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【八センチの抵抗】

作者: 蒼宮 那雪

 頭の上を、長い長い電車が通り過ぎていく。想像できないほどに重たいはずなのに、それも何人、何百人もの人を運んでいるはずなのに、よくこの鉄橋は落ちないものだな、と、この街に来た頃の小川スズは度々考えていた。こんな金属の塊が頭の上に落ちてきたら、助かることはまずないだろうな。いや、それどころか、瓦礫の下敷きになった身体は、そのままの形じゃなくて、ばらばらに砕け散ってしまっているかもしれない。そうなったら、田舎の親は私だとわかるんだろうか。

 スズのぼんやりとした空想は、今の所なんとか空想のままとどまっていてくれて、そのおかげで社会人二年目の春を迎えたスズは、今の所なんとか無事にこの鉄橋の下を毎日通って会社に辿り着けている。

 見上げなければ頂上がどこかわからないほどの高いビル群の間を縫って、パンプスの踵をカツカツやりながら出勤する姿は、すっかり都会に染まっている。

 この国内でも有数の大都市に就職先が決まった一年と少し前には、きょろきょろと辺りを見回し、電柱か看板か、酷い時には建物の壁にぶつかりかけることもしばしばだったのに、今では目的の道に沿って真っすぐにしか視線を向けない。

 スズの会社は駅前の高いビルのうちの一つ、その中のさらに一つのフロアにある、あまり大きいとは言えない会社だった。

 地元にいた頃、その小さな町で着るにはお洒落過ぎる衣装に身を包んだ女の人が載った雑誌を、スズは月に何冊も購入し、時に母に浪費を叱責されることすらあったほどだ。小さな町は、スズには窮屈過ぎた。靴から帽子まで選び抜いた“おしゃれさん”になりたかった。

 ガラス張りのエレベータに乗り込み、スマートフォンで時間を確認する。出勤予定時間五分前だった。乗り合わせた同期と他愛のない挨拶を交わし、会社があるフロアで降りる。

「そうだ、スズ。会社の歓迎会行くでしょ?」

「ええ。明後日よね。行くよ。」

 新入社員が入って落ち着いた頃を見計らい、この会社では新入社員の歓迎会がある。どの会社もそうかもしれないが、毎年恒例のこの行事には、社員のほぼ半数ほどが参加している。

人が多く集まるところは、正直スズは苦手だった。断れるものなら断りたいが、欠席します、と社内で回ってきたメールに返信する前に、違う同期に半ば強制的に出席すると言わされてしまったのだから仕方がない。

「良かった。実は私行きたくなかったんだよね。でもユキに無理矢理……」

「それならあたしと一緒よ。あたしもあの子に無理矢理……」

 そのあとは強引な同期への苦情を云いあって、自分のデスクのある部署に入った。お気に入りの時計に文具、愛用のノートパソコンを立ち上げ、スズは仕事に向かい合った。

 仕事場が高い場所にあって良かったと思うことは、景色が綺麗なことだ。月並みなメリットだが、夜この広いフロアで一人残業をしていると、街のあちこちの同じようなビルの中で同じように仕事をしている人たちの灯りがきらきらしている。あの人たちも頑張っているのだと思えばやる気をもらい、終わってお疲れ様と云って帰るときにはお疲れ様と返してくれている、気がする。都会の灯りの一部になれた気がしてくるのだ。

 書類整理に没頭していると、いつの間にか退社時間が迫っていた。



 日曜日の午前十一時。漸くベッドから起き上がったスズは、遅すぎる起床時間にさして感情を抱くことなく顔を洗い、歯を磨いた。一人暮らしも板についてきて、実家にいた頃は六時や七時に起きるのが常であったのに、まだ午前の間に起きたのだから上出来だとさえ思っている。朝食代わりに小分けのヨーグルトを一つ胃に収めた。

