」

 彼女が誇らしげに胸を張る。残念ながら、張ったところで無いものは無い。

 だけど、彼女の胸とは対象的に、この本への信頼度はグンと増した。

 だとすれば、すぐにでも聞かなきゃいけないことがある。

「で、成仏の方法はなんて書いてあるんです?」

 この状態から解放されるかもしれない。期待に、心臓が高鳴る。無いけれど。

「んっとね……。本には、『自力でなんとかするのは無理なので、諦めましょう』だってさ」

 ――はあぁ!?!?

 なんて役に立たない本だ! 本物なのに、なんの役にも立たない。まるで、解答の載ってない問題集のようだ。

 あまりの役立たずぶりに希望から絶望へ、心がフリーフォールのように叩き落とされた。

「じゃあ意味ないでしょ、この本! なんで持ってきたんですか!?」

「自分がどういう状態の霊なのか、名前くらいは知っといたほうがいいと思って」

 なんじゃそりゃ! なんじゃあそりゃあ!!

 名前なんてどこかの誰かが便宜上つけただけで、知ってようがいまいがどうでもいいだろ!

 そもそも、それを言う機会があるのか!?

 幽霊同士集まって、「お宅、なに霊?」なんて井戸端会議、見たことも聞いたこともない。

「昨日といい今日といい、もういい加減にしてくれよ……。帰ってくれよ……」

 ため息のように、言葉を吐き出す。あきれ果ててこれ以上、相手をするのも嫌だ。

「でもさでもさ、私もなにか手伝えるかもしれないし……」

 この状態で、まだ食い下がろうとする図々しさに恐れいる。

「……なにかって、なんですか?」

「うーん、例えば――料理とか?」

 彼女から到底、家庭的な感じはしない。任せたら、ゲテモノ料理ができ上がりそうだ。

 味覚がないから味はゲテモノでも関係ないけど、見た目までゲテモノになったらたまったもんじゃない。ただでさえ辛い食事をさらに苦しくされるような所業は、ゴメンだ。

「ホントに料理できるんですか? それに、料理してもらおうにも食材がないですし……」

 そこまで言って、思いだした。

 食材どころか、買うためのお金すらない。どうせ死ぬんだからって、所持金はすべて使い切ってしまった。

 さらに言えば、仕事も辞めていて、お金を手に入れる算段すらない。

「はぁ~~~~~~」

 幽霊である僕はいまや、叩いてもホコリすら出ない。出るのはもはや、ため息ばかりだ。

 まったく、どうしてこんな目に遭うのか。

首を吊り、この世のしがらみとはオサラバしたはずなのに、しがらみは死後まで追いかけてくる。しかも、死後に追いかけてくるしがらみのほうが、性質たちが悪い。

 とそこで、大きくため息をついた僕に、彼女が言った。

「仕事だったら、私に紹介できるものがいくつかあるわよ」





『幽霊の就職』




 吊川つりかわ公園。ここは、僕の家の最寄り駅である吊川駅に面した公園で、この辺りではもっとも大きい。平日の昼間でも、散歩中の老人や昼休みの会社員で、それなりに賑わっている。

 その公園の中央にある広場で、僕は首から看板を下げて立っていた。看板には、『一分間五百円で殴り放題』と書いてある。

 いわゆる、『殴られ屋』だ。

 そしてこれが、彼女が紹介できると言っていた仕事だ。

 看板をぶら下げて勝手に『殴られ屋』だと名乗ってるわけで、これのいったい、どこが紹介なんだろうか。

 まさか、「公園を紹介した」なんて寝ぼけたこと言わないよね?

「で、これって商売になるんですか?」

「大丈夫、大丈夫。日本はいま、ストレス社会だからね。それに、ダメージはないんだから、案外、天職になるかもしれないわよ」

 たしかに、痛みがなければなんてことはないだろう。

ただ、喧嘩のひとつもしたことのない僕にとっては、殴りかかられるだけでも怖い。ってか、金払ってまで人を殴りたいって感覚が分からない。自分の手だって痛いだろうに。

 僕ならなるべく、暴力は避けて過ごすけど。

 および腰な僕の隣で、降霊さんはやたらはりきって客引きをしてる。まさかとは思うけど、この人、僕が殴られるとこを見たいだけじゃないよね?

「思いっきり殴っていいの?」

 呼び込みにつられて、一人の男性が立ち止まった。

『思いきり』ではなく、『思いっきり』とあえて力を込めて言うのが、余計におっかない。

 身長は百七十くらい。それほど大柄じゃないけど、ガタイはいい。いかにも、腕っ節が強そうだ。

「はい、思いっきりどうぞ!」

 と、降霊さん。

 いやいや、殴られるの僕ですけど! 勝手に相手の思いっきりを引き出さないでほしいんですけど!

 お金を払い、男性が僕の正面に立つ。

拳を痛められても困るから、相手にはグローブをつけてもらう。殴らないしガードもしない僕は、素手だ。

 あらためて正面に立たれると、やっぱりおっかない。

「それでは一分間殴り放題、よーーーい、始め!!」

 降霊さんが、ノリノリで号令をかける。やっぱりこの人、楽しんでるだけじゃないのか!?

 号令が終わるやいなや、男性が拳を振るってきた。拳がせまる恐怖に耐えきれず、思わず目をつぶる。

 ガっ! と激しい衝撃に押され、僕は尻もちをついた。いつの間にか集まっていたギャラリーが、「おお~」と歓声を上げる。相手も得意げだ。どうやら、ダメージが入ったから倒れたんだと思われたらしい。

 まあ、盛り上がったから良しとするか。

 立ち上がった僕の前で、男性はすでにグローブを構えている。会心の一撃が当たったことで気分が高揚してるんだろう、早く殴りたくてしかたないって感じだ。

 僕が両腕をダランと下げたのを合図にして、再び殴りかかってきた。次々と、相手のパンチがクリーンヒットする。

 そりゃそうだ。僕はボクサーでもなんでも無いんだから、パンチを避ける技術なんて持ちあわせてない。

 ただ、最初の一撃で、かなり恐怖心は和らいだ。痛くはないと分かってても、人間――幽霊だけど――もしかしたらって考えてしまう。実際に痛くなかったことと、一度くらってパンチがどんなものか分かったことで、むやみに恐れることはなくなった。

 とはいえ、やっぱり怖いから、薄目でしか見れないんだけど。

 その後も何度か尻もちをついたけど、何発か喰らううちに、パンチへの対応が分かってきた。

 ようするに、力を入れなきゃいいんだ。

 ダメージはなくても、恐怖心からどうしても全身に力が入ってしまう。そうすると、力むことで体が強張って、パンチの衝撃をモロに食らうことになる。

 でも、どうせダメージはないんだから、力を入れる必要なんてない。力を抜いてゆったり構え、片足を一歩後ろに下げておく。力を抜いておけば、風に揺られる柳と同じ。体が、自然に受け流してくれる。

 しこたま殴ったはずの僕が平然と立ってることを不思議がりながらも、比較的満足そうに男性は去って行った。

 すぐさま、

「次は俺だ!」

 と声が上がって、新たな挑戦者が前に出てくる。

 その後ろに短いながらも行列ができていて、どうやらお客さんの心をつかむことができたらしい。



「ありがとうございました~~!」

 降霊さんが、元気のいい声で送る。だけど、『殴られ屋』の活気は、それとは対照的だ。

 あれだけ盛り上がった『殴られ屋』は尻すぼみになり、順番待ちの客は、いまの人で最後だ。それを見ていたわずかばかりの観客も、終わりと同時に去って行った。

 まあなんだかんだ言っても、僕がひたすら殴られてるって画が続くだけだし。並んでた人のなかにも、他の人が殴ってるのを見て満足しちゃったって人もいたからなあ。

 後に残ったのは、最初と同じ。降霊さんと僕の二人だけ。

「まいったなあ……」

 売上は一万円弱。日給としては悪くないけど、一時間も経たないうちに客足が途絶えてしまうんじゃ、ちょっとなあ……。

「ん~、とりあえずお客さんも途切れちゃったし、お昼ご飯にしよっか」

 と、降霊さん。

 そうするしかないか。予定よりちょっと、いや、だいぶ早めの昼食になるけど。

 公園のベンチに並んで、弁当を広げる。降霊さんお手製の弁当は彩りもよく、おかずの種類も豊富だ。

 料理ができそうなイメージはまるでなかったから、意外に思う。

申し訳ないけど、ホントに自分で作ったのか? って疑念が、ヒョコッと顔を出す。この人の場合、すべてがチンするだけの冷凍食品でも、手作りだって言い張りそうだし。

 その疑いは、顔にも出てたんだろう。降霊さんが僕を見て、ケラケラと笑う。

「前の仕事は、自炊できないと話にならなかったから。さ、遠慮せず食べて」

「じゃあ、頂きます」

 と、だし巻き卵を口に運んだものの、やっぱり味はしない。

 味覚を失った味気ない食事のたびに、自分の境遇をまざまざと思い知らされる。死にきれない死人だ、ってことを。

 思わず、顔がゆがむ。

「大丈夫?」

 降霊さんが心配そうに、僕の顔をのぞきこむ。

「あ、大丈夫です。すみません、せっかく作ってきてもらったのに」

「ううん、いいのよ。味覚がないんだもの、しょうがないわ」

「僕に気にせず、降霊さんも食べてください」

 言って、降霊さんのヒザに置かれた弁当に目を落とし、僕は驚いた。

「降霊さん、そのお弁当……中身、忘れたわけじゃないですよね?」

 彼女の弁当箱は、すでに空っぽだ。

「そんなわけないじゃない、もう食べ終わっただけよ」

 と笑い飛ばす。

 早! 僕がだし巻き卵を一つ食べる間に、完食し終えたの!?

「前の仕事は、食べるのも早くないと勤まらなかったのよ」

 と言うけれど。

それにしたって早過ぎるでしょ、まるで手品だ。 

 この『瞬間食い』を見せたほうが、よっぽどお客さんが集まるんじゃないのか? ダイソン掃除機のプライドを、粉々にしそうなくらいの吸引力だ。

 と、降霊さんの妙技に驚いている僕のところへ、一人の男性が近づいてきた。五、六十代の中年ってとこだろうか。身長は低めだけど、歳のわりにはガッシリとした体つきだ。

「ちょっと失礼。君はさっき、『殴られ屋』をやっていた子だよね?」

「はい、そうですけど。もしかしてお客さんですか? だとしたらご飯休憩中なんで、もうちょっと待ってもらいたいんですけど……」

「いやいや、違う違う。そうじゃなくて。実は、こういう者でね」

 差し出された名刺には、『図多墓露ずたぼろボクシングジム会長  図多ずた 墓苦露ぼくろ』と書かれている。

「ボクシングジム?」

「そう。さっき君の様子を見ていたけれど、ずいぶんと殴られた割にはほとんどダメージがないみたいだね。顔も、まったく腫れてないだろう?」

「ああ、まあそうですね。生まれつき打たれ強いんですよ、僕」

 よく見てるなあと動揺しつつも、適当にごまかす。

 「幽霊なんで」って言ったって信じてもらえないだろうし、信じられても、それはそれで困る。

「なるほど、生まれつきか。紛れもない、それは才能だよ。

どうだろう、ぜひ我がジムに来てくれないか?」

「ええぇ!?」

 ケンカもしたことのない僕が、ボクシング!? どう考えたって無理でしょ!

 それに、僕は生活費を稼がなきゃならない。たしかにプロボクサーとして成功すれば、それなりの金持ちになれるだろうけど、そうなるまでにいったい、何年かかるんだ?

 日々、生活していくのに必要だからこその生活費だ。生活費を一回稼ぐのに年単位でかかってたら、それはもう生活できてない。

 生活費を稼ぐために生活できなくなるって、本末転倒の極みだからね。

「それほど多い額ではないけれど、強化費としていくらかは払うよ。

 それに、君ならすぐにでもプロになれる。打たれ強ければ試合を組むペースも早くできるし、ボクシングで食べていけるのも、きっとすぐさ」

 暴力ごとは嫌いだけど、ボクシングはスポーツだし。それに、実際には打たれ強いどころかダメージがないんだから、ホントにプロも夢じゃないのかもしれない。

 プロになったら、いったいいくら貰えるんだろう? なにより、『プロ』って響きがいいなあ、物事を極めた人って感じで。

これまでの人生で、なにかを極められるような才能はなかったし、極めたいと思えるものもなかった。でもいまは少なくとも、「もしかしたら」って可能性だけはある。

 無謀かもしれないけど、それだけでずいぶんと、心臓が高まる。無いけれど。

「じゃあ、お世話になります」

 会長の熱烈な勧誘という後押しもあって、僕は図多墓露ボクシングジムでお世話になることにした。





「さすがだ! やはり君の打たれ強さは素晴らしいね!」

 デビューしたてとはいえ、プロボクサー三人を相手にスパーリングをしてまるでダメージのない僕を、会長が褒める。

 プロボクサーってことでどれほどかと警戒してたけど、一度もダウンすることなく終えられた。たしかにスピードも威力もすごいけど、受け切れないってことはない。

 むしろ、素人の闇雲パンチと違って無駄がない分、パンチの軌道が読みやすかった。

 もちろん、軌道が分かったところで避けられるようなスピードじゃない。普通ならその威力で、あっという間にダウンさせられてしまうだろう。

 だけど、ダメージのない僕なら平気だ。どう殴られるかを見極めて、倒れないように対処すればいいだけだ。

 ただ倒れないようにするだけなら、パンチの軌道が綺麗な、プロ相手のほうがやりやすい。

「会長、次は俺とヤラせてくれ」

 奥で静かに見ていた、一人の男性が歩み出てきた。これまでのボクサーたちと明らかに違うことは、素人の僕でもはっきりと分かる。

 そこに立っている、ただそれだけで彼の強さに圧倒される。なんとなく強そうだなって人はいくらでもいるけど、明らかに『強い』と畏怖させられる人に出会ったのは、初めてだ。

「ちょっと待て、桐生。いくらなんでもお前とのスパーリングは早いだろう。お前は世界ランカーだぞ」

 世界ランカー!? 

どうりで、この佇まいなわけだ。むしろそれくらい強いほうが、納得できる。

それほどまでに、桐生と呼ばれた人が醸しだすオーラは別格だ。

「俺だってこいつらのパンチを喰らえば、多少なりともダメージはありますよ。それが彼にはまったく感じられない。会長が言うとおり、逸材でしょう。

だからこそ、俺とヤラせてください」

「う~~ん。……どうする?」

 会長が、僕に尋ねる。

「ぜひ、ヤラせてください」

 どうせダメージはないんだ、世界レベルのパンチがどんなものか、体験してみたい。

「そうか、分かった」

 心配しつつも、会長はスパーリングを認めてくれた。



 ゴングが鳴り、互いに近づく。

 すぐさま、相手のジャブが僕の腕を叩いた。いままでのジャブとはまったく違う、重い、ムチのような一撃。

 ジャブでこれまでの相手のストレートくらい、威力があるんじゃないか!?

