第七話 『狂信者』栗栖野ミサ
目黒尊が連れてこられたのは、高級旅館や料亭もびっくりの威厳ある日本家屋。高い塀で囲まれ、入口である堂々たる門構えをくぐると、池や庭石で彩られた庭園があり、その奥には伝統的な外観の木材建築の屋敷が構えている。
近所のコンビニから、車で十数分の所にそんな場所がある事がまず驚きだったが、尊としては建物の事など気に掛けている余裕は無かった。
(僕はどうなるんだろうか……無事に帰れる気が全くしないのだけども)
自分を囲む明らかに堅気じゃない雰囲気の男達、尊はそれに対する恐怖だけで他の事は目にも頭にも入ってこない。
とりあえず手荒な事はされていないが、何の用で連れてこられたのか尊が聞いても、明確な返答は無く「黙って付いて来い」の一点張り。
(逃げ出したい、でも逃げたらきっと……想像しなければ良かった)
とにかく怯えながらも、尊には男たちの後を付いて行く以外に選択肢は無かった。
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屋敷の奥の広い座敷まで連れてこられた尊は、そこでまさか知り合いに遭遇するとは思っていなかった為、一瞬だけ恐怖を忘れて口を開いた。
「キミは、風雲寺くん!?」
そこには先日校舎裏に栗栖野ミサから尊が呼び出しを受けた際に、途中で割って入ってきた風雲寺凍夜の姿があった。
今日は学校には登校していなかったから、もしかしたら昨日の栗栖野にやられた事で、何かしら体に問題が発生してしまったのかと心配であったが(主に尊自身にも関わる事の為)、見た所特に変わりない様子だった。
「気安く話しかけんな」
そう対応してくるのも昨日と変わりない。元々同じ学校の同じ学年という以外に尊との接点はない為、元より友好的な相手だと思ってはいない。
だが、知っている顔があるというだけで、幾ばくかの安心を尊が得られたのもまた事実だった。
「……目黒尊くんだったね、立っているのも疲れるだろう。そこに座りなさい」
「は、はい」
しかし、得られた安心もすぐに緊張で塗り替わってしまった。
敷かれた座布団に座るように尊に促したのは、明らかにこの場において一番の存在感を放っている壮年の男性。
座敷の一番奥の中心に座り、厳めしくも風格と貫録を持ち合わせているその男は、尊をここまで連れて来た男達に向かって言った。
「下がれ」
「へ、へい親分」
尊が感じた緊張は、その男達にとっても同様のものだったらしく、礼儀を正してそそくさと居なくなった。
これで尊以外には、親分と呼ばれた男と風雲寺凍夜、そしてこの場には似つかわしくないビジネススーツ姿の眼鏡の男だけが残った。
広い座敷に四人だけ、元からあった静寂が更に重たくなるのを尊が感じていると、親分と呼ばれた男は一文字に引き結ばれていた口を開く。
「尊くんをここに呼んだのは他でもない。君が持っている魔道書についてだ……」
「……え?」
ここまで何も知らされずに連れてこられた尊は、親分の発したその言葉に驚愕した。
連れてこられた理由がそれだったという事もあるが、何よりも驚いたのが親分の口から魔道書という言葉が出てきた事だった。
(ネクロノミコンの事を言っているんだろうけど……どうして?)
これは自分と栗栖野ミサ以外には知らない事の筈、尊はそう考えた後に、しかしもう一人それを知っている可能性がある人物がいる事に思い至る。
(風雲寺くん!? 昨日のあの場に確かに居た。僕がネクロノミコンを使った時には気を失っていると思っていたけど、まさか見られていたのか?)
