第九話 『情報通』索川一弓
目黒尊は後悔の只中にいた。
(少し考えれば解る事だったのに……せめてもう少し早く家を出るとか、降りる場所を変えるとかしていれば……)
クラスメートから感じる視線。冷やかし、嫉妬、憐憫、と色々な意味があらゆる角度から尊に注がれるたび、彼は自分の短慮を省みる。
(美少女転入生、栗栖野ミサ……まだこの学校に来て間もないのに、いきなり男と一緒に登校なんて、話題にしてくれって言ってるようなもんじゃないか)
タクシーで登校した尊と栗栖野は、多くの生徒にその姿を見られていた。
二人とも浮いた話題に無頓着であったが故、その広がりの早さがどれ程のものか予想もしておらず、結果として朝のHR時にはクラスメート全員が、尊と栗栖野が付き合っているらしいと噂をする事態になった。
(くそう、この一歩退いたところで眺められる感じ……きもちわるい。否定したいけど、自分から口に出すのはむしろ墓穴のような気がするし)
普段からクラスに馴染めてない事も、この場合は尊の障害となっている。
否定する流れを作るにしても、中途半端で済ませるとからかわれるだけであるし、まずその流れを作る為にどうすべきかが尊には解らない。
(……教壇に立って叫ぶとか? いや、そんな黒歴史刻みたくない。うーん……栗栖野さんはどうするつもりかな?)
特に何の案も浮かばなかったので、尊はふと窓側の一番後ろの席に座る栗栖野に視線を送る。
そうした事で周りの数人が反応を示す事になったが、今は気にしない。
尊の視線の先の栗栖野は、窓の外に顔を向け何かを注視している。クラスメートの視線など意に介さず、彼女の興味はそこから動かないようであった。
(何を見ているんだろう?)
廊下側の席である尊の位置からは、栗栖野の視線の先にあるものは見えない。
それ以上見ているとまたあらぬ疑いをかけられそうだと思った尊は、栗栖野から目を離し溜息を吐く。
(……まあ、こんな噂はそう長くは続かないだろうし。放っておくのが一番かな)
結局出来る事と言えば日和見に徹する事だけだと悟り、尊は授業をしっかり受ける事で周囲の妙な空気を忘れる事にした。
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昼休み。
尊はある約束を果たすため、テニスコート横のベンチを目指していた。
(ここか屋上のどっちかだと思うけど、いるかな?)
栗栖野とは別行動、一応学校内では不可侵条約を結んでおり、何か問題が発生しない限りは干渉しない事を互いに約束している。
尊に降りかかる万一の危険に関しても、学校内に限っては栗栖野が結界を構築している為心配は無いという事だった。
尊としてはその結界というのが何なのかさっぱりであったが。
(まあ、何にしても良かった。学校内でも一緒に行動しなければならないとなると、また変な噂が加速度的に広がりそうだし)
心を切り替えて、今は手に持った戦利品をある人物に渡すために尊は足を進める。
そして予想通りの場所にその人物を認め、尊は声を掛けた。
「こんにちは索川さん」
「こんにちは目黒くん。こんな場所に一人で来たって事は、女子テニス部の昼錬を違法な手段で撮影する為かしら? そうだとしても私には関係ないし、興味もない事だからどうぞ好きにしてくれていいわよ」
挨拶を返すついでにそんないわれのない事を尊に言った女生徒は索川一弓。尊とは同じ学年別のクラスであり、同じ委員会に所属している事から接点があった。
「いや、約束の品を届けに来ただけだよ。はい、メロンパン」
尊がそれを差し出すと、ベンチに座って携帯電話の画面をかじりつくように見ていた索川は、物凄い反応で顔を上げた。
「どうしたのコレ? もし女子テニス部の昼錬を違法な手段で撮影する事を黙認してあげている事に対する賄賂というなら、私には関係ないし興味も無いから気を遣わなくてよかったのに」
「違うよ!! 何故僕を盗撮趣味の変態に仕立て上げようとする!! 僕にそんな趣味は無いし、これは以前に索川さんから知識を借りた事の御礼だよ」
一般的に知れているネクロノミコンというものについての概要を、尊は索川から教えてもらったので、このメロンパンはその報酬代わりであった。
「……ああ、思い出したわ。そういう事なら遠慮なくいただこうかしら。折角だから目黒くんも座ったらどう?」
「うん、どうも」
「いえ、自分のクラスに居場所の無い目黒くんは、ここか屋上かトイレの個室にしか行く所が無いだろうから、これはせめてもの慈悲よ」
「そういうぼっち扱いもやめてくれないかなあ!!」
これは半分当たっているだけに、冗談で流せない。
「何を今更。それに私も友達が居ない事に関しては、誰にも負けない自負があるわ。友達いない同盟として仲良くやっていきましょう」
「……そういう冗談を真顔で言える索川さんは本当に凄いよ」
「それはどうも、凄いと思えるところが何一つ無い目黒くんに言われるのは微妙な気持ちだけどね」
そう言って尊から貰ったメロンパンを片手に、索川の視線はまた携帯電話の画面に戻っていた。
それが彼女のスタンダードであり、授業中や登下校中でも一向に変わらないスタンス。周囲の事よりも、ネットを介した世界に興味の大半を持って行かれているらしく、誰が相手でもそれは変わらない。
尊からすれば索川の刺々しい言葉は特に機嫌が悪いわけでは無く、ただ思った事を口に出さないと気が済まないだけ、という認識である。
そういう意味では距離感がつかみやすいと言えるのか、尊にとってはクラスメートよりも気心が知れた仲である。