 今日は買い物に行こうと思っていたのだ。そろそろ店頭に並び始める夏物の靴を見に行かねば。季節の変わり目、その少し前からガラリとデザインが変わる売り場の雰囲気。想像すると自然と心が浮足立って笑みが零れた。鏡でそれをチェックすると、休日用の装いをして気合を入れる。膝上丈の白いワンピースと麻生地のカーディガン。

「よし。」

 いってきます、と心の中でだけ云ってみる。誰も返してくれないのはわかっているけど、街に挑むような気持ちで茶系のローヒールを履いてスズは家を出た。

 バスで十分ほどのショッピングモールの中に、スズが足繁く通う靴の店がある。「フラット」という名のその店には、靴が店中に並べられている。それなら当たり前の靴屋の光景だが、「フラット」は壁や商品棚だけではなく、床にまで靴が棚から溢れたように並べられているのだ。客が通るために三〇センチほどの幅で床が見えるが、それが小さな店内の奥まで続いている以外は靴で覆われている。その大量の靴も、季節の変わり目には全て入れ替わるから不思議だ。

 春も終わりに近づき、そろそろ夏物の準備をする今の時期には、店内は涼しげなデザインの靴で埋まっていた。無難な茶系のパンプス、絵の具で塗ったような鮮やかな青のプラットホームサンダル、落ち着いた紺色のローファー、可愛らしいピンクや淡い青、ヒールの高いものから低いものまで、圧倒されるような質と量に、スズは目を輝かせていた。

「いらっしゃいませ。」

 落ち着いた女店主の声に迎えられて、ゆっくりと店内に入る。雑多でありながら整頓された店内は、その光景のように満たされる感覚があった。ゆっくりと店内を眺め、一つひとつを手に取ってみる。

 多様な形も柄も、デザインはそれぞれ様々で人の顔ほどに個性がある。むしろ、同じような流行のメイクと髪型で装うスズと同年代の女性よりも、ここに並んだ靴の方がよほど個性的なのではないかとすら思う。

ぱっと一瞬で見て目に留まった靴を手に取っているが、それの多くはヒールが高い靴であることに気付く。ここに来た当初は歩きにくいと思っていたハイヒールだが、カツカツと床を鳴らして一歩一歩存在を確めるように歩くのが今では心地良い。見知らぬ土地で、頼れるものは自分一人の状況で、その音は自分が確かにここにいるのだと心強く教えてくれる。

 都会を都会たらしめているのは、きっとその人の多さにある、とスズは思っている。有象無象の人が集まって、それに付随して物が溢れて、そうして都市と呼ばれる場所は形成される。その中に埋もれるような一個の個人など、所詮はその都市を構成する一部でしかなく、その一個がなくなったとしても都市に支障はない。

 個性は都市に埋没し、ぐるぐると歯車のように回る都市の一部。同じような人が集まる都市で、自分は一個だと主張する方法を、スズは知らない。特別目立った個性があるわけでもなく、もしあったとしても、この大勢の中には同じような個性を持った人は必ず、そして何人もいて、特別ではなくなる。だからこそ、一歩一歩を踏みしめて歩くたびに鳴る心地良い響きは、ここを自分が踏みしめたという証として、スズには必要であった。

 そうしてスズは、恐らく三〇分は靴を眺めていた。どれにしようかと三つの靴に的を絞り、どうしようかと思案する。白に近い淡い青のプラットホーム、オレンジを基調にした鮮やかなサンダル、紫の大人っぽいオープントゥ。三つをそれぞれの場所から持ってきて、並べて見比べてみる。すべてが一度に買えるならそうするのだが、生憎、今財布の中には福沢諭吉の肖像画が二枚しか入っていない。並べている三つの靴はどれも一万円を超えるものばかりで、キャッシュカードがあると云っても三つ一度に買うのは罪悪感が強すぎた。