尊が風雲寺凍夜に視線を向けると、彼は興味なさそうにそっぽを向くだけ。だが親分の方は尊に多大な興味を持っているようだった。
「君が魔道書を用いて魔術を発現させたのは倅が見ている。ワシもこの目で見に行ったが、魔力の残留が凄まじいものだったよ。その齢であれだけの力……さぞ苦労したのだろう?」
「え? あ、いえ……」
どうやら風雲寺凍夜は親分の息子であったようだ。しかしそんな事よりも、魔力の残留とか訳の解らない理由で、一目置かれてしまった事に尊は困惑するが、お構いなしに話は進んでいく。
「ワシは君と、君の力を高めた魔道書に同じ魔術師として興味がある。こうして会えたのも何かの縁だ、まずは君の持っている魔道書を少しでいいから見せてくれないかね?」
何かの縁とかでは無く、明らかに拉致まがいな方法で連れてこられた気がしたが、尊には親分相手にそれを追及する勇気はない。
そして親分からの要求に応える事も、今の尊には無理な話であった。
「えと……それはできません」
「……どうしてかね?」
尊に対して親分は威圧的ならないよう、配慮はしているようだったが。隠しきれない元々持ち合わせている雰囲気の恐さは、正面に座る尊に汗を流させる。
カラカラの咽を鳴らしながら、尊は生唾を飲み込んだ。
「ほ、方法が、解らないからです。僕がネクロノミコンを使ったのは昨日が初めてで、どうやって使ったのかも、どうやって取り出したのかも、実はあまり憶えてないんです」
親分の迫力に押され、隠しておく事は自分の身の危険を意味すると思い、尊はありのままを話した。
それが結果として尊の身の危険に繋がるとは、知らなかった事。もし仮に尊に未来を知る力があったなら、違う言葉を選んでいただろう。
その選択が間違いだったと尊が気付いたのは、時すでに遅く。親分の様子が一変した時だった。
「ネクロノミコンだと!?」
威厳あるその表情が動揺に染まり、脇に居る風雲寺凍夜とビジネススーツの男も、親分の豹変に驚きを見せる。
「どうしたんだ親父?」
「ネクロノミコン? 何なんだそれは?」
脇に控える二人の疑問の声に構わず、親分は立ち上がり尊に歩み寄る。その迫力は今まで以上に映り、尊は立ち上がる事すらできずに竦む。
「それはもしかして、深書ネクロノミコンなのか?」
「は、はい」
眼前の厳めしい顔から目を離せずに、尊は肯定する。すると親分は、大きく息を吐いてドスの利いた凄味のある声で尊に告げた。
「……そうか、ならばワシはそれを葬らねばならん」
言葉と共に、親分の周囲から蒼い炎が巻き上がる。どういう訳か、その炎は座敷に燃え広がる事は無かったが、しかし尊はそれが幻でない事を肌で感じていた。
熱い、一瞬にして感じた事の無い熱さが、尊を恐怖に染める。
サウナなど比較にならない、どうしてこれほどの熱を感じながらも、自分の身は火傷の一つも負っていないのか理解できない程だ。
「目黒くん、もし君が今すぐネクロノミコンを取り出せるのならそうしろ。ワシが葬るのは出来るなら本だけに留めたい、倅と同じ年頃の君まで巻き込みたくはない」
親分は本気の目で、尊に最後通告を言い渡す。
「お、親父正気か!?」
風雲寺凍夜は炎の熱から逃げるように退きながら呼びかけるが、親分はまるで取り合わない。
「ワシのこの炎は魂源のみを焼き尽くす。もし深書ネクロノミコンが君の中に潜んでいるなら君の魂ごと葬る事になる」
強さを増す炎、それが尊の周りを渦巻いていく。
まるで一瞬で焼き尽くすその時の為に、最大の火力を求めて猛るように。
(嘘……だろ)
尊は魂で感じるその熱で朦朧となりながらも、それ以上に自分の中から響き出した声に気を取られてた。
<試してみろ>
強まる炎と共に、徐々に頭に響いてくる声。昨日、尊がネクロノミコンを使った時に聞こえてきた声だった。
(……これは、この気分は?)
だが、昨日とは違う。あの時の気分とは違うと、尊は確かに感じていた。
その差異はまだおぼろげで、だが少しづつ響いてくる声がその感情を強めていく気がした。
しかしそれがどういったものか尊が気付く前に、親分の発していた炎が消え去り、謎の声もまた少しづつ弱まっていった。
「な、何だこれは!?」
驚愕する声が誰のものか解らなかったが、座敷の中心に突如として出現した巨大な十字架は、ある人物の顔を尊に思い起こさせた。
(栗栖野さん……?)
