第五話 『神使』栗栖野ミサ
目黒尊は憂鬱な気分で階段を上っていた。
午前の授業が終わり、昼休みの時間。それは学生にとって苦痛でしかない授業の合間の、憩いの一時。
(……こんな気分で、昼休みを迎えるのは初めてだよ)
尊が足取り重く階段を上るのには理由がある。
それは、栗栖野ミサに呼び出されたから。正直なところ、尊にとって二度と関わり合いになりたくない相手であり、それに応じるのも拒否したいところだった。
しかし、そう言っていられない事情もある。
先日に栗栖野に呼び出された際に見せられた光景と、尊自身の変化。それを理解する為には、栗栖野と向き合う事も必要だと尊は感じていた。
(……そもそも、昨日はあの後逃げ出しちゃったからな)
魔術だとか、奇跡だとか、現実味の無いものを見せられ、そして自分自身がそれを行使したという事実に、尊は混乱をきたして、あの場を全力で逃げ出した。
それを栗栖野が追いかけてくるような事は無かったが。今日の朝、尊が登校すると栗栖野は、昼に学校の屋上で会いたいと告げてきた。
その呼び出しの理由は、十中八九先日の呼び出しと同じものだろうが、先日と違う点は尊が『ネクロノミコン』というものに、少しだけ興味が出てしまっている事。
昨夜見た夢の事もそうだが、栗栖野がそれに拘る理由も知っておきたい。そうしなければならないと思うのは、少しの好奇心と期待。
(平凡な生活。それに不満なんてなかったけど……)
今の目黒尊には、昨日の一件で知ってしまった非日常への好奇心も確かにあった。それが危険なものだとしても、未開の土地に踏み入れてみたいという気持ちは誰にでもあるだろう。
(……それに、知らなければいけない。そんな気がする)
ネクロノミコンとは何なのか、そして栗栖野ミサが何者なのか。それを知らなければ、今後の学校生活にも大きく響いてくる。
(でも、栗栖野さんか……正直、ちゃんと会話できる自信がないよ)
昨日話した限りでも、かなりぶっ飛んだ性格だという事だけは、容易に理解できた。それを思うと、尊の足はもう一段重くなるが、それでも止める事は無く階段を上がっていく。
「逃げちゃ駄目だな、うん」
結局どうあっても、栗栖野とは教室で顔を合わせてしまう。最初から逃げ場など無かったのだが、尊は前向きに自分で決意したと思った事にした。
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尊が階段を上りきると、いつも鍵がかかっている筈の屋上の扉が開いていた。どうやって開けたのかは考えないようにして扉を開け、屋上に赴く。
そこにはフェンスに寄りかかって分厚い本を読んでいる、栗栖野ミサの姿があった。
栗栖野は尊が来た事に気付くと、その本を閉じて会釈をした。
「呼び出しに応じて頂いてありがとうございます。立ち話もなんですから、こちらで座って話しませんか?」
そうして手招きする栗栖野の言う通りにする事は、尊には少し抵抗があった。
「……心配しなくても、昨日のようにいきなり体の自由を奪うような真似はしません。今日は話だけをするつもりで来ましたから」
「いや、それなら立ち話でいいよ。栗栖野さんの近くに行くのは、まだ僕には抵抗があるから」
昨日の仕打ちを思えば当然だろう。それは栗栖野も解っているのか、近づこうとせずに少し遠めの距離で話し始めた。
「昨日は、あの後何か変化はありましたか?」
「……何もないよ」
変な夢は見たが、栗栖野ミサは夢の話をするような気やすい相手では無い。昨日の行為の意図も、その目的も解らない、尊にとっては敵に近い存在。
だから尊は出来るだけ自分の事は話さずに、栗栖野から情報を引き出したいと考えていた。