 その衝撃に思わず体勢を崩し、後ずさる。

 と、相手が突如、姿勢を低くした。

 なんだろう? と思った次の瞬間、アゴにとてつもない衝撃が走った。その威力に空中へと弾き飛ばされながら、僕は純粋に、「すごい!」と感嘆した。

 スピード、威力、これまでのどんなパンチとも比べものにならない。残像すらも、まるで見えなかった。どれだけ喰らったところで、このパンチを受け流せるようになるとは思えない。

 さすが一流、やっぱり別格だ!

 そのまま、リングに倒れる。

 相手選手が、ニヤリと笑った。会心の一撃だったんだろう。

 そりゃそうだ。あれで会心の一撃じゃなかったら、もはやなにが会心なのか、想像もつかない。

「大丈夫か!?」

 会長が、慌てて走り寄ってくる。

「あ、はい」

 そう返事をして、僕は上半身を起こした。

 途端、周りの人が固まる。

「え、大丈夫なの? だっていま、思い切りアゴに入っただろう?」

「あ、はい。でも、大丈夫です」

 平然と話す僕に、会長は驚きを隠せない。相手選手は、口をあんぐりと開けたまま、固まってる。

「すごい! やはりすごい逸材だぞ、君は! これは世界チャンピオンをも狙えるぞ!!」

 興奮した会長が、やたらとスゴイスゴイを繰り返す。

 その後ろで、相手選手がフラリフラリとリングを下りて行く。

「バカな……。そんなバカな…………」

 渾身のパンチを喰らわせた僕が平然と起き上がってきて、よほどショックだったんだろう。まるで夢遊病者のようにフラフラしながら、ブツブツ呟いてる。

 なんだか、申し訳ないことしちゃったなあ。

 僕はむしろ、彼のすごいパンチに感動してるくらいなのに。

「やはり君の打たれ強さはとんでもないと分かったな。試合では、その打たれ強さを活かす作戦で行こう!」

 どれだけダメージがなかろうと、ダウンしたりパンチを多くもらったりすれば、それだけで判定においてはマイナスになるらしい。打たれ強さを武器に防御を固めても、基礎ができてない僕じゃ、マイナス評価を増やすだけだ。

そこでひとまず防御は無視して、とにかくKOを狙っていくって作戦だ。

「とりあえず、君の打たれ強さなら打ち合って負けることは無いだろう。とにかく攻撃攻撃、が我々のボクシングスタイルだ。

 そうと決まれば早速、打撃練習をしよう」

 言って、会長がミットを構える。

 僕はそのミット目がけて、全力の右ストレートを繰り出した。

 ポフっ。

 可愛らしい音が、ミットから立ちのぼる。

 大げさでもなんでもなく、ホントにそんな音がしたんだ。

「も、もう一回、打ってみようか」

 会長は、明らかに困惑してる。そりゃそうだ、ミットがピクリとも揺れてないんだから。

産まれて一秒の赤子だって、ミットを揺らすくらいはできる。現状、僕は赤子にすら劣るのだ。

 もう一度、力いっぱいミットを叩く。

 ポフっ。

「ま、まあ、これから練習を積めば、鋭いパンチが打てるようになるさ。その打たれ強さがあれば、きっと大丈夫だ。うん、大丈夫……なはずだ。うん」

 まるで自分に言い聞かせるかのように、会長が「大丈夫」を繰り返す。

 根本的に筋力が足りてないってのが、会長の判断だ。だからまずは、とにかく筋トレ。それにプラスして、全身でパンチを打つための体の使い方を学ぶ。練習の柱になるのは、この二つだ。

 練習をするにも体力がものを言うから、それほど運動経験のない僕には不安だったけど、練習のなかで新たな発見があった。

 僕は、バテることがない。

 よくよく考えてみれば、当然の話だ。幽霊が呼吸をするわけが無いんだから、酸素不足で息切れなんてしない。体はすでに死んでるんだから、筋肉疲労もない。

 疲れ知らずの体、これはホントにありがたい。おかげでいくらでも練習ができるし、日常生活でもすごく便利だ。

 会長も、僕のタフさを大いに喜んでくれた。

「この打たれ強さとタフさがあれば、絶対に大丈夫だ!」

 そんな感じで、みっちりと練習を積むこと、一週間。

「よし。ひとまず、現時点での練習の成果を見てみよう」

 再び、会長がミットを構える。

 これだけ練習を積んだんだ。僕も、練習の成果を出したい。

 放つ、渾身のストレートおぉ!!

 ポフっ。

 そこでやっと、僕は気づいた。そもそも僕は幽霊だ。幽霊がどんなに鍛えたところで、すでに死んでるのに筋肉がつくわけない。

 僕の筋力は死んだ時のまま、永遠に上がることはないんだ。

 ちなみに、死んだ時の僕の筋力は、ほとんどない。

湯のみを持ち上げようとして手首を骨折した人間が、この世にいるだろうか?

いる、僕だ。

 呆然としてた会長が、力なさ気に言った。

「ごめん、もう帰っていいよ……」

 こうして、プロボクサーになって一山あてるという、僕の夢は潰えた。





「ただいまっと」

 誰に呟くともなく、そう言って玄関の鍵を開けた。

「あ、おかえり~」

 奥からなぜか、降霊さんが出てくる。

「え、ちょっと、なんでいるんですか!? どうやって入ったんです!?」

「あそこ」

 と、降霊さんが指をさす。最初に彼女が入ってきた窓だ。修理するようなお金もないから、割られたままになってる。

 だからって、悪びれもせず窓から入ってきたと言い放っちゃうってどうなのよ? 入れるから入っていいなら、この世に泥棒はいませんから! だいたい、窓を割ったのはあなたでしょ!!

 と、心内しんない抗議をしてた僕は、部屋の中に料理道具一式が置かれてるのに気づいた。

 もしかして、降霊さんが持ってきたのか? ってことは、これを持って窓から入ってきたの?

 僕の部屋はアパートの二階だぞ、どんな腕力だよ!

「そんなことより、ご飯できてるよ。一緒に食べよ?」

 いまだ家にいることに対して納得のいく答えを聞いてないけど、無許可の窓から侵入を「そんなこと」で済ませちゃう降霊さんの強引さに押され、勧められるまま食卓へ。

 さすがに僕の死体が吊り下がってるちゃぶ台は嫌なんだろう、その脇に置かれたテーブルに、食事が用意されていた。

 ん、テーブル? もしかして、これも持ってきたの?

 料理道具にテーブル担いで二階にピョンって、ハイパワーにもほどがあるだろ! シルベスター・スタローンだってちょっと引くんじゃないのか!?

 なんて一人問答をしてる間に、降霊さんがご飯をよそったお茶碗を並べ終え、僕の前に座った。

 手をあわせて「いただきます」をしてから、お箸を持つ。

 ポテトサラダに、ミニハンバーグとオムライス。どれから食べようかと迷い箸をしていると、降霊さんからハンバーグを勧められた。

「ちょっと工夫してみたの。味がわからないなら、食感で変化をつけてみるのはどうかなって」

 降霊さん曰く、生地の中にゴボウが練りこんであるらしい。柔らかい中にもコリコリとした歯ごたえがあって、ただ噛むだけだった単純作業に、変化をもたらしてくれる。

 うん。たしかにこれだと、味気なさがだいぶ和らぐ。

 それにしても、降霊さんってホントに料理上手なんだな。考えられた一工夫に、あらためてそう思う。

 あ、誤解のないように。これは感心じゃなく、安堵だ。

 前回の弁当も含め、これで少なくとも、ゲテモノ料理で毒殺される危険性はなくなったと考えていいだろう。

すでに死んでるから、もともと無いんだけど。

 失礼じゃないかって? いやいや。これまでのガサツさと図々しさを考えれば、丁寧さと計画性がものをいう料理が上手だなんて、とても思えない。当然の心配だ。

「この方が、すごく食べやすいです」

「ホント? よかったぁ」

 降霊さんが、ホっとした笑みを浮かべる。

 その表情がカワイらしくて思わずドキリとした僕は、慌ててオムライスに目を落とした。

 イカンイカン、この人はガサツの国の女王様だぞ。初対面でなんの躊躇もなく、僕を除霊しようとしてきたし。今日だってそもそも不法侵入だからね、コレ。

 でも、意外と家庭的なんだよなあ。味は分からないけど、彩りも綺麗だし、僕が食べやすいように工夫もしてくれてるし。

 それに見た目もオシャレで、なんだかんだ言っても、美人は美人だし。

 そう思いながら、チラリと降霊さんを見る。

 と、偶然にもバチっと目と目が合い、降霊さんが、「ん?」と尋ねるような表情をする。それがまた、カワイらしい。

「なに? どうしたの?」

「いや、別になんでもないです」

「え~。でもなんか、ちょっといつもと違うよね? ジっとこっち見てたし」

「べ、別に、見てないですよ!」

「ん~、慌てて否定するところが怪しいなぁ~。もしかして、お姉さんに惚れちゃった?」

「な、なに言ってんですか!」

 クスクスと、いたずらっ子のように降霊さんが笑う。

「別に、そんなんじゃないですからね」

「分かった、分かったって」

 なんて話をしながら、食事の時間は過ぎていった。

 だけど、失くした当初はこの世の終わりを感じたほどの味覚喪失も、日常となれば案外、慣れるもんだなあ。もちろん、まだ苦痛には変わりないんだけど、こうやって楽しく食事を過ごせるくらいにはなったんだから。

 でもそれも、降霊さんと一緒の食事だからかな?

 洗い物をしてる降霊さんの後ろ姿を見ながら、そんなことを考える。

 正直、今日の食事は楽しかった。生きてた頃の僕でも、こんな楽しい食事は数えるほどしかない。

 だとすれば、今日は素直に、降霊さんにお礼を言わなきゃだな。

 そりゃあ、図々しいなって思う時もあるけど――というか、ほとんどがそうだけど――この人と出会えて良かったことも、まあ、確かにある。

 ほんのチョビっとだけどね。

「あの、降霊さん――」

「あ、そういえば、ジムの方はどうなったの? 通い始めてから、もう一週間になるよね?」

 僕の言葉を押し消して、降霊さんが尋ねる。

「ああ。それだったら、今日、クビになりました」

「え、クビ!? どうして? だって、あの会長って人がどうしても来てほしいって、熱心に誘ってきたのが始まりでしょ?」

「そうなんですけど、まあ、あまりにパンチ力がなくて……」

「え~~、でも、それって練習でなんとかならないの?」

「いや、おそらくですけど、幽霊に筋力はつかないと思うんですよね」

「あ~~~」

 心底、納得したというように、降霊さんは頷いた。

 運動は苦手、喧嘩もしたことがない。世の中の一般男性よりも、はるかに腕力が弱い自信がある。いくらダメージを喰らわなくなったからって、僕が格闘技をやるってのは、やっぱり無茶だったよなあ。

「だったら新しい仕事、紹介するわよ」

「え、いいんですか?」

「うん。他にもまだ、あなたに向いてそうな仕事がいくつかあるし」

「すみません。じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「分かったわ。たぶん、すぐに働けると思うから」

 ってことで、僕の次の仕事があっけなく決まった。

 あっと言う間のクビから、あっと言う間の再就職。

正直、スカウトされたっていっても試合をする前だったから、もらえたお金はお小遣いに毛が生えた程度。なので、これは非常に助かる。

 それにしても、ホントに降霊さんさまさまだなあ。

「あの、降霊さんは、どうして僕にいろいろと親切にしてくれるんですか?」

「ん? きっかけは、間違って除霊しようとしちゃったから、かな」

 そう言って、降霊さんがエヘヘと頭をかく。

「でもいまは、せっかく知り合えたんだし、大変な状況だって知っちゃったから、少しでも力になれたらなって」

 ありがたい。

 それにしても、降霊さんの印象って最初のムチャクチャなのからだいぶ変わったなあ。意外と頼りになるし、家庭的で優しいし。

 いや、変わったっていうより、知らなかった部分が見えてきたってことかな?

 なんて思ってたら、洗い物を終えた降霊さんが、デジカメ片手にこっちへやって来た。

「はい、写真、撮りま~す」

 突然の宣言。

 テーブルの上にデジカメを置き、セルフタイマーをセットする。ノリノリな降霊さんが僕の隣に来て、ピースのポーズをとる。僕もほんのちょっとだけ、ピースしてみる。

 カシャ!

 シャッター音が、撮影の終わりを告げた。

 デジカメを取りに行った降霊さんが写真を確認して、「あれ?」と首を傾げる。

「君が写ってないなぁ」

 「ほら」と、降霊さんが写真を見せてくれた。そこには、一人でピースする降霊さんの姿。たしかに、隣にいるはずの僕が写ってない。

「う~ん、これ、もしかしたら君が幽霊ってことが関係してるのかも」

 今度は、降霊さんが直接デジカメを持ち、自撮りの要領でツーショットを撮る。

 手持ちで撮影範囲が狭いから、さっきよりもずっと降霊さんが僕に近づく。降霊さんの顔がすぐ側に来て、思わずドキリとした。

 カシャ!

 今度は無事に、僕も写ったツーショット写真が撮れた。

「オッケー、いい写真が撮れたね」

 そう言うと、すぐさま降霊さんがテーブルを背負った。両手には、料理道具一式の入った袋を下げている。いったい、いつの間に片づけ終えたんだ?

「じゃあもう遅いし、私、帰るね。バイバ~イ」

 言って、窓から外に飛び出していった。

 いきなりの写真から、いきなりの帰宅。その突然さに、心が置いてけぼりをくらって、見送る言葉もかけられなかった。

 ってか、あのテーブルは、やっぱり降霊さんが持ってきたものだったのか。

それにしても、あれだけの荷物を背負って二階の窓から飛び出すってどうなのよ!? もし外に人がいたら、大荷物を背負って二階から飛び出す女に、腰を抜かすのは間違いないだろう。

 そもそも、当たり前のように窓から出入りするのはなんなんだ? 玄関の存在、知ってますよね!?