 三つの顔とにらめっこしているような気持ちで、じっと見つめる。決めた、と一つを手にすると、他の二つが気になる。

 埒が明かない。

 一度、落ち着こう。そう思ってスズは立ち上がった。ふと、一つの靴と目が合った。いや、靴に目はないから目が合ったという表現はおかしいのだが、まさに人と目が合ったときのような感覚だった。

 それは、店の一番上等な場所に飾られていて、なぜ今まで見落としていたのかが不思議なほど目立つように置かれていた。たぶん、近くの靴に気を取られるあまり、スズの目には入ってこなかったのだろう。

 スズはすぐさまその靴を手に取った。ピンヒールのサンダルで、落ち着いたグレー。見ようによっては水色っぽくも見える。足をとめるためのベルトは足首に近い甲の部分とつま先近くでクロスして、足首には小さな金色のバックルが付いている。ヒールの高さも一〇センチはあるだろうか、大人っぽい雰囲気で、スズが今まで手に取って見ていたデザインとは明らかに一線を画していた。

 これだ。

 スズは一人、踊り出したいような気持ちで心の中で叫んだ。にらめっこをしていた三つの靴のことなどは、もう頭から消えている。

スズはもう迷うことなく、目が合ってから一分の間にそれをレジに出していた。一目惚れ、とはまさにこのことだ。

浮かれきって外に出ると、空も同じように浮かれたような晴天だった。



一目惚れの靴はなかなか外に履いて行く気が起きなかった。一つには、今の綺麗な状態をずっと見ていたいという気持ちがあったからだが、それ以上に、この靴の初舞台は今日ではないと毎日履こうとするたびに頭の中で聞こえてきたのだ。変わりのない、連続した日常の中途半端なところで気軽に履いて行けるような靴ではない。もっととっておきの機会を待っていた。

例えば、会社の歓迎会とか。

そうだ、歓迎会がある。

スズはそう思い至って、ぱっと顔を上げた。憂鬱な歓迎会に楽しみを見つけたあとのオフィスは、いつもより少しだけ明るい。

夜の街は綺麗だと思う。あちこちの看板の電飾が光って、暗いところなんて一つもない。街灯が等間隔にぽつぽつあるだけで、あとは周りに何もない夜道とはまた違った意味で、夜に引き込まれていきそうになる。

夢の世界を歩いているような気分、いつもより高い位置から眺めることで、一層その感覚は増した。ヒールの音が鳴ると、夜の光の指揮を取っているような、不思議な優越感。カツ、カツ、カツ、等間隔にメトロノームのように、リズムを刻んでいく。

「スズ、それ可愛いね!」

 同僚はスズの一目惚れの靴を指差して云った。あまり得意に見えないように、ありがとう、と応じる。一目惚れの靴は、スズの足にすっきり合って、高めのヒールが鳴らす音は会場までのにぎやかな道でもはっきり聞こえた。

 歓迎会の会場は、居酒屋の二階だった。階段を上がったところで靴を脱ぐ。そこでも、スズは顔を知っている程度の知り合いと、人懐っこそうな顔をした新入社員の一人に「靴、すてきですね。」と声をかけられ、上機嫌で座った。

 歓迎会の会場は、六人一組の長いテーブルが二組ずつ組まれ、刺身や焼き鳥、サラダなどが雑多に置かれていた。新しいとは云えない外装だったが、中はリフォームでもしたのか比較的新しく見える。統一感がなく、強いて云うなら居酒屋で出てきそうなおつまみが並んだだけの料理も、食べてみれば美味しかった。

スズの隣には、いかにも都会風な、そしてまだ学生っぽさの抜けない服装の新入社員の女の子が座った。スズの靴を褒めてくれた、あの女の子だ。

「よろしく。」

 スズが座る女の子に話し掛けると、突然のことにもかかわらず、自然にぱっと笑って「初めまして! よろしくお願いします!」と云った。

「あ! さっきの素敵な靴の方ですよね! 羨ましいです、あんな可愛いの履きこなせてて。」

「ありがとう。あたしもお気に入りなの。」

 話し上手で聞き上手な新入社員は、ユイというらしい。スズが直観で感じたように、生まれも育ちもこの街だということだった。少々オーバーリアクション気味に相槌を繰り返すユイに、ついつい載せられたスズは、普段よりも饒舌になっていた。