「昨日の事はしっかりと憶えていますか?」
「憶えているよ。栗栖野さんに呼び出されて、十字架に磔にされて、意味不明な質問をされて、その後風雲寺くんが現れて栗栖野さんと戦っていた……全部、憶えてるよ」
尊のその返答に、栗栖野は首を振った。
「私が聞いているのはその後の事です。貴方が『深書ネクロノミコン』を手にして、発現した魔術で自殺しようとした時の事です」
「それは……」
同じことを夢の中でも聞かれたが、あの時どうして自殺しようと思ったのか、尊には解らない。自分の意志でそうしている事ははっきり憶えているが、尊にはその理由がいくら考えても見つからなかった。
「……それに応える前に、僕から聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「『ネクロノミコン』が何なのか、それを教えてほしい。あと、それが僕に何の関係があるのかもね。栗栖野さんの問いに応えるのは、その後でもいいかな?」
尊がこの場に赴いた目的は、栗栖野からそれを聞き出す為。まずは、その目的を果たしておくべきだと考えた。
栗栖野のペースに任せては、昨日の二の舞になりそうであったし。何より尊だけ喋らされて終わり、なんて状況にならない為にも。
「それは後でお話しするつもりでしたが……いいでしょう、お話しします。その前に目黒さん、貴方はネクロノミコンについて、どこまで知っていますか?」
「……なんとか神話の、架空の書物だってのは聞いたことがあるけど?」
つい今朝、人伝で聞いた話で自信はあまりないが、尊は憶えている限りで答える。
「なるほど、一般的なネクロノミコンの知識はあると……では『深書ネクロノミコン』については何か知っていますか?」
「深書?」
「ええ、数あるネクロノミコンの贋作の内の一つです。その様子だと、やはりご存じなかったようですね」
「贋作……つまり偽物だね」
今朝索川に聞いた話の中に、それについても少しだが触れていた。
「そうです。しかし、偽物と言っても、それは魔道書としての力を持つ……いわば本物のネクロノミコン」
「偽物なのに、本物? ちょっと意味が解らないけど」
「……普通、魔道書の贋作はそれに憧れる素人が作り上げるもので、何の力も無い唯のアンティークの域を出ないものですが。『深書ネクロノミコン』は力のある魔術師が作り上げた、本物の魔道書としての力を備えた物なのです」
栗栖野はそう言って、尊の身体の中心を指差した。
「そして『深書ネクロノミコン』は今、貴方の中に存在しています」
「はい?」
尊は栗栖野の指に誘導されるように、自分の身体を見るが、特に何もなくいつも通りの制服姿が見えるだけ。
「中と言うのは、体内の魂源の部分の話です。貴方の精神は深書ネクロノミコンと結びついている。昨日貴方がそれを用いた時に、私は理解しました」
「魂源だとか精神だとか、一体何の話? 本の話をしていたのに、何でそんな事になるの?」
「元々深書ネクロノミコンは、魔道書としてのその危うさから焚書処分とされた物です。しかし、その時には既に魂が宿っており、深書ネクロノミコンは本という媒体を捨て、魂だけの存在になりました」
「……魂って、えーと、幽霊とか精霊みたいな感じ?」
尊は栗栖野の言葉を何とか理解しようと、ゲームで得た知識からそれっぽい言葉を抜き出した。
「そうです。日本の古くからある民間信仰の観念から言えば、付喪神といったところでしょうか? 物に人格や魂が宿るという話は、それほど稀な事では無いのです」
そんな話は初耳に近かったが、尊が知らなかっただけで、栗栖野の知る限りではよくある話なのだろうか。
(物に宿る人格や神様か……つまり、深書ネクロノミコンは本の精霊って感じなのかな?)