 それなのに、頑なに玄関を使わない。 何なの、『玄関を使うと死ぬ病』にでもかかってるの? 泥棒だって、出てく時は玄関使うぞ。

 去りゆく背中を見送りながら、僕の心でツッコミが油田のようにあふれ出す。

 そして、思った。

 やっぱりあの人は、最初のイメージからなんにも変わってない。もちろん、悪い意味で。

 




 風が吹きすさぶ、高いビルの上。おそらくは夏でも肌寒いんだろうけど、僕は感じない。

 どうやらそれも、監督にとってウケが良かったらしい。またもや褒められた。

「よ~し。じゃあ屋上の端に、ビルの外を向いて立ってくれる? 仁王立ちで、身じろぎしないようにね」

 言われたとおり、カメラに背を向けて立つ。油断すると風に押されて落ちそうになるのを、なんとか踏ん張る。

 眼下には、はるか遠くに地面が見え、点のような人々が行き交う。すでに死んでるからこれ以上死なないといっても、さすがにこの高さだと足がすくむ。

 頭の言うことを、心はなかなか聞いてくれないものだ。

「よーい、スタート!」の合図でカメラが回り、「カット!」の声とともに終わった。

 いま撮っているのは、とある映画のワンシーンだ。僕の役目はスタントマン。つまり、危険なシーンを役者の人に変わってこなす役。顔が映っちゃいけないから、当然、後ろ姿ばかりになる。

 痛みもダメージもない僕にとってみれば、危険なスタントもなんてことはない。

 とはいえ、生まれた時点で運動神経がご臨終あそばされてる僕が、アクションシーンを上手になんてできるわけがない。案の定、失敗しまくってる。

 最初は、アクションのNGを連発する僕に監督も嫌な顔をしてたけど、いくらスタントを繰り返しても怪我なくケロっとしてる僕を、いつしか気に入ってくれた。

 いくらでもスタントをこなせるから、いろんなパターンを試すことができる。それも、監督にとって良かったんだろう。

 降霊さんがどうしてこういう職種のコネをもってたのかは知らないけど、結果的に、天職ともいえる職業につけたんじゃないかな。



 もちろん、幽霊がカメラに写らないって件は対策済みだ。

 機器に五感はないから、ほんの少しでも精魂がかけたものは捉えられないらしい。それを補うためのお札を、降霊さんが作ってきてくれた。

 残念なのは、そのお札がごちゃごちゃとデコり倒してある最悪なデザインってことだ。男が持つのに似合わないどころか、女性だってゴリゴリのギャルでもなきゃ、ここまでデコり倒してるものは持たないんじゃないかってくらい、デコりまくってある。

普段の格好はオシャレな降霊さんが、お札になるとこうもセンスが悪くなるのはなぜなのか。

 まあ幸いにも、ギャルデコり札を貼ってることは、現場の誰にもバレてない。撮影だから外から見える場所には貼れず、お腹に貼ってるからね。



 昼休憩が終わって、午後の撮影。午前中と違って、風はほとんど治まってる。

 それもあってか、さっきの場所で、新たにアクションシーンが追加された。屋上の端での格闘シーンだ。

 動きの確認をしつつ、リハーサルを行う。

 しかしこれ、風が止んでて良かったな。朝の状態だったら、かなり危なかった。風にあおられて立つのがやっとって状況も、かなりあったから。

 何度か動きを確認し、一度、通しでやってみることになった。

 屋上の端で向かい合い、構える。フックを避けて脇腹に一発。前かがみの顔面にヒザ。最後に、腹部への後ろ回し蹴り。

 とそこで、突風が吹いた。

 思わずバランスを崩し、よろめく。なんとか踏ん張ろうとしたけど、片足では無理だった。

「うわぁっ!」

 そのまま、足を踏み外した。背後から一瞬、悲鳴が聞こえた気がする。だけどそれも、あっという間にかき消えた。

 どんどん体が落下していく。ただ、思ってたよりも、落下時間は長く感じる。

 意外に余裕があるのかな、なんて思ってた僕の考えは、遠くでぼやけてた地面がハッキリと見える距離になってから、大きく様変わりした。

 とんでもない勢いで、一気に地面が近づいてくる。なにをどうしても避けようのない地面という名の壁が、有無をいわさず詰め寄ってくる。

 あまりの恐怖に、思わず目をつむった。

 そのまま地面に叩きつけられ、ドスン! と大きな音をたてた。

 ゆっくりと目を開き、おっかなびっくり辺りを窺う。衝撃はスゴかったけど、痛みはないし、体の損傷もない。いやあもう、幽霊さまさまだ。

 なんとか体を起こすと、安堵のため息をつき、そのまま地べたに座り込んだ。飛び降り自殺を選ばなくてよかったと、心の底から思った。あまりに怖すぎる。

 と突然、「きゃあ!」という女性の悲鳴が響いた。

 驚いてその女性を見、はたと気づいた。女性が、僕のビルからダイブを見ただろうことに。

 だとしたら、ホラー以外のなにものでもない。三十階以上の高層ビルから落ちた人間が、無傷で起き上がるんだから。

 おそらく、突然のダイブに驚いて声も出せずにいたら、僕が何事もなく起き上がってきて、二重に驚いたってとこだろう。

 しかし、参った。こっちとしては、それを目撃されちゃ困る。好奇の目にさらされ、下手をすれば秘密組織に捕まって人体実験、なんてことも起こりうる。

生き物ならぬ死に物。こんな珍しい存在がいたら、僕だって放っておかない。 

 僕は、この世から逃れたくて首を吊ったんだ。このままじゃ、この世どころか組織からも逃れられなくなる。

 戸惑う僕の耳に、遠くから近づいてくるサイレンの音が届いた。

 よく知ってる音……これは、救急車だ!

 ますます、マズい。病院で調べられたりしたら、僕の体の異常性なんてあっという間にバレる。そのまま、人体実験の材料にされかねない。

 どうする!? どうする!?!?

「早く地面に倒れて!」

 突如、緊迫と性急をともなった声が耳打ちされた。

「え?」

 思わず声の方を向こうとして、いきなり地面に押し倒される。

「降霊さん!?」

「シっ。早く死んだフリして」

 僕を押さえつけたまま、降霊さんがささやく。

「医療関係者に見つかったら、死んでるのに動けるってバレちゃうわ」

「でも、詳しく検査されたらおかしいってバレるでしょ? だったら、いまのうちに逃げたほうが……」

「落ちたところをいろんな人に見られてるし、いまから逃げても間に合わないわ。大丈夫、私が隙を見て逃してあげ――」

 言い終わらないうちに、僕たちの会話をかき消すけたたましいサイレン音を響かせて、救急車が到着した。

 心臓が停まっているどころか、無いんだ。どうやったって、いまの僕は死んでると判断されるに決まってる。

 それならばと僕は、状況を把握しやすいよう、あえて目を見開いたままにしておいた。死んでるから目が乾くこともないし、呼吸しないから胸が上下することもない。

いまの僕は、日本一の死体役だろう。

「あなた! あなたー!」

 僕の胸に顔をうずめ、降霊さんがウソ泣きを始める。

 それはいいけど、『あなた』ってなんだ?

「大丈夫ですか!?」

 二人の救急隊員が駆け寄る。高層ビルから落ちたんだ、どう考えたって大丈夫なわけはないけど、いちおう聞かなきゃいけないんだろう。大変な仕事だ。

「主人がビルから落ちて……うぅっ」

 この短いあいだに結婚しちゃいましたよ、僕。ってか演技ウマいな、降霊さん。

「奥さんですか? すみませんが、少し離れていてください」

 いまやすっかり奥さんの座を手に入れた降霊さんが、しずしずと離れる。

 代わりに、隊員が僕の側にかがむ。

「あれ? ビルからの転落なのにこの人、無傷じゃないですか?」

「本当だ、どういうことだ?」

「あ……。それは、あの、あそこの並木あるじゃないですか? あの上に落ちてここまで転がってきたので、それでかと……」

 何とかごまかそうと、降霊さんがフォローを入れる。

「それにしても……」

「あ、あの! とりあえず、主人の状態を早く見てもらえませんか!?」

「あ、失礼しました!」

 降霊さんが、必死さをよそおって隊員を急かす。かなりの力技だけど、訝しがるのをどうにかごまかせたようだ。

 隊員の一人が、僕の脈をとる。慌てて胸に耳を当て、手を口にかざす。

「脈拍なし。心肺・呼吸、共に停止!」

 そりゃそうだ。だけど、心配しなくていい。停まったのは、いまに始まったことじゃないから。そもそも、心臓自体が無いしね。

「AEDを用意します!」

 言って、隊員が持っていた赤い箱を開け、なにやら準備し始めた。

 その間にもう片方の隊員が、心肺蘇生を始める。 

「気道確保! 一、二、三、四……!」

 リズムに合わせて、胸が押される。そして次に口をふさがれ、息を送りこまれた。

 うえぇ~~!! どこの誰かも分かんないオッサンとキスしちゃったよ、最悪! 意識がある状態での人工呼吸が、これほどの拷問とは……。

 と僕が心の中で悶え苦しんでる間に、AEDなるものの準備が整ったらしい。

 隊員の手には、巨大化した低周波治療器のようなパッドが二つ。そのパッドを僕の体に貼りつけ、スイッチを入れた。ドン! という音とともに、パッドから電流が送られているようだ。僕自身は、なにも感じないけど。

 隊員があらためて僕の状態を確認し、再び心肺蘇生をくり返す。

 結局、オッサンとのキスは五回にも及んだ。

 懸命に生き返らそうとしてくれてるのに申し訳ないけど、気持ち悪すぎて吐き気をもよおしてきちゃったよ。

 吐き気を必死に耐えてるところへ、六回目のキス――ならぬ、人工呼吸がきた。と、口の中にニュルンとしたものが入ってくる。

 うぇっ、このオッサン、舌いれてきやがった!!

 反射的に、オッサンを突き飛ばす。「ギャっ!」と叫んで、オッサンが後ろに倒れた。

「う、動いた!?」

 別の隊員が、驚いて腰をぬかす。

 その様子で我にかえり、しまったと思ったけど、もう遅かった。殴られた隊員も、呆然と僕を見てる。

 こんな非常時でも、雑念ってのはあるんだな。僕はその表情を見て、思いっきりイラっときた。

 お前のせいでこうなってるんだろ!

 とその時、けたたましい叫び声が上がった。

「キャーーーー!!!」

 降霊さんだ。

 何事かと隊員たちが後ろを振り向く。僕から目を離したその隙に、急いでビルの陰に隠れた。

「ど、どうしたんですか?」

 驚きの衰えないまま、隊員がおっかなびっくり降霊さんに尋ねる。

「いえ、ちょっと、天空に向けて叫んでみたくなって。……ああっ! 主人が、主人がいない!!」

 大げさな表情と仕草で、降霊さんが、さっきまで僕が倒れていたところを指さす。

「ああ!?」

 隊員たちの驚きが、天空への叫びからこつぜんと消えた僕へと移り、さっき僕が動いた不思議を思い出したようだ。

「ど、どういうことだ!?」

「いったい、なにが起こってるんです!?」

 とベロチュー隊員が降霊さんを振り返った時には、すでに彼女の姿はそこになかった。二人がパニックになっている内に、ソっとビル陰に隠れたのだ。

 降霊さんに小声で手招きされ、二人ですぐにその場から離れる。

「ちょっと、どうして動いちゃったのよ? あなたの正体がバレちゃうとこだったのよ!?」

「いや、だってあのオッサン、舌いれてきたんですよ!?」

 言って、ペっペっとツバを吐き出す。いますぐ口をゆすぎたい!

「そうなの!? とんでもない人もいるのね……」

「まったくですよ! もう助からないからかまやしないと思ったのか知らないけど」

 そう言いながら、相変わらずペっペっとツバを吐き続ける。口ごと取り替えるサービスがあれば、即、利用してるところだ。

「そんなに嫌だったの?」

「そりゃあ嫌に決まってるでしょ! だいたい、こっちはファーストキスですよ!? それをなんでオッサンなんかと……」

「へ~~。じゃあ、カワイイ女の子なら、よかったんだ?」

「な、なに言ってんですか! オッサンがどうとかじゃなく、そもそも見ず知らずの人とするっていうのが――」

 と僕が、あれやこれやなんとかかんとか言い訳をしてると、頬に暖かな、柔らかい感触。

 降霊さんが僕の頬に、チュっとキスをしたのだ。

「え!? あの、降霊さん!?」

「私じゃ、カワイイ女の子の代わりにはならないかもしれないけど――」

「い、いや、そんなことは……」

「どう? 少しは嫌な気分、治った?」

「いや、あの、僕がキスされたのは口なので、その……」

「え~~、それって、口にしてほしいってこと?」

 いたずらっぽく小首をかしげる降霊さんが、とても色っぽい。

「い、いや! そんなつもりで言ったわけじゃ……!」

 思わず、ドギマギしてしまう。

 降霊さんは自分の唇に人差し指を当てると、次に僕の唇にも当てた。

「ゴメンね、今日はこれでおあずけ。だって、するならもっとちゃんとした理由でしたいじゃない?」

 言って、ニコリと笑う。その笑顔に、ドクンと心臓が跳ね上がる。無いけれど。

 僕は真っ赤な顔で、

「は、はい……」

 と答えるのが精一杯だ。

 それにしても、「”今日は“おあずけ」って。今日じゃない日に、おあずけじゃない時が来るってこと?

 ――考えるだけで、ドギマギしてしまう。

「あ、そういえば!」

 なにかを思い出して、降霊さんが僕を見る。

「これでまた、仕事なくなっちゃったね」

「そうなんですよね……。すみません、せっかく紹介してもらったのに」

 普通に考えれば、間違いなく即死だ。即死の人間が、「すみません、落ちましたあ~」なんて無傷で戻ったら、撮影現場は阿鼻叫喚になる。

 僕が落ちたことですでに大騒ぎだろう撮影現場は、その死体が無くなったことでさらに大騒ぎになるだろうけど、正体がバレるわけにはいかない。

 これだけの騒ぎを起こして何も言わずに立ち去るのは申し訳ないけど、僕だって、生活がかかってる。いや、死活しかつがかかってる。

「ううん、いいのいいの。他にもまだ紹介できそうな仕事があるから、帰ったらその話しようね」

「はい、ありがとうございます」

 こうしてなんとか、正体がバレずに済んだ。騒ぎになったうえに、またもや職を失うことになってしまったんだけど。





 翌日、地方紙の隅に僕の事件が載っていた。

 ただ、その内容は事実と違って、『転落事故と偽った悪質なイタズラ』となっている。

 記事の内容を見ると、どうやらあの時の救急隊員たちは、僕がなんらかの細工をして心肺停止をよそおってたと考えてるらしい。心肺停止で動くはずはないから細工だろう、と思いこむことで、彼らは納得しようとしたんだろう。

 まあ、そう思ってくれた方が、こっちとしてもありがたい。

 それよりも納得がいかないのは、記事のどこを見ても、ベロチューしてきた隊員について書かれてないことだ。僕とあの隊員以外に知りようがないんだから当然といえば当然なんだけど、どうにも納得がいかない。

 いや、別にベロチューされたことを公に知られたいわけじゃないよ。むしろ、知られたくない。

 でも、あんな奴が救急隊員なんて、許せないんだよなあ。

もしかしたら今この時も、どこかで僕と同じようにベロチューされてる奴がいるかもしれないと思うと――うわあ、気持ち悪い! 変な想像しちゃったじゃないか、まったく!!