「先輩、もう一杯、どうぞ!」

「いやいや、もう飲めないってば。」

「またまたー。先輩、全然酔ってらっしゃらないじゃないですかぁ。私なんかもう顔あっついのに、先輩、全然顔色変わってらっしゃらないですよ。さ、どうぞ!」

 もうすでに何杯目かわからないビールが空いたコップにすかさず注がれる。スズは酔いが顔色に出ない性質なのだ。ユイの方は一口目からすでに頬を紅潮させている。スズが注いだ一杯目すら飲み切っていない。

「それにしても、本当に素敵な靴でしたよね。私もあんな靴、履いてみたいですー。でもきっと似合わないですよね」

「そんなことないでしょう。それじゃあ、あたしの少し履いてみたら?」

「ええ! いいんですか!」

 もちろん、と云って喜ぶユイの顔を見ながら思わずコップを空けると、ユイがすかさずなみなみとビールを注ぐ。



 スズの記憶はそこで途切れている。いつ目を開けたのかもよくわからないが、気付けば自分の部屋の白い天井を見つめていた。

「あれ……」

 服は前日のまま、小さめなハンドバックを手に持ったまま、寝ていた場所は布団でもなくソファーの足元だった。起き上がろうとすれば、脳味噌の中心辺りに鈍痛が起こり、起き上がれない。ここまで酷く次の日まで残ったのは本当に久しぶりの事だった。

「やっちゃった……」

 ゆっくりと、なるべく頭を動かさないように、そっと上半身を起こす。部屋に一つだけある置時計はすでに午後一時を指していた。なんとか立ち上がり、コップ一杯の水を飲むと、少しは楽になった。

 落ち着いてくると同時に不安になるのは、記憶が途切れた後のことだ。どうやって家まで帰ってきたのだろう。なにかヒントがないかと部屋の中を見回すと、ソファーの上に無造作に投げられたらしいスマートフォンが目に入る。一件の着信履歴が残っていた。

「もしもし?」

『スズ! もう起きたの。大丈夫?』

 掛け直すと、すぐにユキが出た。

「なんとか……ねえ、あたし昨日どうやって帰ってきたのかわかる? 全然覚えてないんだけど……」

 恐る恐る尋ねると、ユキはごめんと一言謝った。

『無理やり誘っちゃってごめんね! 私がスズの家まで送ったの。スズ、歩くのもやっとだったし……。』

「そうなの。あたしこそ迷惑かけたね。ごめん。」

 自分の失態にますます頭痛が酷くなるような感覚を覚えて、スズは頭を押さえた。

『ううん。あ、部屋の鍵は、掛けた後ポストに入れておいたから!』

 ありがとう、と礼を述べながら、スズは玄関へ続くドアを開けた。確かに鍵はかけられていて、郵便受けから入れられたのだろう鍵がドアの直ぐ真下に落ちていた。しかし、何か玄関の光景には違和感があった。

『それじゃあ、今日はお休みだし、ゆっくり休んでね』

「うん。それじゃあ……」

 電話を切る旨を伝えようとしたそのとき、その違和感の正体に気付いた。


 靴がない。


 スズが履いて行ったはずの、あの一目惚れした靴が玄関にないのだ。待って、と電話口に云ったときにはもう遅く、すでに通話は切れている。

「どこ? あたしの……」

 玄関に置かれているのは、普段会社に履いて行くローヒールのパンプスと、自分で買った覚えも履いた覚えもない、薄汚れたスニーカー。部屋の中を見ても、帰ってきて、靴を履いたまま部屋に上がった形跡はなかった。