同時に外から叫び声が聞こえてくる。
「出入りだーーーーー!!」
「女が一人!?」
「囲めえ! そいつ、ふつうじゃねえぞ!!」
荒々しい物音、その中には火薬の爆ぜる音も含まれ、その喧騒は座敷に向かって近い付いてくるようだった。
そしてとうとう、一人の少女が数人の男と共に座敷の中になだれ込んでくる。
「栗栖野さん!?」
「良かった、無事でしたか目黒さん」
拳銃や刃物を持つ男達に囲まれながら、それを意に介さないように、現れた少女――栗栖野ミサは目黒尊の無事を喜んだ。
「な、なんでここに?」
栗栖野と周りの男達とが友好の様には見えない。そしてこの状況、尊の目には彼女が自分を助けに来てくれたように見えた。
「貴方を助けに来ました」
そしてそれは間違いでは無かった。
たった一人で、尊が竦むしかなかった者達を相手に、栗栖野ミサは対峙している。
修道服姿の彼女が照らす光は、この場においても不思議な安らぎを尊に与えていた。
「栗栖野……だと? まさか栗栖野ミサか!?」
尊がそう呼んだ事を漏れ聞いたビジネススーツの男が、過剰な反応を見せる。それに伴って親分も表情を更に顰めた。
「栗栖野ミサ……あの『狂信者』がどうしてだ?」
風雲寺凍夜は栗栖野ミサについては話していなかったらしく、二人がその名を知っていた事に逆に驚きを見せていた。
「親父達、あの女の事知ってるのか?」
凍夜のその問いは、次いで聞こえた火薬の爆ぜる音に掻き消された。
それは栗栖野を囲む男達の一人が、拳銃を撃った音。
一時的に静寂が訪れるが、硝煙が上る銃口の先の少女が無傷だと解ると、すぐさま二発三発と銃声が続く。
だが、何発撃っても栗栖野ミサにはかすりもしない。
「なんで、なんであたらねええええ!!」
「静粛に、ここは神前です」
栗栖野ミサがそう言うと、彼女を囲んでいた男達にどこから現れたのか、十字架が突き刺さった。
男達は、まるで何かの力に縛られるように身を固めて、手に持っていた武器を取り落とした。
「『十字架の戒め(ホーリークロスバインド)』危険はありません。心穏やかに主に祈りを捧げましょう」
そう言って颯爽と、栗栖野ミサは動けなくなった男達の横を通り抜け、尊の居る場所に向かう。
そして情けない事に銃声で腰が抜けていた尊に、そっと手を差し出した。
「遅くなりましたが、主の導きにより参上しました……ご迷惑でしたか?」
昼休みに尊が言った事を気にしてか、栗栖野ミサは控えめにそう言った。尊は良心が痛むのを感じ、だからこそ差し出された手を迷わず取る。
「いや、ありがとう栗栖野さん」
心の底からその言葉が出た事で、尊の中で燻っていた何かが無くなっていった。嫌いだと談じて拒絶した相手が、危険を省みずに助けに来てくれた。それだけで、全て許せるような気がしたのだ。
(我ながら、現金かな?)
だが人の感情などそんなものかもしれない、ふとした拍子で嫌いになる事もあれば、好きになる事もある。
高校生という、まだまだ子供で多感な時期だからこそのものなのか、それは知らないが。助けてもらっておいて感謝が出来ないよりはずっといい、そう尊は思った。
「……待て、何だこの結界は!? 何をした狂信者!!」
座敷の中心に現れた十字架を指差して、親分が栗栖野ミサに怒声を浴びせる。
「狂信者ですか……そう呼ばれるのも久しぶりですね。確か貴方は『風雲寺組』を仕切る組長であり、『魔葬一族』風雲児家の御当主である、風雲寺炎間さんでしたか……」
尊を背に庇うように、栗栖野ミサは親分と対峙する。
「ここはとても良い気場の様ですね。日本だと龍脈というのでしたか? 是非ともここに教会を建てたいものです」
強面の親分を前にしても、栗栖野ミサには少しも臆した様子が無い。
「……まさか龍脈の力で魔術を封じたのか? 馬鹿な」
むしろ圧倒されたのは親分のようで。尊には話の半分も理解できていなかったが、あの炎を消し去ったのは、やはり栗栖野ミサの力であったという事だけは理解できた。
だが彼女はそれを否定する。
「いえ、これは神の加護による奇跡。私はただ信じて祈るだけ、奇跡が起こるのは我が主の力です」
大真面目にそう言い放つ栗栖野ミサに、親分達は呆気にとられるが。魔術が封じられているのは事実であり、そうなると別な手段を頼るほかは無い。
「なんでもいい。だが、目黒くんが深書ネクロノミコンを所持しているなら渡すわけにはいかん。あれはこの世に存在してはならない物だ」
取り出した拳銃を、尊に向ける。初めて向けられた銃口は縁遠い一般人には現実味が無く、親分の顔の方がよほど恐怖を感じるものだった。
それでも当たれば死ぬと考えると、やはり下手には動けない。栗栖野の背後に隠れている事しかできない事を、尊はかなり不甲斐なく思った。
「邪な力で命を殺めても、解決にはなりません。ネクロノミコンを危険視する事には同意しますが、目黒さんに危害を与える事は許せません」
「小娘が!! 今はまだいいが、ネクロノミコンの力に染まった時には遅いかもしれんのだ!!」