 とりあえず、これ以上あの時の嫌な感覚を思い出さないためにも、ベロチューについて考えるのはよそうと、紙面を閉じた。

 


 ちなみにその後、僕の事件は地方紙以外でも取り上げられることになる。実際に落下して目撃者もいたため、ネットを中心に記事の信憑性を疑う発言が上がったからだ。

 まあ取り立てて大きく扱われるような事件でもなかったから、それは小さな規模でしかなかったけど。後日、それが元で、ゴシップ誌に事件の記事が載った。

 そのタイトルはズバリ、『白昼の悪夢! 市街地に現れたゾンビ!!』だ。

 落下を目撃したって女性の証言を載せてて、そこから、「高層ビルから落ちても死なずに起き上がれるのはゾンビに違いない!」と結論づけている。

 惜しい、幽霊だ。

 と、数ある証言の中で、気になるものを見つけた。『関係者S氏』なる人物の証言だ。

「ビルから落下した時は確実に死んだと思った。生きていたと聞いて、信じられない思いだ。

そういえばやたらと頑丈なところがあって、どんなにスタントをこなしても痛がりもしなかった。

 ただ、見た目は普通の人間と変わらなかった。ゾンビだとしたら、腐っていない綺麗なゾンビだと思う」

 これは確実に、スタント会社で僕の担当だった冴崎さえざきさんだろう。迷惑をかけちゃったなあ、と申し訳なく思う。

 それはそうとして、このバカっぽいコメントはなんだ? 腐ってない綺麗なゾンビって、腐ってなけりゃ、そもそもゾンビじゃないだろうに。

どっか調子でも悪かったのかな、冴崎さん?

 まあ、多少の間違いはあるものの、こっちのほうが地方紙よりも真実に近い。

 日頃はうさん臭い記事ばかりだけど、うさん臭いからこそ、現実離れした真実を突き止められることがあるのかもしれない。

 一つ納得がいかないのは、こっちの記事にもベロチュー隊員について書かれてないことだ。さすがのゴシップ誌も、そこまでは突き止められなかったらしい。

 これじゃああのベロチューが、野放しになっちゃうじゃないか!

 『ベロチューが野放し』って、変態感まる出しだぞ。これはさすがに、取り締まらなきゃいけないレベルの変態感だろ。日本が変態の国になる前に、ベロチューを取り締まってもらわなきゃ。

 そのためにも、ゴシップ誌にはさらなる真相解明を期待したい。あ、ただ、真相が分かったとしても、僕の名前は伏せてもらわなきゃ困るけど。





 暗いビルの中を、懐中電灯片手に歩く。強盗が出てくる恐怖はそれほど感じないけど、幽霊が出てきそうな恐怖は感じる。幽霊だって、幽霊は怖い。

 だって、会ったことないんだもん。

 あれから、あらためて降霊さんに紹介してもらったのは、警備員の仕事だ。残念ながらバイトの空きが夜しかなかったから、夜勤のみのバイトだけど。

 正直、給料はそれほどでもないけど、この体になってから生活費はかなり浮いてるから、充分に暮らしていけるだろう。幽霊になって思い知ったことは、冷暖房費がいかに高かったかってことだ。

 ビバ、冷暖房のいらない体!

 それに、一人の仕事は気楽だ。幽霊だってことがバレないようにと、周りに気をつける必要もない。仮に強盗が現れたって、死なないんだから負けやしない。

 犯人に勝つことよりも物を盗まれないことのほうが重要なんだけど、そういう意味でも痛みを感じないってアドバンテージは大きい。なんだったら、ずっと犯人が盗もうとしてる物にしがみついてればいいんだしね。

 勤務時間が長いから、本来なら眠気が襲って大変だろうけど、それだって寝る必要のない僕にとっては、なんてこともない。

 意外だったのは、案外、武道とか関係ないってこと。剣道やってますとか柔道やってましたとか、そういう人たちだけがなれると思ってたんだけど、どうやらそうでもないらしい。

 二交代制で前の人から引き継ぐんだけど、今日僕が引き継いだ人なんて、ヘロヘロのおじいちゃんだからね。あれなら、小学生だって突破できる。

強盗よりも、天からのお迎えに引導を渡される可能性のほうが高い。

 それにおじいちゃんの話では、勤めてかれこれ二十年、実際に泥棒が出たことなんて一度もないらしい。要するに、念のため、飾りとして置いてるだけだ。

 だから、武道経験もへったくれもない。下手をすれば、警備員の制服を着たマネキンでも通用するかもしれない。

 警備員になってかれこれ一ヶ月が経とうとしてるけど、すごく快適だ。これが僕の天職かも、と思うくらいに。

 なんて考えてる間に、見まわりも終盤まで来た。後は、三F奥の会議室をチェックすればいいだけだ。

 ガチャリと戸を開け、懐中電灯を照らしながら部屋全体を見渡す。それほど広くはないから、窓の鍵をチェックして終わりだ。

 窓ぎわに添って、部屋の中をグルリと周る。一番奥の窓まできた時、背後でガタン! と物音がした。

 振り向くと、入口付近の用具ロッカーから男が飛び出してきたところだった。男はそのまま、一目散に部屋の外へと逃げ出す。

「待て!」

 すぐさま追いかける。

 生前、足が速かったわけじゃないけど、いまは息も体力も切れない。追いつけなくても、振り切られないように粘ることはできる。

 夜はエレベーターが止まってて、移動には非常階段を使うしかない。痛みを感じないことをいかし、二Fに降りる階段の途中で、思いきって男にタックルした。

 そのまま二人とも、二Fの廊下へと転げ落ちる。

「痛ってぇ……」

 うずくまったまま、男がうめく。

 チャンスだ! 

 僕はこの隙に、男を取り押さえようと近づいた。

 すると、男が懐からナイフを取り出し、僕に突きつけてきた。

「動くな! 動くとコイツで刺すぞ!!」

 言って立ち上がり、僕をナイフで威嚇したまま逃げようとする。

 だけど僕はいっさいひるまず、一Fに降りる階段に立ちふさがりながら、携帯を取り出して警察へと通報する。

「お、おい、なにをしてる! やめろ、いますぐ携帯を置け!!」

 男がナイフをかざしながら怒鳴るけど、僕は意に介さない。やがて、電話口で声が聞こえた。

「はい、こちら東都とうと警察です。どうされましたか?」

 僕は冷静に、強盗が起きてること、現場の住所、自分の名前を伝えた。その間も、男は「やめろ!」とわめき続けてる。

 そんなことはおかまいなしに話を続け、警察が来てくれることを確認して、電話を切った。

「おい、おまえ! 止めろといったのによくも通報しやがったな!!」

 男は完全に頭に血が上っているようで、顔を真っ赤にして怒っている。

「強盗犯がいるんだから、通報するのは当たり前でしょ」

自分でも驚くくらい、冷静に返す。

どうやら、相手がナイフを取り出したことで覚悟が決まったらしい。こいつは明確な敵だ、と。

 一方、男は、僕が冷静になればなるほどヒートアップしていく。まあ男にとって不利なことをしてるんだから、当然っちゃ当然だよね。

「コノヤロウ、いい加減にしろよ! そろそろほんとに刺すぞ!」

「そう言って、さっきから振り回してるだけですよね。とりあえず、もうすぐ警察が来るんだから、観念して大人しくしててください」

「ふざけるな! おい、そこをどけ! どけって言ってるだろ!!」

 階段に立ちふさがる僕に、いっそうナイフを振り回して叫ぶ。だけど僕は、まったく動じない。

「コイツっ! 舐めるなよぉ!!」

 ザクっ!

 ついに男が、僕の腹にナイフを突き立てた。

 すかさず、相手のえり首を両手で捕まえる。ここを掴むとなかなか振りほどかれにくいって、なにかで読んだ記憶があったからだ。

「クソっ、離せ! 離せ、コノヤロウ!!」

 刺せば多少はひるむだろうと、男はそう考えてたんだろう。明らかにイラ立ってる。そのまま、何度もザクザクと僕の腹を刺した。

 う~ん。痛みがないとはいえ、あんまりいい気持ちはしないなあ。いくら霊体だっていっても、いまの僕はこの体で死活してるわけだから。

 ちょっとした仕返しに、男の頭をパチン! と叩いてやる。

 ここまできて、男はやっとおかしなことに気づき始めた。どれだけ刺しても痛がる様子もなく、僕が平然としてるからだ。

「お、おまえ、なんなんだ……?」

 いつの間にか男の声は、力なく震えている。

「ただの警備員ですよ。さあ、もう逃げられないんだから、大人しくしてください」

「ひいぃ!!」

 滅多やたらに男がナイフを振り回す。でもそれは、さっきまでと違って、怯えからくるパニックだ。

 あと一押しすれば、大人しくなりそうだな。

 僕は男に顔を近づけ、耳打ちするように呟いた。少しでも迫力をつけるため、声色をわざと低くする。

「おい、いい加減にしろよ。そろそろ本気で怒るぞ」

 男の体がビクリと震え、動きを止める。ゆっくりと僕を見たその目を、逃さないように見据える。

「もう分かってるだろ? ナイフなんか効かない。お前じゃ僕を殺せない。一生かかっても殺せない。つまり、一生、逃げられないってことだ。

 なんならこのまま、一生お前につきまとってやろうか?」

 男の体が小刻みに震えだした。

「す、すみませんでしたあぁぁぁ!!!」

 男は地べたに頭をこすりつけ、泣きながら謝る。

 ……そんなに怖かった?

 どうやら、思った以上に効果テキメンだったようだ。

なにはともあれ、これで大人しくなるだろう。

「勝った」

 一人つぶやき、思わずガッツポーズする。

 相手が一方的にビビったようなものだけど、生前、ひ弱で運動神経もあまり良くなかった僕にとって、なにかで勝った経験はほとんどない。

 それだけに、なんだか嬉しい。

 こうして大人しくなった男とともに、思わずニヤけそうになるのを我慢しながら、警察を待った。



「刺したのに、ぜんぜん効かなかったんだよ! なあ、刺したのにぜんぜん効かなかったんだって!!」

 半ばパニックになりながら、男が警官にまくし立てる。

 あんまりそのことは言ってほしくないけど、まあそんな突拍子もないことを信じる人は、ほとんど居ないだろう。警官も呆れたように、「はいはい」とおざなりな返事であしらっている。

 だいたい、いくら刺したと主張したところで、ナイフに血が付いてなければ、信じてもらえるはずがない。もちろん、幽霊を刺しても血は出ない。

 両脇を警官に抑えられながら、男はパトカーへと連行された。

 電話口である程度、事件の概要を伝えてたおかげで、犯人の受け渡しはスムーズなものだった。ただ、事情聴取のために、勤務終了後あらためて警察に出頭しなきゃいけないんだけど。

 とにもかくにも、これで事件は無事に解決だ。まだ勤務時間は残ってるけど、なんか今日一日の仕事をやり終えたような気持ちになる。

「とりあえず、お茶飲も」

 僕は一息つくために、警備員室へと戻った。





 警察署での事情聴取も終え、無事に家へと戻ってきた。なんだか今日は、家の玄関にすら郷愁を感じる。いろいろあって、『やっと帰ってこれた』感がすごい。

 ガチャリと鍵を開け、中に入った。

「あ、おかえり~」

 思いがけない、女性の声。降霊さんだ。

「帰ってくるの遅かったね、どうしたの?」

 まるで部屋にいることが当たり前かのように、尋ねてくる。「お邪魔してます」くらい言いなさいよと思うけど、言われたら言われたで、腹が立ちそうだ。だって、ホントに『お邪魔』なんだから。

 部屋の中には前回と同じテーブルがあって、すでに朝ごはんが並べられてる。

 当然、合鍵なんて渡してない。渡すような間柄でもないし。

「降霊さん、また窓から入ったんですか?」

 たしかに窓を修理しない僕も悪い。だってしょうがないじゃない、お金がないんだから。

盗まれるような物もとくに無いし、そもそもアパートの二階の窓から侵入するなんて離れ業をかましてくるのは、降霊さんくらいだ。

 殴られ屋は一日こっきりだし、ジムでもらったのはお小遣い程度。スタントマンにいたっては、ビルから落ちたせいで給料をもらい損ねてる。いまの警備員の仕事だって、初めての給料日は明日だ。

 それまでの貯金は死ぬつもりだったから全部使っちゃったし、生活費だけでほぼカツカツ。それに、窓ガラスって意外と高いんだよね。

 だからいまでも、降霊さんが飛び込んできたあの日のまま、窓は修理できてない。

 でもだからってさ、自由に入っていいわけじゃないよね。だってそこは、入り口じゃないんだから。

 仮に入り口だとしたって、家主の許可がいるよね。「開いてるから」って理由で他人の部屋に入っていいのなら、この世は泥棒天国だ。

「だってさ、入れるなら入って用意しといたほうがいいじゃない? 玄関でずっと待っとくのも嫌だし、君が帰ってきてからご飯を作りはじめるよりも、帰ってきたらすでにできてるほうがいいでしょ?」

「そりゃまあそうですけど。窓を出入口に使うのって、降霊さんか泥棒くらいですよ」

 窓は、換気のためにある。断じて、侵入のためにあるわけじゃない。

「失礼だな~。だって、盗られて困るものとかないんでしょ?」

「そりゃそうですけど……」

「それに、帰ってきた時、女の子がいるほうが良いでしょ? 

『おかえりなさい、あ・な・た』とか、してほしいでしょ?」

「いや、降霊さんそんなことしてないでしょ」

「君がしてほしいなら、やってあげるよ」

 降霊さんが、いたずらっぽく笑う。思わず、ドギマギしてしまう。

「な、なに言ってるんで――」

「おかえりなさい、あ・な・た」

 言って、自分の唇に当てた人差し指を僕の唇に当てる。スタントの時と同じ、指キッスだ。

「なっ……!」

「あはは、真っ赤になってる。か~わいい~~」

 顔を真っ赤にして固まっている僕の頬を突つき、降霊さんがからかう。

「や、やめてくださいよ!」

 なんとかそう返して、僕は頬を突つく手を払った。

「じゃあさ、合鍵ちょうだい」

 言って、降霊さんが手を差し出す。

 唐突!