 あの靴を、忘れてきた。

 そう確信したとき、スズは目の前が真っ白になったようだった。しばらく玄関の、汚いスニーカーを見つめていた。生まれ育った地元で、あの田舎で、こういう靴を見た気がする。

 突然スズはハッとして、シャワーを浴びて服を着替えた。靴を探しに行こうと思ったのだ。頭痛のことはもう忘れていた。

 ローヒールのパンプスをつっかけるように履いて、辛うじて鍵をかける。仕事に行くわけでもないのに履いたローヒールの街は、いつもよりずっと広く高く、スズを受け入れまいとするかのように立ちはだかっている。不規則な音を響かせて、スズは街から逃げるように街中を駆け回った。昨日の居酒屋にも行った。会社にも、歓迎会の前に立ち寄ったコンビニにも。必死に駆け回る形相が通り過ぎる人にどう見えているのか、普段なら気になることも全く考えずにただ探し回っていたおかげで、大勢の人に怪訝な視線を向けられた。

「なに? あの人……」

「変な格好、ていうかダサくない?」

 どこからか聞こえてきた女の声と、くすくす笑いにドキリとする。洋服店のショーウィンドウに跳ね返って映った姿は、ばさばさと長い髪が乱れた上に、上着とスカートの色が合っていない。淡い紫と濃い青。まとまりがない。日はもう傾き始めていて、ビルの隙間から覗く斜めの光がスズに当たる。なんだか急に恥ずかしくなった。

 靴はどこにもなかった。

 どうしよう、と泣きたくなる。まだ一度しか履いていないのに。沈んだ気持ちで、希望を託すような気持ちで、スズは最後に「フラット」に向かった。

 買った店にまだ在庫がないかと思ったのだ。「フラット」のあるショッピングモールは、もうすぐ閉店という雰囲気をかもし始めていた。そんな「お客さんはもうなるべく来てほしくない」空気の中、スズはおかまいなしにカツカツと三階に向かう。壁一枚で並ぶ他の店には目もくれず、「フラット」の敷居を跨いだのは閉店時間五分前だった。レジの奥、おそらく事務室があるのだろう場所と店内を往ったり来たりしている店員を呼び止め、あの靴と同じものの所在を問うた。店員はスズの顔を見るなり、知ったような表情をしていた・常連客のスズを覚えていたのだろう。しかし、愛想の良いその表情も、スズがあの靴のことを口にすると、不思議なものを見るような、それでいて申し訳なさそうに形のいい眉根が寄った。

「申し訳ありません、お客様。あの商品は輸入物で、お客様に以前お買い求めいただいたもので最後だったんですよ。」

 最後の希望が断たれた。店員は「あの靴の製造元でも品薄状態のようですから、今年はもう入荷するかどうか……。」と続けていたが、スズはもう上の空で、「はぁ」と返事か溜息がわからないような息しか発していなかった。

 夕日も完全に沈み、街灯が点き始めた頃、スズは肩を落として帰宅した。玄関を開けると、そこにはどこの誰のものとも知れない、なぜここにあるのかもよくわからない、薄汚れたスニーカーがあった。アスファルトに覆われた道のどこでこんなに土汚れが付くのかと不思議になるようなそれを見て、スズは衝動的に玄関から放り投げた。お前にはこっちの方が似合いだぞ、と声が聞こえたようで、スズは鍵を閉めるとベッドに潜りこんだ

 泣きそうになった。

 あの靴は、今どこで誰に履かれているのだろう。ふとそんなことを考える。まだ一度しか履いていない、それも、家から待ち合わせをして居酒屋に行くまでの間のわずか二時間足らずしか履いていない。あのぴったりと足に馴染むような感覚。あれが今は誰の足に花を添えているのだろう。