どうにもしっくりこないが、そう思えば夢でネクロノミコンと名乗った本が、言っていた事と合致する気がした。
(……夢の中のネクロノミコンも、表裏一体あるいは二心同体と、栗栖野さんが言うように魂源で結びついた存在だと言っていた)
「つまり、僕はネクロノミコンの精霊に憑りつかれているって事?」
幽霊とか精霊だとかという話をそっくりそのまま信じたわけでは無いが、栗栖野の話を尊なりに解釈するならそういう事になる。
「そうですね、そして深書ネクロノミコンに関して、私が知っているのはこの程度です。私は魔術師でも精霊使いでもないので、本の内容については何も知りません。ですが……」
栗栖野は一度言葉を区切り、険しい面持ちで尊に告げる。
「深書ネクロノミコンは魔術師の間でも、禁書指定にされるほど危険な物です。一説によれば魔術の深淵を記されている事が、深書と呼ばれる由縁だと言われております」
それがどれだけ危険な物なのか、尊には解らないが。栗栖野の表情から、彼女がネクロノミコンをどれだけ危険視しているのかが見て取れた。
「……そんな物が、どうして僕の中にあるの?」
「それは私にも解りません」
「え? なんで? 僕は昨日まで、ネクロノミコンの事なんて何も知らなかった。でも栗栖野さんは僕よりもネクロノミコンについて詳しいし、何よりも昨日呼び出したのはそれについて、僕を問い詰める為だったじゃないか」
今思い出しても、色んな期待を踏みにじられた事は若干腹立たしいが。それを差し引いても、尊とネクロノミコンとの関わりを最初から知っていたかのような、昨日の栗栖野の言葉と矛盾すると思ったのだ。
「確かに、私は貴方と深書についての関わりを、ある程度は知っていました。しかしこの目で見るまで、深書が貴方の魂と結びついているという事は知りませんでした。主に命じられた事に、そこまで深い内容について知らされていなかったのです」
「主?」
何やら雲行きが怪しくなってきたことに、尊は戸惑いながらも尋ねる。
「はい、私は主より頂いた『天啓』によって、貴方が深書と関わりのある人物だという事を知りました。そして私が貴方と接触したのも、『深書ネクロノミコンを手に入れ、決して誰にも渡してはならない』という主の言葉を守る為でした……」
「……主って、誰の事? もしその人が僕とネクロノミコンについて何か知っているなら、教えてもらえるのかな?」
「主とは、我らが神の事。そして残念ですが、私のような『神使』であっても、神に直接語りかける事は不可能です。神は滅多な事でこの世界に干渉はしませんし、天啓として神の言葉を頂けるだけでも、この上ない光栄な事なのです」
主という言葉が出てきた時点で何となく予想できた展開、栗栖野ミサは尊が思っていた以上に、神というものへの信仰が厚いらしい。
(……それ以前に『天啓』に『神使』か、また知らない言葉が出て来たよ)
なんとなく聞き疲れてきた気がするが、それでも尊は嘆息しながらその言葉の意味を栗栖野に尋ねる。
正直なところ、あまりそこは踏み入りたくない世界だが、栗栖野について知っておくのは重要な事だと割り切る事にした。
「『天啓』とは神からのお告げで、信仰の厚い者だけが聞くことが出来ると言われています。それは多くの場合、何らかの試練を与えられることが多いです。そして『神使』とは、読んで字のごとく『神の使い』です。天啓によって授かった試練を神の代行として実行する、それが神使たる私の務めです」
「そ、そうですか……」
尊の苦手な宗教についての話であり、正直それ以上は聞きたくない。とりあえず、これ以上尊に有益な話は無い、という事だけは理解できた。
それが通じたのか、栗栖野は話を戻す。
「では、先程保留にした事についてお答えください。貴方が昨日、深書を用いた時に自殺しようとしたのは、貴方の意志ですか?」
「……いや、僕の意志じゃない、と思う」
曖昧な答えになったのは、尊もまだ答えが出せていないから。応えないでおくことも考えたが、栗栖野はここまで尊の問いに全て答えていたので、無視はできなかった。
栗栖野ミサはどう思ったのか、一度頷き考えるような素振りを見せた。
「そうですね、あの後は自宅に帰った後もすぐ眠ったようですし。起きて登校するまで、そのような素振りは一度も見せなかった。やはりあれは深書によるものだったのでしょうか?」
(うん? 今何か、栗栖野さんがおかしな事を口走ったような気が……)