「ええ!? ど、どうして降霊さんに合鍵なんか……」

「だって、窓から入ってこられるのが嫌なんでしょ? だったら、玄関から入るしかないじゃない」

 どうやら、『入らない』という選択肢はないらしい。

「いや、そういうことじゃなくて。僕ら別に、付き合ってもないですし……」

「いいの? 私が来なくなっても、寂しくないの?」

 降霊さんがわざとらしくションボリしてみせ、ポツリと呟く。その姿に僕は不覚にも、カワイイ、と思ってしまった。

「こ、降霊さんはその……どうして、合鍵がほしいんですか?」

 ドキドキと、心臓の鼓動が体中に響く。まあ僕の心臓は、鼓動してないんだけど。

「できるだけ君と一緒にいたい、って理由じゃ、ダメ?」

「それは……どういう意味で?」

「そうね。あなたのことが好きかどうかは、まだ分からない。でも、放っとけないんだよね」

 それは、好きになりそう、てことか? 

 ――えええぇ、ホントに!?

 まるで体ごと鼓動してるみたいに、ドキドキする。ドキドキするための心臓は無いけど、ドキドキするんだから仕方ない。

「……分かりましたよ。じゃあ、合鍵、作っておきますね」

 降霊さんに僕の気持ちを悟られないよう、渋々をよそおう。

「ホント? ありがとう。じゃあこれで、家に行くのは君公認ってことでいいんだよね?」

「まあ、はい。そうですね」

 僕の言葉を受け、降霊さんが勝ち誇ったように∨サインをする。いったいあなたは、何に勝ったのさ?

 それにしても……。まったく、降霊さんは照れさせるような質問ばかりしてくる。

 わざとか?

「ってことは、」

 降霊さんがなにか、とびきりのイタズラを思いついたかのような表情をした。

「合鍵ができるまでは、窓から出入りしていいよね? だって、公認だもん」

 !?

 やられた! もしかして、狙いはそれか!?

 まるでゲームのラスボスかのような威厳を放ち、両手を腰にあてた降霊さんが、フッフッフッと典型的な悪役笑いをかましてくる。

 ここまで計略を練ってくるなんて、どれだけ窓から入りたいの!?

 もうここまでくると、『窓から入らないと死にます病』にでもかかってるんじゃないかと思えてくる。むしろ、そのほうが納得できる。

 まったく、やれやれだ。

どうやら僕は、公認の『不法侵入者』を産みだしてしまったらしい。さっさと合鍵を作ってこないと、いつまでも侵入者に脅かされそうだ。





 翌日。出社した僕は、拍手で迎えられた。

盗みに入った犯人は企業スパイで、持ち去ろうとしてたのは、社外秘の重要なデータだったらしい。そのため、僕の活躍は社長の耳にまで届き、後日、特別に表彰されることになった。



 一週間後、約束通りに表彰されて社長賞をもらい、僕はそのまま、バイトから正社員へと昇格することになった。

 う~ん、思わず犯人に感謝してしまいそうだ。

「それじゃあ、待遇もだいぶ良くなるの?」

 家に帰って報告をした僕に、降霊さんが尋ねる。

「そうですね。給料あがって保険にいれてもらえるし、後、有給をもらえるようになるのが大きいかな」

 昼夜の二交代勤務になるけど、バイトに空きさえあれば、最初からそうするつもりだったし。

「よかったね。それなら、急なデートにも対応できるし」

 もはや恒例になってきた、仕事を終えた後の、降霊さんとの朝ご飯。そしてこれまた恒例になってきた、僕をドキリとさせる発言。

「……あるんですか、急なデート?」

 平静をよそおって、そう尋ねる。

「ありますよ~、もちろん。君をドギマギさせるの、楽しいからね」

 おちょくられてる。手のひらで転がされてるとも言う。年上だから仕方ないのか、いつも余裕があるのは降霊さんで、余裕を失わされるのは僕だ。

 それがちょっとくやしいんだよな――なんて思ってるところに、降霊さんがえびフライを、僕の口に「あ~ん」としてくる。

 その動作があまりに自然だったから、思わずパクリ。素直に食べちゃうんだよなあ、これが。

 だってそんなこと、してもらったこと無いし。それに、「あ~ん」ってしてる時の降霊さんはカワイイし。そうなると、ねえ?

 当然、降霊さんは僕が断れないのを分かってやってるんだろうけど、それを分かってても、やっぱり断れない。断りたくもないし。

 でも、やっぱりちょっとくやしい。

「ねえ、明日……というか、今日は夜勤ないよね?」

「ええ、休みですから」

僕の葛藤をよそに、降霊さんはすでに別の話題だ。ホント、見事に振りまわされてる。

「じゃあさ、デートがてら合鍵作りに行こうよ」

 またもや、ドキリ。

 そんなに欲しいの? 合鍵。というか、急なデートを実行するのが早過ぎるでしょ!?

「いまから寝るでしょ? 起きるのって何時くらい?」

「いや、僕、寝なくても大丈夫ですから」

 というか、寝ようと思っても寝られない。

「あ、そっか。そうだったね。

な~んだ、残念。せっかく添い寝してあげようと思ってたのに」

「ええ!?」

 本気なのか?

 チラリとベッドを見る。いつものベッドが、いつも以上に生々しく感じる。

 ……いかんいかん。単なる添い寝だ。そう、添って寝るだけ。添うんだから交わったりはしないし――ってなに考えてんだ、僕は!

 あっという間に、顔が赤くなるのが分かる。真っ赤になった僕を見て、降霊さんがニヤリ。いたずらっ娘全開の笑顔で、僕との距離を詰めてきた。

「だったら、時間もあるしちょうどいいじゃない。ね? デート行こうよぉ~~」

 わざとらしく、甘えるような声を出す。

 ズルい、ズルいなあ、こういうとこ。そして案の定、僕の心が振りまわされる。

 でもどれだけ振りまわされても、やっぱりカワイイって思っちゃうんだよなあ。

「分かりました。じゃあ、お店が開きだす十時くらいからはどうですか?」

 僕の答えに降霊さんはパっと笑顔を輝かせ、

「やった~~!!」

 と喜ぶ。

 平静をよそおってるけど、僕のほうが降霊さんよりはるかに喜んでる。恥ずかしいから、ぜったい顔には出しませんけど!

「じゃあ、デートまでなにしてよっか? ゲームとか、ある?」

「いや、そういうのは全部、処分しちゃったんですよね。

ってか降霊さん、デートまでずっと家にいるつもりですか?」

「なによぉ。私がいちゃいけないの?」

 唇を突き出して、降霊さんがむくれる。

「いやいや、そうじゃなくて。降霊さんいつも朝ごはん食べたら帰ってくじゃないですか。それに慣れちゃってたから、珍しいなって」

 とフォローしたのだが、時すでに遅し。完全に、機嫌を損ねてしまったらしい。

「ホントに? 私のこと、追いだそうとしてるんじゃないの?」

「そ、そんなわけないじゃないですか! いてほしいですって」

「ふ~~ん。なんで?」

「え?」

「な、ん、で、い、て、ほ、し、い、の!」

「なんでって、えっと、それは………」

 思わず、口ごもる。

「理由がないんだ? 理由もないのにいてほしいなんてことないもんね? やっぱり私を追いだそうとしてるんだ?」

 胸の前で、両手をイジイジする降霊さん。

「だから、違いますって! 追いだそうとなんかしてないですよ」

「じゃあ、理由言って」

「いや、だからそれは……」

「言わなきゃ分からないでしょ~~!」

 降霊さんが駄々をこねるように、バン! バン! とテーブルを叩く。

「一緒にいてほしいのは、その…………降霊さんが好きだから、です」

「声が小さい! 聞こえない!」

 再び、降霊さんの机バンバン。チキチキバンバンとにんじゃりばんばんに並んで、『三大バンバン』になるんじゃないかってくらい、猛烈な勢いのバンバンだ。

 ええい、もう。どうにでもなれ!!

 目をつむって天をあおぎ、

「降霊さんが好きだから一緒にいてほしいです!!!」

 叫ぶ。全力で叫ぶ。八畳一間の中心で、愛を叫ぶ。

 目を開け、降霊さんの様子をチラリと窺う。

 と、すぐ目の前に降霊さんの顔。その顔は、満面の笑みに包まれていた。

「しょうがないなあ。じゃあ、一緒にいてあげよっかな~~」

 言って、僕の頭をナデナデする。

 人の顔色というのは、どこまで赤くなるものなのか。このとき僕は、完熟トマトの気持ちがよく分かった。

 ほとんど勢いで言ったようなものだけど、嘘は言ってないよな。好きになりそうってことは、惹かれてるってことで。惹かれてるってことは、好きってことで……。

 あれ? だとしたら僕はもう、降霊さんのことを好きなのか?

 ドキドキが、いっそう速くなる。

 痛みなんて感じないはずなのに、こんなに苦しいのはなんでだ!?

 思わず、胸を押さえる。

「どうかした?」

 降霊さんが心配そうに見つめる。向かいに座ってたはずなのに、いつの間にか僕の隣にいる。

 いやいや、そういうのがさらにドキドキさせるんですって!

「いや、なんでもないです」

 慌てて、ごまかす。

「そう?」

 ちょっぴり小首をかしげた降霊さんだけど、たいしたことじゃないと思ったのか、それ以上の追求はなかった。

「ねえねえ、それよりも。デートまでなにして過ごすか、決まってないよ?」

「そうですねえ、コンビニ行ってトランプでも買ってきます?」

 「う~ん」と考えこむ降霊さん。あまり乗り気じゃないらしい。

「あ、それよりも!」

 なにかをピンと閃いたらしい。降霊さんが、ソっと顔を寄せてくる。

「添い寝ってさ、本当に寝なくても、寝転がってもできるよね。

――やってあげよっか?」

 と、耳打ち。

「ちょ、な、なに言ってんですか!?」

 照れて、たじろぐ。

「ってか、思いついたのってそれですか!?」

 尋ねた僕に、降霊さんはいまやお馴染みのいたずらっ娘な表情で笑った。

「ううん、違うわ。こうやって、君をおちょくって過ごすのもいいなって思ったの」

「はああ!?」

 なんてことを思いつくんだ、この人は!

 まさに悪魔のひらめき! いや、カワイイから小悪魔のひらめきか……って、なにをデレデレしてんだ! しっかりしろ、僕!

 相手はおちょくり大魔神、これは明らかに罠だぞ!!

「だって楽しいんだもん、君をおちょくるの」

「いやいや、楽しいのは降霊さんだけでしょ?」

「え~~。そう言いつつ、実は嬉しいんじゃない? だって、嫌そうに見えないよ? 照れつつも、ちょっと嬉しそうだし」

 うっ! バ、バレてる……!

 たしかに、それは反論できない。心を振り回されたりもてあそばれたり。それはあんまり好きじゃないけど、降霊さんにドキドキさせられるのは、嫌じゃない。

 というか、嬉しい。

 おちょくってる時にしか見せない表情があったり、コロコロと表情が変わるところも、見ていて楽しい。

 それになにより、いたずらっ娘全開なときの降霊さんの笑顔は、かなりカワイイ。

「ほら、いまだって嫌そうにしてないでしょ?」

 それ見たことかと、降霊さんは自慢げだ。

「そりゃ、本当に嫌ってことはないですけど……。降霊さん、答えに困るようなことばっかり言うじゃないですか」

「そんなことないよ。いまだって君が『添い寝してほしい』って言えば、すぐにでもしてあげるよ? 君が、言ってくれないだけで」

 それですよ、それ! それがまさに答えに困るの!!

「そんなこと言ってますけど。降霊さん、僕が「添い寝してほしい」とか、言えないこと分かって言ってるでしょ?」

「うん!」

 なんのためらいもなく、屈託のない笑顔でうなずく。

 参った! ホントに参った! ビー玉でもこんなに転がされないだろうってくらい、降霊さんの手のひらで転がされてる。

 僕がこの人をドギマギさせられる日とか、くるんだろうか?

「よし、決定! やっぱり、君をおちょくりながらデートの時間まで過ごすことにしよう!」

「えええ~~~!?」

 まったく、なんてロクでもない計画が決定されてしまったのだろうか――。





「僕、鍵屋に来るの初めてですよ」

「私も」

 木枯らしに吹かれて乾いた街を、降霊さんと並んで歩く。体が寒さに慣れるより先に、鍵屋に到着した。

 鍵自体は五分ほどでできるらしいけど、予約注文で混んでて、一時間ほどかかるらしい。なので僕たちは、先払いして鍵を作っておいてもらい、受け取りは夕方にしてもらった。

「あ、ごめん。ちょっと先に出ててくれる?」

「分かりました」

 降霊さんに言われ、僕だけ先に鍵屋を後にする。

おとなしく店の前で待っていると、

「おい!」

 突然、声をかけられた。振り向くと、店の壁に隠れるように体をかがめてる、一人の男性。

「お前も霊体だろ?」

「えっ!?」

 お前『も』!?

 驚いてすぐさま尋ねようとする僕を、男性が押しとどめる。なにやら、ずいぶんと焦ってるようだ。

「お前の状態はすべて理解している。その上で、手短に話す。

 降霊涼花に気をつけろ!」

 降霊さん!?

 どうして降霊さんを知ってるのか? と尋ねるより早く、男性は去っていった。

 呆気にとられてるところへ、

「お待たせ~」

 と、降霊さんが鍵屋から出てくる。

「降霊さん。もしかして僕以外にも、因縁つけて間違って除霊しかけた幽霊とか、いたりしません?」

「はあ? なによいきなり、失礼ね」

 そう言って、怒る降霊さんだけど。降霊さんの気をつける部分って、それしか考えられない。

きっとあの男の人も、降霊さんに通り魔除霊でもかまされたに違いない。

 だって、

「う~ん。けっこう力技な除霊もしてきたから、心当たりは……いっぱいあるかなぁ」

 これだもの。

「ま、過ぎたことはしょうがないじゃない。ね?」

 バツの悪さを感じたのか、降霊さんが話題を変えようとする。まあ、僕の知らない過去のことを責めるのもなんだし、大目に見て、それに乗ってあげる。

「鍵、意外と安かったですね。千円かかりませんでしたよ」

「ホントだね~。もっとかかるのかと思った、時間も料金も」

「そう言えば、降霊さんもなにか頼んでませんでした?」

「うん、ちょっとね。――それよりさ、これからどこ行く?」

「う~ん、ご飯にはまだ早いし……。あ、降霊さんなにか欲しいものあります? 僕、初任給でたから何かプレゼントしますよ?」

「いいの? 合鍵のお金も出してもらっちゃってるし、悪いよ」

「いや、いいんですよ。そもそも降霊さんに紹介してもらった仕事だし、最初に使うお金は降霊さんのために、って思ってたんです」

「ふ~~ん。その私のためにっていうのは、仕事を紹介したからって理由だけ? 私のことが好きだから、とかはないの?」

「い、いや、それは……」

「じゃあ、受け取らな~~い」

 降霊さんが、プイっとそっぽを向く。

「ええ!? 受け取ってくださいよ!」

「ダメです、無理です。私のことを好きじゃない人からのプレゼントは受け取れません!」

 出た出た、いつものパターン。っていうか、外でもこれ、やらされるの?