 きっと、あたしなんかよりももっと綺麗で大人な女の人だろうな。

 あの靴に似合いそうな持ち主を想像する。すらっと背が高くて、長い髪をすっきりまとめていて、足が白くて、頭の中でそんなスズの理想の女性像にあの靴を当てはめてみる。歩く姿から、カツカツ、と心地良い音が聞こえてくるようだった。どんなに大勢の人混みも滑るように歩くのだ。向かう場所は街の中心部から少し離れたところのお洒落な喫茶店で、カフェオレを飲みながら単行本を読む。組んだ脚の先にあるのは、あの薄らと水色がかったグレーの靴。通り過ぎる人の目を引いている。

 スズはお気に入りのビーズクッションに顔を埋めながら、ふっと思わず笑った。もしそんな女の人に履いてもらっているのなら、あの靴も幸せだろうな。そんな想像をする。自分の足にあるときもとてもよく馴染んでくれていたけれど、それよりももっとお似合いだもの。お洒落で綺麗な人のところにあるといいな。

 あるいは、とスズはまた考えを巡らせる。

 あの靴は、まだ小さな女の子が見つけて持って帰っていたりして。綺麗な靴、と丸い大きな目をキラキラさせて、母親に「見て」と靴を差し出す。どこから持って来たの、と少し叱られて、それでも家に持って帰ってきてしまった女の子を見て、溜息を吐きながら母親は「仕方ないわね」と云って玄関の下足場の一番高いところに置く。大きくなったらね、と云いながら。そして、一〇年経って高い場所に置かれた靴に手が届くようになったときに、その女の子はその靴を見つけた時と同じように目を丸くキラキラさせて履いてみるのだ。

 嬉しそうな女の子の顔を想像して、ほっとあたたかくなる。そんな素敵な話、あるわけはないとわかっているけれど、今も目の前にあるかのように瞼に浮かぶあの靴がここにないことを誤魔化すには、そうでもしないとやるせなかった。

 その日はそのまま眠ってしまったらしい。



 目が覚めると午前九時を回っていた。仕事のある日だったら出勤していなければいけない時間だが、今日は幸い休みの日だ。

 伸びをしながら起きると、なんだか頭がすっきりとしている。よく眠れたおかげなのだろう。あの靴のこともどうやら完全にではないものの、寝る前よりは幾分晴れた。俯せのまま寝てしまったから、顔にシーツの跡がついてしまっているのが鏡を見なくてもわかる。せっかく比較的早い時間に起きられたのだから、今日はどこか云ったことのない店に行ってみよう。そして、あの靴のことは忘れよう。きっと寝る前に想像してみたような、素敵な日常を彩っているに違いないから。

 久しぶりにきちんとした朝ご飯を食べると、スズは部屋着からお気に入りのワンピースに着替えた。鏡の前でくるりと回転すると、ひらひらと柔らかい生地が広がる。きゅっと口角を上げて、笑いの顔をつくってみる。そうすると、自然、勇気が湧いてくるようだった。

 お気に入りのワンピースと、それにあった靴を取り出す。玄関を開けると、空は綺麗な晴れた色だった。

 どこへ行こうかな、鍵を掛けて歩道を一歩行く。ふと、アパートの共同ゴミ捨て場が目に入った。まだ今日の分が回収されていないのか、大きな袋がいくつも重なっている。その山の麓に、無造作に転がされたような格好で、一足、靴が捨てられていた。

「あ……」

その靴は、ピンヒールのサンダルで、落ち着いたグレーで、見ようによっては水色っぽくも見える。足をとめるためのベルトは足首に近い甲の部分とつま先近くでクロスして、足首には小さな金色のバックルが付いている。

それが今は、土汚れが付き、壊れたバックルのところから切れたベルトがだらしなく垂れている。大人っぽいグレーが鼠色になって、揃えられずに片足は倒れている。

もう、都会の中に入るためのそれを、スズは持っていなかった。

               

                        終


読んでいただきありがとうございます。

ネタバレ、作品の背景などはいつものように活動報告で。

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