本人そっちのけのそのやり取りに、尊は異議を申し立てたかったが、間違いなくこの場で一番無力なのは自分だと自覚している為。口は挟めない。
しばらく睨み合っていた栗栖野ミサと親分だったが、やがて尊を庇うように立っていた栗栖野ミサは、射線を空けるようにその場をどいた。
「……いいでしょう、それが正しいと思うのなら、その引き金を引いてみたらどうです?」
「え? は、えええええ!?」
親分の向ける銃口に、尊は無防備な姿をさらす。まさかこの土壇場で見捨てられるとは思っていなかった。
「……本気か?」
いきなりの心変わりに、怪訝な表情の親分。そして栗栖野ミサは自信ありげに微笑んで言った。
「ええ、ただしそれがどのような結果になっても。それは貴方の責任です」
「いいだろう……」
人一人殺す事など造作も無いというように、親分は拳銃の引き金に掛かる指に力を込める。
(あ……なんだろうこの感覚。何かに包まれて、守られているような)
その瞬間感じた暖かい感覚は、銃を向けられた尊の不安を完全に拭い去る。もう何も怖いものなんてない、何故だかそう思ってしまった。
そして引き金が引かれ、火薬の爆ぜる音。それと共に何かが砕け散る音と鮮血が座敷に舞った。
「ぐあああああああ!!」
「親父!?」
腕から血を流しながら膝を屈したのは、親分こと風雲寺炎間の方だった。誰が何をしたわけでも無く。傍から見れば拳銃の暴発という結果に終わった。
だが、栗栖野ミサはその有様をこう論じる。
「やはり邪な力に頼る事はろくな結果を呼びません。『十字架の裁き(ホーリークロスジャッジメント)』、これは神罰です」
そう言い残し、尊と共に栗栖野ミサは風雲寺家の屋敷を抜け出した。
一つ間違えれば、誰かが命を落としていた筈のその場において誰も死人が出なかったのは、一重に彼女が居た事がその理由であったのは間違いない。
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「送ってくれてありがとう」
尊は本日二度目の心からの感謝を栗栖野ミサに伝えた。
屋敷は尊が住む帯瀬間市内にあり、少し歩けば知っている道に出たが、それでもいつまた強面の男達に囲まれるかと思うと、気が気では無かった。
「いいえ、貴方を守る事は主より仰せつかった事。私にとっては当然の行いです」
「ははは、もうそれでもいいや。とにかくありがとう」
栗栖野ミサの宗教じみた物言いも慣れてきたのか、尊は気にする事は無くなっていた。そんな心境の変化に自分で驚きつつ別れを告げる。
「それじゃあ、また月曜に学校で。もう暗いから気を付けて帰ってね」
栗栖野ミサを送っていくべきか尊は考えたが、屋敷での事から察するにその心配は無用だと解りきっていたので、言い出すのも憚られた。
「いえ、大丈夫です。私も同じところに住みますので」
「え? 栗栖野さんもここに住んでるの?」
尊は団地に部屋を借りているので、おかしい事は無いが、栗栖野ミサの言い方は少し違和感があった。
そして生憎と、尊の感じた違和感は現実のものであった。
「今日からですが、私も目黒さんと同じ部屋に住む事にしました。荷物などは昼に早退して、既に運び込んであります」
「ああ、だから昼休みから教室に居なかったんだ……って、ええええええええええええ!?」
違和感どころの話では無く、完全におかしい事を平然と言われた。
「昼に目黒さんに言われた事、私なりに考えて答えを出しました。私が信用できないと言われましたよね? ならばまずは私を知ってもらおうと考えたのです」
「それが一緒に住むって結論に?」
「はい」
(ないないない、おかしい、絶対おかしい。栗栖野さんが変人だとは気付いていたけど、ここまでぶっ飛んだ思考は流石にない)
そりゃ世の中には、好きでもない相手と恋人になったりという話はよくあるが、出会って二日で同棲なんて聞いたことも無い。
一人暮らしの尊にはそれをうるさく言うものは誰も居ないだろうが、そう言う問題では無い。
「駄目駄目!! 高校生の男女が同棲なんて、問題大有りでしょうが!!」
「私は構いませんよ?」
「僕が構うんだよ!!」
想像しただけで疲れ果てるような毎日に、自ら身を投じるような馬鹿は居ない。自分の身は自分で守れることを前提とした、栗栖野ミサならではの言い分だが、尊の事は考えているのだろうか。
「それに風雲寺家にネクロノミコンの事が知られた以上、今日の様な事が又ないとも限りません。そうなった場合、私が近くに居る方が都合が良いと思います」
「ああ、そういう事も考えてくれてるんだ……いや、でも駄目!!」
一応尊の事も考えてくれているだけに、余計に性質が悪い事になっていた。
(ああ、どうすればいいんだろ……)
ある意味味方のいない現状において、尊の最大の敵は自身の意思の弱さといえる。
結果として栗栖野を拒絶しきれなくなった尊が折れるのは、もはや時間の問題であった。