 「はぁ~」とため息をつきつつも、僕は意を決した。

「降霊さんが好きなので、初任給でなにかプレゼントさせてください!」

「素直でよろしい」

 いつものご褒美よろしく、降霊さんが僕の頭をナデナデする。

 ここまで手のひらの上で転がされると、自分はもう野球かテニスのボールなんじゃないかとすら思えてくる。

 ……いやいや。諦めるな、僕。抵抗を忘れたら、ますますエスカレートしてくるぞ! このおちょくりに、屈しちゃあいけない!

「じゃあ、なに買ってもらおっかなぁ。……予算はどのくらい?」

「初任給の範囲内なら、いくらでもいいですよ。ホントに降霊さんの欲しいものがいいし。窓もべつに、後回しにしたっていいんで――」

「ダメよ、そんな計画性のないことじゃ!」

 ビシリ! と降霊さんが僕に指を突きつける。

「自分を粗末にするようなお金の使い方でプレゼントされたって、私は嬉しくありません」

「すみません……」

 たしかに、その通りだ。初任給で降霊さんにプレゼントできるってことで、ちょっと舞い上がってたのかもしれない。

「じゃあ、初めてのプレゼントだし、五千円以内でなにか買ってもらおっかな」

「いいんですか? それくらいで」

「充分だよ。私もなにか、君に初任給のお祝いを贈るね」

「いやでも、それじゃあ僕がプレゼントする意味が……」

「あるよ、こういうのは気持ちなんだから。物を通して、お互いの気持ちをプレゼントしあうの。だから、私にも贈らせて。ね?」

「……はい」

 ほんのりと、心が暖かくなる。降霊さんに出会って以降、頻繁に巡りあう感情だ。

 死んで幽霊になって、僕の体にもはや熱い血は流れてない。それでも、熱を感じないこの体でも、感じることのできる暖かさ。

 皮肉にも、首を吊る前にはほとんど感じたことのないものだ。

「ねえねえ、あそこのお店、カワイイのがありそうじゃない?」

 降霊さんが、通りの向こうを指さす。

 指輪やネックレスがショーケースに並ぶ貴金属店だけど、オレンジの屋根に水色の壁が映えるお店は、普通の貴金属店とは違って、ずいぶんとファンシーだ。

「あそこに行ってみよ!」

 言って、勢いよく僕の腕を引っぱる。そのまま小走りに、通りを渡りきった。

「いらっしゃいませ」

 と、カワイらしい制服を着た店員さんが出迎えてくれる。どうやら店構えだけでなく、店内もカワイイであふれてるようだ。

「どれがいいかなあ~」

 目をキラキラさせて、降霊さんが店内を巡る。

降霊さんでも、こういうカワイイものを見て、テンションが上がったりするんだなあ。

 降霊さんはオシャレだけど、デニム中心の大人っぽい格好が多い。中身のガサツさも相まって、カワイイもの好きは意外に感じる。

 甘いものが別腹なのと同じように、女性がカワイイもの好きなのも、その人の普段の感じとは別、なんだろうか?

「ねえ、日頃アクセサリーとか着けたりする?」

「いえ、全然」

「じゃあ、指輪とネックレスならどっちがいい?」

「んー、指輪のほうがいいですね。ネックレスは着けたことがないんで」

「じゃあ、指輪にしよっか」

 言って、降霊さんが店員さんを呼ぶ。

「すみません、ペアリングってありますか?」

 ペア!?

「ペアリングでしたら、こちらのショーケースの商品がペアリングでございます」

 案内されたショーケースを、二人でのぞきこむ。

「いいなって思うもの、ある?」

 降霊さんは当たり前のようにペアリングを見ている。僕はまだ、買うのがペアリングだってことへの動揺が収まらない。

 二人で買うってことは、当然、着けるのも二人だよな? お互いペアリングを着けるって、それはもう、充分に恋人同士なんじゃないか? なんとも思ってない奴とペアリングなんか着けないよね? 少なくとも降霊さんは、僕とペアのものが欲しいと思ってくれてるわけで。

 だとしたら、この機に乗じてなるべく恋人っぽいものを、なんて――。

「えっと、これなんてどうです? この、ハートのやつ」

 シルバーとピンクのリングには、それぞれ半分ずつハートが描かれてる。それを合わせれば、一つの大きなハートになるってデザインのペアリングだ。

「あ、一緒だ。私もそれが良いと思ってたの」

 言って、ニコリと降霊さんが微笑む。

 いかにも恋人同士がするようなデザイン。それを降霊さんも選んだってことは、降霊さんも僕をそういう対象として見てくれてるってことかな?

「じゃあ、私から君に、君から私に。それぞれ、プレゼントしよっか?」

「はい、分かりました」

 こうして僕たちは、ペアリングを買った。二人とも、その場で着けて帰ることにする。

 すごく気恥ずかしいけど、すごく嬉しい。

「ありがとうございました~」

 店員さんの声に送られ、店を出る。

「よかったね~、いいのが見つかって」

 お店を出てから、降霊さんは何度も指輪を見返している。ずいぶんと、気に入ってくれたみたいだ。

「ね、指輪出して?」

 言われて、手を差し出す。降霊さんも手を出し、お互いの右手薬指に着けた指輪を向き合わせる。

「いまの私たちの距離が、このくらい」

 二つのリングの間は、五センチほど離れてる。

「それが、早くこうなるといいね?」

 五センチの差を埋めて、降霊さんが指輪と指輪をくっつける。お店で見たのと同じ、大きなハートができあがった。

 今日一日、高鳴ってた心が、さらに高鳴る。

「はい!」

 「僕の心はもう、そうなってますよ」って言葉を飲み込んで、返事をする。これはたぶん降霊さんが僕に、「もっと好きにさせて」って言ってるんだと思うから。

「それはそうと、お腹すいたぁ~~」

 降霊さんが、お腹を押さえて言う。

 ええ!? いまのタイミングでそれ、放り込んできます!?

 さっきまでの、ロマンチックだった雰囲気が台無しだ。まあそれが、降霊さんらしいといえばらしいんだけど。

 思わず、クスっと笑ってしまう。

「なによぉ、君だってお腹すくでしょ」

 それを目ざとく見つけた降霊さんが、膨れる。

「ごめんなさい。カワイかったもんだから、つい。なにか食べたいもの、あります?」

「うーん、そうだな~。――じゃあ、焼き肉がいいな」

「じゃ、そうしましょう」

 昼から焼き肉ってなかなかに豪勢だけど、初デートに初任給なんだし、たまにはいいだろう。降霊さん行きつけの焼肉店があるらしいので、そこに連れてってもらう。


 意外にも降霊さんは肉にとても詳しく、あまり焼肉店に行ったことのない僕は、降霊さんに注文を任せることにした。

 肉だけでなくホルモンもいろいろと頼んだようで、ハチノス、ギアラ、テッチャンなど、聞いたこともないような名前が並ぶ。

ウルトラマンの怪獣か?

 当然、名前も知らないものの焼き方を知ってるわけもなく、そのほとんどを降霊さんにやってもらった。

 本当はこういうところで男がリードしないといけないんだよなあ、と若干の情けなさを感じつつも、肉に箸を伸ばす。名前も知らない部位たちはさまざまに食感が異なり、味覚のない僕でもそれなりに楽しむことができた。

 もしかして降霊さんは、このために焼肉にしてくれたのかな?

「はー、食べたぁ。お腹いっぱい!」

 降霊さんが、満足そうにお腹をさする。かわいいアクセサリーにはしゃいでた、さっきまでの姿はどこへやら、だ。

「ね、次はどこに行く?」

「あ、じゃあ、キッチン用品を見に行きませんか? いま家にあるのってほとんど降霊さんが持ってきてくれたものじゃないですか。いい加減、僕のほうでも用意しとかないと悪いですし。主に使うのは降霊さんだから、一緒に見に行ったほうがいいかなって」

「いいね、それ。じゃあこの際、きちんと買い揃えよっか」

「はい」

「それはそうと、私が主に使うって言ったのは、毎日作りに来てほしいっていうアピールと取っていいのかな?」

「え!?」

 途端、顔が赤くなる。そういえば僕は、なんの疑いも持たず、降霊さんが毎日来てくれるのを前提として話してた。

 もちろん、降霊さんには毎日来てほしい。

 照れるけど、僕たちの関係を進めるためには、キチっと気持ちを伝えなきゃ。僕たちの指輪が、ちゃんとハートを描けるように。

「はい。毎日、降霊さんに来て欲しいです」

 ストレートに気持ちを伝えた僕に、少し驚いた表情を見せた降霊さんだったけど、

「うん、いいよ」

 と満面の笑みを返してくれた。

「じゃあ、行きましょうか」

 言って僕は、用品店に向けて歩きだそうとした。でも、降霊さんは動こうとしない。

「降霊さん?」

 不思議に思って声をかけると、降霊さんがスっと手を差し出してきた。どういう意味か理解できない僕は、小首を傾げる。

 降霊さんはすねたような表情を見せ、手を引っ込めた。

「あ~あ~、歩けないなぁ。手を繋いでもらわないと、歩けないなぁ。どこかに、私と手を繋いでくれる人はいないかなぁ」

 わざとらしく独り言をよそおってから、僕の目をジっと見つめる。

 再び、降霊さんが手を差し出した。

 ドキドキで張り裂けそうな気持ちをなんとか抑え、服のすそで手を拭く。ゆっくりと手を伸ばし、ソっと降霊さんの手をにぎった。

 暖かくて、柔らかい手。

 ドキドキは最高潮に達し、顔は朱に染まる。

 いま歩き出したら、右手と右足が一緒に出ちゃうんじゃないのか!?

 ついでに、心臓も飛び出しそうだ。無いけれど。

 初任給で、初デート。そして、初めて手を繋いだ。

 このままずっと手を繋いでいたいと思いながら、僕は降霊さんと寄り添って歩いた。





「財布につけてもらっていい?」

 鍵屋から受け取った合鍵を渡そうとすると、そう言って降霊さんが財布を差し出してきた。

 財布には鍵を一まとめにするためのリングがついてて、そこに別の鍵がもう一つついている。同じリングに、合鍵も通した。

「ありがと」

「これは、なんの鍵ですか?」

「これ? これは私の家の鍵よ。それより、はい、これ」

 言って、手渡されたのは鍵だ。

「なくさないでね。それ、私の家の合鍵だから」

「ええ!?」

 まさかまさかの合鍵返し。降霊さんが最初に頼んでたのは、これだったのか!?

「あ、あの……これは、どうして?」

「まだこの先どうなるか分からないけど、とりあえず渡しとくわ」

 渡しとくわって言われても……。そもそも、『とりあえず』で渡すようなものじゃないでしょ!?

「でも僕、降霊さんの家、知らないですし」

「知りたい?」

 フフっと笑う。

「いや、あの、その…………」

 とまどって、たじろいで、ドキドキする。

「私が帰る後をつけてくれば、分かるかもしれないわよ」

「そ、そんなことしちゃダメでしょ。それに、さすがに降霊さんだって嫌でしょ?」

「ううん、私は構わないわ」

 こともなげに言う。

「まあ、私についてこられたら、だけどね。実際には、簡単に撒いちゃうと思うから」

 降霊さんは、自信たっぷりだ。

 たしかに僕はひ弱なほうだし、降霊さんの運動神経はいい。でも、僕だっていちおう男なわけで、そう簡単に撒かれるとは思えない。それに、いまの僕に息切れやバテはない。スピードで引き離されなければ、むしろどこまででもついていける。

これ、圧倒的にこっちが有利じゃないか?

 だからって、「じゃあやりましょう」なんて言おうものなら、あまりにも下心が見え透いてるような……。

 ってやりたいのか、僕!? 知りたいのか、家!?

 ――知りたい。正直、知りたい。

 いや、べつにエロ目的じゃないよ。うん。断じて、そんなんじゃない。

 ほら、降霊さんがどんな部屋に住んでるのかな~とか、気になるし。いわゆるひとつの、お宅探訪ですよ。うん、それだけそれだけ。

 それに、誰かとの繋がりが欲しいっていうのもある。こんな状態に、人間といえるのかどうかも分からない状態になって、正直、心細い。

 自分で首くくっといてなに言ってんだって感じだけど、こうなってしまったからこそ、誰かとの繋がりが、現実との繋がりが、欲しい。

 生きも死にもできないいまの僕には、降霊さんとの繋がりしかない。

 家を知ったからって絆が強くなるわけでもないし、薄っぺらな考えだってことは分かってる。それでもいまの僕にすがりつけるのは、薄っぺらなものだけだ。

 肉体もなく、いつ自分がかき消えるのかも分からないんだから。

「どうしたの?」

 降霊さんに尋ねられて、我に返る。

 深刻な顔で考えこんでたんだろう、降霊さんが心配そうに僕の顔をのぞきこんでいた。

「いや、どうすれば勝算があるかなあって」

 頭をかきながら、そうごまかす。

「フフ、そんなに知りたいの、私の家?」

「え!? いや、その、なんていうか……」

「でも残念ながら、私は教えないつもりで言ってるんだよね。まだ早いし」

 言いながら、肩から下げてたバッグを小脇に抱える。

「それじゃあ、よ~いドン!」

 高らかな宣言とともに、降霊さんがダッシュした。

 ええ、いきなり!?

 まさか、不意打ちとは。完全に虚を突かれたけど、なんとか必死に喰らいついて行く。

 女性にしてはかなり早いほうだけど、さすがに振り切られるほどじゃない。

「ちょっと! いきなりはズルいですよ!!」

「いいじゃない。ハンデよ、ハンデ。女の子との勝負でハンデもくれないなんて、優しくないぞ」

 そう言われて、言葉に詰まる。まさか、走りながらおちょくられる日がくるとは……。

 と、ひたすら真っすぐ走っていた降霊さんが、いきなり角を曲がった。

見失わないよう、慌てて追いかける。

「ほら、コッチコッチ~~」

 スピードは僕の全力に近いのに、降霊さんはずいぶんと余裕があるように見える。もしかして、手加減されてるのか?

 再び、急に角を曲がる降霊さん。僕もその後を追って、すぐさま角を曲がった――のだが、

「あれ?」

 目の前の道に、降霊さんの姿が見当たらない。

「嘘だろ!?」

 降霊さんが角を曲がってから、せいぜい二、三秒しか経ってないはずだ。

 曲がった先の道は、両側に家の塀があって、五十メートルほど先に十字路があるまで、横道はない。

 ってことは、僕が曲がるまでにこの先の十字路を曲がったってこと?