(建前ばかりの人間よりもずっと、一緒にいて楽だよ索川さんは。誤解も受けやすい人だけどね)
色々と不興を買う事も多いらしいが、しかし索川本人がそれを気にしていないようなので大丈夫なのだろう。
とりあえず尊は、索川の隣の開いているスペースに腰を下ろし。持ってきていた弁当箱を開いた。
教室で開けばまたあらぬ噂に拍車をかける事になる恐れもあるそれは、栗栖野ミサが用意してくれたものである。
中身はサンドイッチがぎっしり詰まっており、パン食の尊の趣向を汲んでくれているらしかった。
「……それ、噂の彼女に作ってもらったの?」
「ぶっ!! げほげほ!!」
サンドイッチを口に運んだ瞬間に、不意打ちのように隣の索川から掛かった言葉に尊はむせた。
「どうして知ってるの!? そんなに有名!?」
「ええ、この学校内に限れば、美少女転入生栗栖野ミサが同じクラスの冴えない男と付き合っているという噂はかなり有名よ。ツイッターでもかなり拡散してるわね」
「……そうか、今はそんなのもあるんだっけ」
携帯電話もパソコンも持っていない尊はその辺かなり疎い。現代社会の情報の伝達の速さに感心すると同時に、大いに嘆くこととなった。
「冴えない目黒くんの事だからありえないと思っていたけど、そのお弁当から察する限りは本当だったみたいね」
「いや違うから!! これはそういうのじゃないし!! 別に栗栖野さんとはそんな関係じゃないよ!!」
慌てて否定する尊、クラスに居た時とは必死さがまるで違った。
「そんな力いっぱい否定されてもね、じゃあそれは自分で作ったの?」
「これは……その……」
栗栖野が作ったのは間違いないので、咄嗟にうまい言い訳が浮かんでこない。こんな事なら教室で食べてくるんだったと、尊は激しく後悔した。
(やばい、なんて言えばいいんだこういう時、適当な嘘は通用しないだろうし、本当の事を話すのは論外だ、ああもう……)
どうしてか解らないが、尊は漠然とした焦燥感を感じていた。この誤解は後を引くと、そう思ったのだ。
「もしそれが噂の彼女が作ったものであるなら、私の隣でそれを食べるのは惚気になるのかしら? それとも、別の意味の外道な行為? どちらにしても目黒くんの評価は大いに変動するわね」
「……う」
怒っている。怒られる筋合いがあるのか無いのか、冷静な判断力を欠いた今の尊には解らないが、索川の機嫌を損ねたというのだけは伝わってきた。
「まあ別に、目黒くんと噂の彼女について私は関係ないし興味もないからどうでもいいけど」
そう言いつつも索川から不機嫌などす黒いオーラが見えるようだった。尊は胃が痛くなるのを感じ、サンドイッチも咽を通らない。
「あ、あの、栗栖野さんとは付き合っている訳では無くてですね……この弁当は確かに作ってもらったものですが、特に深い理由や意味がある訳では無いのですよ。何と言えばいいか……そう、おすそ分け的な? 実は栗栖野さんはうちの近所に引っ越してきてまして、それで少し懇意にしてもらっただけで、特に他意はないのですよ、ええ」
尊が敬語になってしまっているのは、きっと索川の不機嫌オーラにあてられているからだろう。風雲寺の家で拳銃を向けられたとき以上の脅威を感じ取っていた。
「少し懇意……ね。だから一緒に買い物に行ったりしたの?」
「はい、そうです――え?」
確かについ先日、尊と栗栖野は食材や足りない日用品をそろえる為に近所のスーパーに買い出しに出かけた。
「何で索川さんがそれを知ってるの?」
「ツイッターよ。修道服姿の栗栖野ミサが男と買い物してるって話があったから、もしかしたらと思ったけど……まあ、間抜けが言質を取らせてくれたわ」
「……そうですか」
「それにしても随分饒舌な言い訳だったわね。録音しておいたけど聞く?」
「もう勘弁して下さい!!」
完全に索川にペースを握られ、言い訳をすれば藪蛇になりそうで尊は何も言えなくなった。
(なんだこれ? お礼のメロンパンを渡すだけの筈が、なんで責められる流れになってるんだろうか……)
立ち去ろうにも立ち去れない。弁解しようにもまだまだ捻じ曲がった情報を索川が握っていそうで下手な事は言えない。
いっそ誰か助けてくれないだろうかと尊が思った時、それは最悪のタイミングで来てしまった。
「こんな所にいたのかよ目黒。無駄に歩かせやがって」
「え?」
肩を強く掴まれ、尊が見上げた先には強面と幾つものピアスが見えた。
「ちょっとツラ貸せよ」
そう言って尊を連れて行こうとするのは風雲寺凍夜。学校内では不世出の不良と名高く、最近そこに魔術師やヤクザの息子というカテゴリが加わった、尊にとっては今一番会いたくない相手。
「えーと、今は少し取り込み中なんで……また今度にならないかなあ、なんて」
「殺すぞ」
風雲寺の剣幕に、一秒すら尊が抗うのは不可能であった。
結局どこに行くのか解らないまま、風雲寺の後に付いて行くことになる。
「それじゃ索川さん……またね」
「ええ、忘れてないと思うけど、今日は委員会の日だから放課後にまた会うわね」
尊が風雲寺に連れて行かれる事は気にした様子も無く、当然のように索川はそう言った。
「そうだね、もしかしたら今日も行けないかもしれないけど……」
「絶対来なさい」
「……はい」
尊に有無を言わせないのは風雲寺も索川も変わらない。
(……前門の虎、後門の狼とはこういう時に使うのかな?)
そんな事を漠然と思いつつ、既に虎に殺されそうな気がする尊には、他の事を考える余裕などありはしなかった。