栗栖野ミサの言葉を、尊が理解できない事は多いが、理解できる言葉でおかしな事を言われた気がした。
「何か、今の言葉だと昨日は一晩中、僕を見張っていたように聞こえたけど?」
「ええ、当然です。深書を宿す貴方を放っておく訳にはいきませんから。ちゃんと追跡して、見張らせていただきました」
栗栖野ミサは当然のように、そう言った。
「ちょ!? それってストーカーもびっくりの違法行為じゃないの!?」
見張りという行為の度合いにもよるだろうが、それは正直詳しく聞きたくは無かった。
「申し訳ありませんが、これも天啓を全うする為です。ですが安心して下さい、そのような事はしないで済むように手は打ってあります」
「いや、そういう問題じゃ……ああ、もう」
栗栖野の恐ろしくズレた考えに、尊はやっぱりコイツはおかしいと思いながら。それ以上の言及は無駄と知り諦めた。
「その手ってのは何?」
「知り合いの『魔祓い師』を呼んであります。魔祓い師とは悪霊や憑き物を落とす者の事で、深書と貴方の事を話したら、力になれるかもしれないと言っていました」
またしても知らない言葉が出たが、栗栖野はご丁寧に説明も交えてくれたので、尊が尋ねる手間は省けた。
だが、栗栖野の紹介と言うだけでも、尊は嫌な予感がしてしょうがない。
「……そんな勝手な事ばかり言われても、僕は良いとは一言も言ってないよ?」
「それではずっと監視される生活を送りたいのですか? 貴方がその身に宿す物は、放っておいて良いような代物ではありません。それは用いた貴方が一番良く解っているのでしょう?」
「それは……」
確かに危険な物だという事は解っている。栗栖野とは意識の違いこそあれ、それについてはおおむね同意だ。
だが、尊には栗栖野が許容できない。
「でも僕は栗栖野さんが信用できない。昨日の僕に対する行いが、その理由だ」
いきなり十字架に磔にされ、よく解らない力で胸に十字架を埋め込まれたりした。一応無傷ではあったが、そんな事をしてきた相手を簡単に許せるほど、尊は出来た人間では無い。
「昨日の事については謝ります。あれは深書が貴方と関わりがある事を主から聞き、貴方が魔術師であると誤解していたから。それについては、本当に申し訳ありません」
そう言って、素直に頭を下げる栗栖野を見て、尊は若干揺らぐが、それでもストーカー行為も含めて、謝罪は全然足りていない。むしろ謝って済む問題を超えている気がした。
「……正直に言えば栗栖野さん、僕はキミの神だなんだという宗教じみた考えも、キミ自身の事も嫌いなんだ。できれば、もう関わりたくない」
だから尊は、はっきりとそれを口に出す事が出来た。厳しい言葉で、言った尊自身にも重くのしかかる辛い言葉だが、今が言う時だと思った。
「僕の事は僕が自分で何とかする。キミの力は借りないし、借りたくない。だから放っておいてくれないか」
「――しかし!!」
「ネクロノミコンについて知っているのは、僕とキミ……あと居るのか知らないけど神様だけだろ? なら、キミがそれを隠しておけば僕は今まで通りに平凡に過ごせる。後は僕がネクロノミコンを使わずにいればそれで終わりだよ」
そもそも尊には使い方さえも解らない。だから誰かの干渉さえなければそのままで済む話。
「……貴方が絶対に使わない、という保証はありません」
栗栖野のそのあくまで引き下がるつもりは無いという姿勢に、尊は段々と腹が立ってきた。
「元はといえば、栗栖野さんが僕にしたことが原因じゃないのか!? これまで僕はネクロノミコンなんて知りもしなかったのに、きっかけを与えたのは栗栖野さんだ。キミさえいなければ、僕はきっと今まで通りに過ごせる、だからもう関わるな!!」
後半はもう、鬱憤を晴らすかのように強い口調に変わっていた、そんなに感情を露わにしたのは尊自身が驚くほどだった。
「……」
あるいは栗栖野にとっても、尊の言葉は思っていた事だったのだろう。それに対する反論は無かった。
「……ネクロノミコンについて、色々教えてくれた事にだけは感謝するよ。それじゃ、さよなら」
自分で呼び込んだ居た堪れない空気に耐え切れず、尊は逃げるようにその場を後にする。
栗栖野ミサは呼び止める事も、追ってくる事もせず、その場に立ち尽くしていた。
その後、尊は教室に戻ったが、昼休みが終わり午後の授業を終えても、栗栖野が教室に戻ってくる事は無かった。