 そんなバカな。だとしたら、五十メートルを三秒で走ったってことになる。そんなの、ウサイン・ボルトだって裸足で逃げ出すレベルだ。

 でも念のため、十字路の先も確認してみるか。そう思い、十字路に向けて走りだした僕を、

「おーい、こっちこっち」

 と呼ぶ声が聞こえた。降霊さんの声だ。

 どこだ? キョロキョロと、辺りを見回す。

「こっちだってば!」

 声のした方に目をやり、僕は驚いた。降霊さんが、左手の家の屋根に登っていたからだ。

「やっと気づいた。ダメだな~、そんなんじゃ。簡単に撒かれちゃうよ?」

「そんなことより、どうやってそこに登ったんですか!?」

 三秒以内に家の屋根に登るって、五十メートルを走り切るより難しいだろ。どんな芸当だ!?

「ん~~。残念ながら、それは教えられないなぁ」

 腕を組み、降霊さんが勝ち誇るように言う。確かにすごいことだけど、絵面はすごく滑稽だ。

ってか、知らない誰かに見られたら、どうしたって不審者にしか見えない。

「それよりも、早く下りてきてくださいよ」

「嫌よ。だって、下りたら君に捕まっちゃうじゃない」

「いやいや、そのままだとホントの意味で捕まっちゃいますよ!」

「大丈夫だよ、そんなドジはしないから。

とりあえず、今日は帰るね。ありがとう、楽しかったよ。じゃあ、勝負は私の勝ちってことで」

 そう言って手を振ると、降霊さんは反対側の地面へと下りて行った。

「あっ!」

 慌てて、反対側へと走る。でも僕が着いた時には、降霊さんの影も形もなかった。

 こうして、僕の初デートは終わった。呆気にとられる間もないほど、唐突に。

 アパートの二階にある僕の家に窓から侵入してくる、降霊さんらしいといえばらしい去り方だった。





『回顧』




 夜のベンチに降霊さんと二人。缶コーヒーを手に、空を見上げる。 

 冬は空が澄むっていうけど、そのなかでも今日の夜空は格別だ。星が、とても綺麗に見える。

 降霊さんとのデートは何度目だろう。今日は珍しく、夜遅くまで一緒にいる。

 まあなにか特別なことがあったわけじゃなく、遊園地で閉園まで遊んでたからってだけなんだけど。

 


「よし、次はあれに乗ろう!」

 片手を腰にあてたまま指さしポーズを決める降霊さんが、堂々と宣言する。

とてもテーマパークで乗り物を選んでるとは思えない。いまからライオンを狩りにいくかのような勇猛さだ。

「ええ!? あれですか!?」

 対する僕は、勇ましさのカケラもない。降霊さんが指さすジェットコースターを前に、完全に及び腰だ。

 それよりなにより、あのジェットコースターはなんだ!? 普通の座席に座るタイプですら怖くて乗れやしないのに、あのジェットコースターには座席が無い! 床も無い!

 覆われてるのは背面だけで、前と左右、さらには上下まで吹き抜けだ。

 いやあ、風通しが良さそうだなあ――って、良すぎるわ!

 もっと周りを覆いなさいよ! ビョ~ンて飛んでったらどうすんの!? ビョ~ンって! だいたい、ひねったり回転させたりしすぎでしょ! 下るときのあの角度はなんなの? 昼飯をぜんぶ吐き出させようとでもしてるの!?

 腰部分を固定するベルト以外には、背面から出てる腕でつかむためのバーしか拠り所はない。端から見た様は、宙吊りにされてるかのようだ。

江戸時代の拷問か、これは!?

「大丈夫、大丈夫。実際に乗ってみたら、そんな大したことないって!」

 満面の笑顔でそう言い、降霊さんが僕の手を引っ張る。あのジェットコースターの、いったいどこを見れば大丈夫って言えるんだ!?

 ってか、僕を引っ張る降霊さんの力が強い! 強い!! この引きの強さ、僕を無理やりジェットコースターに乗せるつもりでいることは、間違いない。

 うおおぉ、負けるな僕! この引っ張り合いに負ければ、地獄が待ってるぞ! 腕が抜けても負けるなあああぁ!!

 なんて、頑張りも虚しく。僕はいま、降霊さんと並んで、例の床なしジェットコースターに乗せられてる。

実生活で首を吊った僕だけど、まさか遊園地でも吊られることになるとは思わなかった。

 そして、降霊さんが言ってた、「乗ってみたら大したことない」なんて戯れ言は、やっぱり大嘘だった。大したことがありすぎる! これでもかと言うくらい、ありすぎる!

 大したことないなんて思うのはねえ降霊さん、あなたが絶叫マシーンが平気だからですよ! こっちは魂抜けそうだっての!!

 隣で降霊さんが下を見て、「うわあ、高~い」なんて楽しそうだけど、正気の沙汰とは思えない。よく下を見れるよね? 見ようと思えるよね!?

 僕はとくに高所恐怖症ってわけじゃないけど、とてもこの状況で下を見ようなんて思えない。

ってか降霊さん、「ほら、君も見てみなよ」とか言って、僕に下を見せようとしてくるのやめてくれません!? やめて! この状況で怖がってる僕を面白がっておちょくるのはやめて! やめてええぇ!!

 僕は今日、はっきりと分かったことがある。

 死ぬ気でやれば大丈夫、なんて言うけれど。死ぬ気どころか実際に死んだとしても、ダメなものはダメだ!

 そんな僕をよそに、ゴトンっ! と音を立て、無慈悲にもジェットコースターは動き出す。

「おお~、来た来たぁ!」と、嬉しそうな降霊さん。僕はもう、そんな降霊さんを見る余裕さえない。

 まばたきも忘れて正面を凝視することしかできなくなってる僕を乗せ、ジェットコースターは一気に加速した。

「ぎゃああああああぁぁぁ!!!」


「やっぱりこの季節、夜はだいぶ冷えるね。春はまだまだって感じかな」

「そうですね。でもそのおかげで、これだけ星が綺麗なわけですし」

 はしゃぎ回ってほてった体は、ベンチで一息ついたことで、徐々にその熱を失ってきていた。空気の冷たさが、夜の静寂をより強く感じさせる。

だからだろうか。僕たち二人の会話が不意に途切れ、しばらく沈黙が続いた。

「ねえ?」

「はい」

「どうして自殺したのか、聞いていい?」

 少し不安そうに、降霊さんが尋ねる。

 僕が首を吊ったと知った出会いの日から、ずっとその理由は気になってたはずだ。だけど降霊さんは、僕を気遣って、今日まで一度もそのことを尋ねずにいてくれた。

 そうだな、いろいろ気にかけてくれる降霊さんには、ちゃんと話しておくべきだよな。それに僕自身、降霊さんに知ってもらいたいって想いもある。せめて降霊さんだけには、僕を理解しててもらいたい。

 僕は頷いて、ゆっくりと話し始めた。

 


 なにか一つ、決定的な自殺理由があったわけじゃない。けれど――。

僕の人生は、常に低空飛行だった。

 運動は、壊滅的に苦手だった。僕の運動神経は、生まれた時にはすでに死んでいた。だけど、体育を手抜きしたりはしなかった。一生懸命やった。

 せめて足だけは速くなりたくて、陸上の本を買い、こっそり河川敷で練習したこともある。それでも、一向に速くならなかった。そして、足の速い子にかぎって、人気者だった。

 勉強もソコソコ。授業はまじめに受けたし、塾にも通った。けれど僕は、秀才にはなれなかった。秀才の彼は、授業中に居眠りしてたのに。

 友達も少なかった。クラスメートにとって不出来な僕は、友達ってよりも嘲りの対象だった。それほどガラの悪い学校じゃなかったから、酷いイジメが無かったことだけが幸いだった。

 そんなだったから、高校に入学する頃には、僕は僕自身になにも期待しなくなっていた。

部活にも入らなかった。いわゆる、帰宅部ってやつだ。能力がなければ、物事への興味も薄い。人間、できないことにそれほどの興味は持てやしない。

 夢も、特になかった。

 よく成功者が「夢を持て」って連呼するけど、それを見るたびに、僕は切なくなった。

 彼らは、夢を持つのにも能力が必要なのを知らない。失敗すると分かってて、どうして夢を持てるのか。

 じゃあ、壊滅的に運動の苦手な僕が運動選手を夢見て、幸せになれるのか?

 人はきっとこう言うだろう、「向いているものを探したほうがいい」って。

 けど、必ずしも、好きなものと向いてるものが一緒なわけじゃない。それ以前に、いろんな部分で能力の低い僕に、向いてるものなんてあるのか?

 僕はいったい、どうすればよかったのか。

 努力が足りなかった? じゃあ僕は運動会で一位になるために、アスリートが行うような練習を積めばよかったのか?

 そんなバカな。あまりにも、理不尽すぎる。上手くできないことがそこまで罪なら、能力の低い人間は死ぬしかないじゃないか。

 僕の学生生活は、悩みのどん底であえぎ続けることしかできない、孤独感にまみれたものだった。

 そんな時、両親が事故で亡くなった。たった一人になってしまった僕は、孤独『感』ではなく、本当に孤独になった。

 とても悲しかったけど、それは悲しみの、ほんの始まりにすぎなかった。

 当初、僕は親戚の家に引き取られた。だけどそれは、両親を亡くした高校生の子供を放り出すのは世間体が悪い、という理由でしかなかった。

 露骨に出て行けと言われることはないけど、同じ家だ。相手がたたいてる陰口を、嫌でも耳にすることになる。

 それは、面と向かって言われるよりも嫌だった。

だって、僕がいないところで話してるその言葉は、疑いようもなくその人たちの本心なんだから。正面よりも背中から撃たれるほうが、ダメージはデカイ。

 当然、そんな家に僕の居場所はなく……居心地の悪い日々を過ごしていた。

 もともと裕福ではなかったから、両親の残してくれたものはほとんどない。わずかばかりのものも、なんだかんだと理由をつけられ、親戚に取り上げられていった。

 そうした日々が続き、ある日僕は、とうとう耐えきれなくなって家を飛び出した。

 そのまま行くアテもなく、でも高校生の僕ではそれほど遠くにも行けず……。結局、近くの公園で寝るしかなかった。

 一夜明けて。することもなくただただ公園でお腹を空かせてた僕に、声をかけてくれた女性がいた。

 彼女は僕より少し年上の、大学生だった。

ボランティアで児童養護施設の手伝いをしてた彼女は、僕の事情を聞くと、その施設まで連れて行ってくれた。

 そこでご飯を食べさせてもらった僕は、「この施設に来たい?」という彼女の問いに、頷いた。

 その後、施設の職員さんといっしょに親戚の家へ行き、僕の意志を伝えて、僕は施設で暮らすことになった。

 僕が自分から出ていくのは、願ったり叶ったりだったんだろう。親戚はとくになにか言うこともなく、手続きはあっという間に終わって、僕は施設で暮らすことになった。施設の生活はけっして裕福じゃなかったけど、少なくとも、僕に居場所をあたえてくれた。

 こうして僕は、両親を失って以降、初めてホントに帰れる場所を手にいれた。

 そんなわけで、僕は彼女を恩人のように感じていた。そしてその恩は、僕が年頃になるにつれ、恋心へと変わっていった。

 だけど、当時の僕には勇気がなく、好きだと言えないまま施設を出て、大学の寮に入った。寮に入ってからはなんとなく施設に行きづらくなって、以後、卒業まで施設を訪れなかった。

 でも、彼女に会いたかった僕は、卒業の報告を口実に、久しぶりに施設を尋ねた。そこであった彼女は、よりいっそう、綺麗になっていた。

「久しぶりね。もう、どうしてたの? ずっと顔も見せないで」

 当時、ボランティアとして働いてた彼女は、いまではそこの職員になっていた。

 昔と変わらず、優しい彼女。積もる話もあって、彼女との話ははずんだ。

 もしかしたら……。

 僕は思い切って、彼女に告白した。

 だけど僕の告白を聞くにつれ、だんだんと彼女の顔はゆがんでいった。

「それ、本気で言ってるの!?」

 慌てて、彼女が問いただす。

 彼女の変わりように、僕は言葉を失った。ただただ、黙って突っ立ってるのがやっとだった。

「ちょっとそれ、他の人に言わないでよね。施設の子に手を出したとか、変な噂たてられたらたまったもんじゃないから。

 っていうか、私が優しくしてたのはボランティアだからで、別にあなたに好意があったとかじゃないから。

 だいたい、ちゃんとした家庭に育ってない人と、恋愛なんて無理だから!」

 彼女の言葉はどんどんとヒートアップしていき、最後はまくし立てるような物言いになっていた。

「とにかく、もう二度と私を好きだとか言わないで。後、あんまり関わってくるのも、もうやめてね」

 そう言い放って立ち去ろうとしたところで、彼女は振り向き、最後にこう言った。

「いい? くれぐれもこのこと、誰にも言わないでよね!」

 こうして、僕の恋は終わりを告げた。



「好きだったの? その人のこと。自殺するくらいに」

「たしかに好きだったけど、そこまでじゃないですよ。そうじゃなくて――」

 いったん間を置き、言葉を探す。

「なんていうのかな。それまでの僕の人生って、ロクなことがなくて。でも、それでもこれから先の人生には、僕でも当たり前に手に入れられる幸せがあるはずだって思ってたんです。

 そこに、あの断られようでしょ? 

 そうか、僕が手に入れられると思ってた幸せは、幻想だったんだって。これから先の僕の人生は、可哀想を抱えながら、ただ生きるだけの単調な日々だけなんだって。

 そう思ったら、なんかもう、色々どうでもよくなっちゃって」

 施設で一緒にすごした子たちとは、比較的、仲良くやっていた。でも友達じゃないし、家族なんてもっと違う。現に、施設を離れた後は、彼らと遊ぶことも、会うことすらなかった。

 つまり、そのくらいの付き合いだったってことだ。

 お互い、自分も相手も可哀想だって分かってる。それを心にしまいつつ、気を遣いながら接するのは辛い。

会うと自分たちが可哀想だってことが嫌でも思い出されるから、会わずにすむなら会いたくない。

 施設出身者ってこともそうだ。施設でとくに嫌な思い出はない。むしろ、良い思い出のほうが多い。それでも、施設出身者だってことは、できるだけ言いたくない。

 世の中には、可哀想があふれてる。むやみにそれにさらされるのは、ゴメンだ。

 僕は、自分が可哀想と思われる立場になって初めて、同情というものの残酷さを知った。無意識な哀れみをむけられることほど、自分を惨めに思わされるものはない。

 両親を失った後、僕が手に入れた世界はそういうものだ。親戚の家にいた時よりはるかにマシだっだけど、ホントの幸せにはほど遠い。

 それでもこの世に踏みとどまってた僕にさらに追い打ちをかけたのは、学校と同じような理不尽が、社会にも無数に転がってると思い知った時だ。

 世の中の決まりごとは、人並み以上に守った。ポイ捨てはしないし、矢印にしたがって右側通行、左側通行を守る。トイレのスリッパだって、印にあわせてちゃんと揃えた。もちろん、落し物をネコババするようなことはしない。

 だからって、それが報われるようなことは、なにも起きなかった。

 会社でも、同僚のようにタイムカードをちょろまかすことはしなかった。遅刻や欠勤をしないのはもちろんだし、ムダな私語もせず、黙々と働いた。

 だけど、真面目なだけでたいした成果をあげない僕は、不真面目でも成果をあげる同僚に、どんどんと置いていかれた。

 要領の悪さは、そんなに悪いことなのか? ここまで低く扱われるくらい、悪いことなのか?

 不真面目でも要領さえよければいいのなら、真面目にやる意義ってなんだ?

 だったらどうして、誰も要領をよくする方法を教えてくれなかったんだ? どうして学校の科目に、『要領』がないんだ?

 自分自身になにも期待しなくなってた僕は、とうとう社会にも、なにも期待しなくなった。

 そしてついに、僕は人生そのものにたいしての、希望を失った。



 語り終えた僕を、降霊さんがギュっと抱きしめてくれた。気づけば、知らず知らずのうちに、涙が頬をつたってた。

「大丈夫、大丈夫。私はちゃんと、側にいるよ」

 次から次へ、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。

 ああ、そうか。僕はこんなに辛かったのか。ロクに希望も抱けなくて虚無感から死んだと思ってたけど、そうじゃない。

傷ついてたんだ。その傷ついた心を無意識に押し込めてしまうくらい、傷ついてたんだ。

 降霊さんの暖かな胸に顔をうずめ、僕は声を上げて泣く。

 そこにはたしかに、僕が失った人の温もりがあった。





『秘密と交戦』




「ただいま~」

 鍵は出さず、開いてるものだと思って玄関のドアを開ける。そして独り言じゃなく、相手に伝える言葉として、言う。

 きっとあの人が、今日も来てくれてるだろうと信じてだ。

「おかえりなさい、あ・な・た」

 玄関まで出迎えに来てくれた降霊さんが、そう言って僕に指キッスをする。

 『おかえりなさい、あ・な・た』をやってあげると言って以降、降霊さんの出迎えはいつもこれだ。

 降霊さんと出会ってから、そろそろ三ヶ月が経とうとしてる。いまはもう、帰ってきたら降霊さんが出迎えてくれるのが、当たり前になってる。

 もっとも、僕と降霊さんの関係は、家にご飯を作りに来てくれて時々デートに行くって状況から、いっこうに進展してないんだけど。

 ただそれは、僕の優柔不断のせいだ。

 おちょくられた流れで何度か降霊さんに好きだって言ったことはある。だからもう、僕の気持ちは伝わってて、自然に付き合えるようになるんじゃないかと思ってた。だから、言わされてじゃなく主体的に「好きだ」とは、言えずにいる。

 だけど、それも今日までだ。このままだと、永遠に僕たちの関係性は進まない気がする。なによりこれ以上、答えを先延ばしにするのは嫌だ。

 これまで一度も、降霊さんからちゃんと好きだって言ってもらったことはない。きちんと、僕に対する降霊さんの気持ちを聞きたい。

「降霊さん!」

 朝食を終え、ゆっくりとお茶を飲んでいた降霊さんを呼ぶ。

 お茶を片手に、「どうしたの?」と聞き返してきた降霊さんだったけど、僕の真剣な表情に、お茶をテーブルに置いて背筋を伸ばした。

「どうかしたの?」

 お互い、ジっと見つめ合う。

 照れて目線を外しそうになるのを、グっとこらえる。ここで外してしまったら、もう言い出せないような気がするからだ。

 そんな僕の気持ちを察してくれてるのか、降霊さんも目線を外さずにいてくれる。

 いままでにこれほど見つめ合ったことはないってくらいの時間を経て、僕は意を決した。

「降霊さん!」

「はい」

「好きです、僕と付き合ってください!!」

 一瞬、驚いた表情の後、降霊さんはゆっくりと目を伏せた。

 降霊さん、どうして……。どうして、そんな表情をするんだ!?

 膨れ上がっていた気持ちが、急激にしぼんでいく。愛情でドキドキしてた心が、不安のドキドキに押しつぶされていく。

 心をギュっと握り潰されるような圧迫感に耐えながら、なんとか言葉を発する。

「ダメ……ですか?」

 降霊さんが、ハっと顔を上げる。

「違うの! そうじゃないの! 好きよ、君のことは大好き!!」

 必死にそう言い、僕の手をギュっと握った。

 「それじゃあ……」と手を握り返そうとして、僕は降霊さんの表情が沈んでいることに気づいた。

「君のことは好きよ。私も、君と付き合いたい。でも、いまの私には無理なの……」

「どうしてです? お互い好き同士なら、なんの問題もないじゃないですか」

「ううん、ダメ。いまの私と付き合ったら、きっとあなたに迷惑がかかるわ。だから、ダメよ」

 降霊さんの瞳が潤んでる。

「どうゆうことです? 僕にちゃんと説明してもらえませんか?」

 逡巡して、うつむく降霊さん。涙がスーっと頬を伝う。

「お願いしますよ、降霊さん。このままじゃ僕、辛すぎますよ。僕がダメならダメって、ちゃんと言ってもらえませんか?」

「ダメじゃない、ダメじゃないの。君はなにも悪くないの。ただ、私が問題を抱えてるだけ……」

「問題?」

「詳しくは言えないけど、私はいま、大きな問題を抱えてるの。それを解決せずに付き合っちゃうと、君に迷惑をかけちゃう……」

「いいですよ、迷惑がかかったって!!」

 そうだ、構いやしない。それで降霊さんの側にいれるなら、迷惑ぐらいいくらでも被ってやる。

「ダメよ、それは絶対にダメ! お願いだから、そんなこと言わないで……」

 両手で顔をおおい、降霊さんはつっ伏して泣き出す。

 ――そんなに辛いことなのか!?

「それは、僕には相談できないことなんですか?」

「…………ごめんなさい…………」

 かろうじてそれだけ言って、再び降霊さんが泣き出した。

 僕はテーブルを飛び越えて降霊さんに駆け寄り、力いっぱい抱きしめた。僕の腕の中で、いっそう、降霊さんが泣き叫ぶ。

 しばらくして、降霊さんも徐々に落ち着きを取り戻してきた。

「待ってちゃ、ダメですか?」

 抱きしめたまま、呟く。降霊さんが、泣き腫らした顔を上げて僕を見る。

「降霊さんがなにを抱えてるのか分からないけど、すべてが解決するまで、僕、待ってます!」

「…………いいの?」

「はい。なにも聞かないけど、でも、もし僕にできることがあれば、なんでも言ってください」

 僕の言葉に降霊さんは、まだ涙に濡れながらだけど、笑顔を見せてくれた。

「ありがとう」

 僕の胸でそうつぶやく降霊さんを、もう一度、しっかりと抱きしめる。

「ねえ、じゃあ、預かってて欲しいものがあるの」

 そう言って、降霊さんがストラップのついたフリスクケースを取り出した。

「君の携帯、貸してくれない?」

 言われて携帯を差し出すと、降霊さんはそのフリスクケースを僕の携帯につけた。

「これ、お気に入りで大事にしてるものなの。ぜんぶ解決するまで、持っててくれる?」

「もちろん。あ、でも、ストラップでつけてるだけだと、無くなったりしませんか?」

「あ、それは大丈夫。そのストラップ、けっこう頑丈だから」

 言われてストラップを見てみると、ヒモの部分が細い鉄のケーブルでできている。なるほど、これならストラップが切れて無くす、なんてことは無いようだ。

 それにしても、ずいぶんと頑丈な作りだな。よっぽど大事なものなんだろうか? 

無くさないようにしなきゃ、と気を引き締める。

 と、降霊さんが僕から離れ、姿勢を正した。

「それを私が返してもらう時が、すべて解決した時。その時は、私を彼女にしてもらえますか?」

 降霊さんの言葉に、顔がほころぶ。心は、暖かな風に包まれる。

 すべてが解決したわけじゃないけど、ちゃんと思いを伝えて良かった。少なくとも、僕たちが『好き同士』だって気持ちは、繋がったんだから。

「はい、喜んで!」

 僕たちはもう一度、強く強く抱き合った。





 いつものように玄関を開ける。いつものように、鍵はかかってない。

「ただいま~」

 いつものように、来ているであろう降霊さんに向けて、言う。

 だけどいつもと違うのは、降霊さんが玄関まで出迎えに来てくれないってことだ。

「降霊さん?」

 呼びかけながら部屋に入ったが、そこには誰もいない。

 あれ? と思ったのも束の間、背後から両腕で首をロックされた。外そうと相手の腕に手をかけるけど、相当な腕力のようでビクともしない。

「降霊涼花は知ってるな? 預かったデータがあるだろう、どこにあるか指し示せ」

 降霊涼花!? なんでこいつ、降霊さんのことを知ってるんだ? 預かったデータってなんだ? ってか、こいつ誰だよ!?

 頭の中で疑問がうずを巻くけど、とにかく、いまの状態から抜け出さないと話にならない。

 だけど、相手の背のほうが高いらしく、持ち上げられてるいまの状態だと、足が着かずに踏ん張りがきかない。

 なんとか外そうと足をジタバタさせてると、首のロックがさらに強まった。

「暴れるな! 絞め落とされたいのか!?」

 どうやら相手は、僕が苦しくてもがいてると思っているらしい。

 このまま暴れ続けられるけど、それでこのロックを外せるとは思えない。ここは相手の言うことに従って、しばらく大人しくして見せたほうがいいだろう。

「いいか、もう一度言うぞ。降霊涼花から預かったデータがあるだろう? その場所を指し示せ」

 僕はゆっくりと、キッチン下の棚を指し示す。

「おい、探して来い!」

 首をロックしてる男がそう言うと、僕たちの背後から迷彩服に身を包んだ男が現れ、キッチン下へと向かった。棚の戸を開けて、中をゴソゴソと探り始める。

 いまだ!

 僕は両足のカカトで、首をロックしてる男の股間をおもいっきり蹴り上げた。

「グヴゥっ!」

 言葉にならないうめき声をあげて、男がヒザをつく。

「おい、どうした!?」

 異変を感じ、棚を探っていた男が振り返る。そこに、全力タックル。相手は座り込んでたから、僕でも力で押し負けはしない。

 そのまま相手の頭を棚の中に押し込み、戸を開け閉めして何度も頭に打ちつけた。

 しばらくして、男の体から力が抜ける。やっと気絶したらしい。

 ふぅ、と一息つく。でもそれは、ホントに一息だ。すぐさま、もう一人の男を確認する。

 男はまだ股間をおさえてうずくまってたけど、僕が棚の男を倒したのを見てとると、スラリと警棒を引き抜いた。

「この野郎……!」

 震えながら、ゆっくりと起き上がる。中腰なのは、まだダメージが残ってるからだろう。

 時間をかけるほどに相手が回復する。僕は、すぐさま跳びかかった。

 相手の狙いは的確で、きっちり頭部を狙ってきた。だけど、どれほど的確で強烈でも、僕にダメージはない。

 頭部に警棒を喰らっても、構うことなく突っこむ。

「うおおお!!」

 そのまま体当たる。

 普段なら確実に押し負けるだろうけど、僕のタックルが股間に響いたんだろう、あっさり押し勝った。

 男は玄関に倒れこみ、地面に頭を打ちつけた。その衝撃で、持っていた警棒を取り落とす。

 すぐさまそれを拾い上げると、男に一撃を喰らわすために大きく振りかぶった。

「ま、待て!」

 男が手を前に突き出し、それを静止する。

「なぜ俺たちがここに居るのか、疑問に思わないか?」

 言って、男は懐から一つの財布を取り出した。

「それは!!」

 慌てて、男から財布を奪い取る。

 間違いない、これは降霊さんの財布だ。

「どうしてお前が降霊さんの財布を持ってるんだ!?」

 つかみかかった僕に、男はニヤリと笑ってみせた。

「降霊涼花の家を捜したが、データは見つからなかった。降霊の人間関係も洗ったが、データを渡しそうな相手はいなかった。

そこで、その鍵だ」

 男が、降霊さんの財布についている鍵を差す。

「その財布に、降霊の自宅の鍵以外で唯一ついていた鍵。その鍵の持ち主ならあるいは、とそう思ったわけだ」

 つまりこいつらは、僕が降霊さんに渡した合鍵をたどって、ここに来たってことか?

「降霊さんをどうした!?」

「ふふ、俺たちを倒しても無駄だぞ。降霊涼花はこちらで預かっている。返してほしければ、降霊から預かったデータを持ってここへ行け」

 男が、一枚の紙切れを差し出す。

 受け取って、場所を確認する。街外れの廃ビルだ。

「データってなんのことだ!? どうして降霊さんにこんなことをする!?」

「どのような形でデータを受け渡したかは、我々も知らない。それはむしろ、お前のほうが知っているだろう。降霊から受け取った物があるはずだ」

 降霊さんから受け取った物?

 指輪、合鍵――――フリスクケース!?

 いやでも、フリスクケースを受け取ったからってなんなんだ?

 男の側を離れ、隠れるようにして携帯を取り出す。変わりなく、ストラップで繋がれたフリスクケースがついている。

 でも、これがなんなんだ?

 あれこれいじってると、フリスクケースの頭の部分が外れた。どうやらフタになってたらしく、接続するためだろう突起が顔を出す。

 これってもしかし、てUSBメモリーか!?

 そう考えれば、すべての合点がいく。

 なにかは分からないけど、これはとても重要なデータなんだろう。そして降霊さんは、その重要なデータを誰かが狙ってることに気づいて、取られないようUSBメモリーに入れ、僕に預けた。だけどその後、データを狙う連中によって、誘拐されてしまった。

 さっきの奴が居場所を書いた紙を持ってたってことは、相手はここに来た連中がやられることも想定したうえで、襲わせたんだろう。勝てば良し、やられても降霊さんを人質にとっている以上、必ず自分たちのところに来る、と踏んで。

 だとしたら、僕がこのデータを持っていかないと、降霊さんが危ない。

 すぐさま玄関に戻り、意識があるほうの男を警棒で殴って昏倒させる。二人を後ろ手に縛り、そのヒモを柱に巻きつけると、すぐさま外に飛び出した。

 待ってて、降霊さん!!

 

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