第三話 『魔道書』ネクロノミコン
目黒尊は暗闇の中に立っていた。
周囲のどこを見渡しても闇、一つの光も届かないその場所は全く現実感が無い。
それもその筈で、そこは尊の夢の中。眠りに落ちた者が見る、深層心理の世界。
(……随分と陰気な夢だなあ)
尊は自分の夢をさしてそう思う。どうせ見るなら、闇しかないようなつまらないものでは無く、もっと楽しい物が見たいというのが当然であろう。
(……お?)
その願いが通じたのか、尊の前の景色に変化が生じた。闇しかなかった空間に蝋燭の火が一本灯り、そしてその光は見知らぬ人物を照らし出していた。
「初めまして」
いきなりその人物に声をかけられて、尊はかなりドキリとした。いくら夢の中ででも、知らない人間から声をかけられるのは緊張が伴う。
「……あ、どうも」
尊は軽く会釈をして、すぐにその場を立ち去ろうと思った。どうしてかその人物と関わってはいけない、そういう意識の訴えが聞こえてくるようだったから。
だが、意思に反して尊の足は動かない。
「……そんなに慌てないで、折角会えたのだからお話をしよう。目黒尊くん」
「どうして僕の名を?」
咄嗟に聞き返してしまったが、尊の夢の中の事なので、別に不自然では無い筈だった。
「そう、キミの夢の中だから私がキミを知っていても不自然では無い。だが、キミがそれを不自然だと思ったのはちゃんと理由があるよ」
そう言ってその人物は、いつの間にかその場にあった椅子に腰かけた。
「私という存在の記憶はキミには無いから、だからキミの名を私が呼んだことは不自然に思えたのだろうし、私がキミの夢の中に存在する事も違和感を覚えている筈だ。夢という深層心理の中だからこそ、キミの知らないものは存在できないのだからね、それが経験であっても想像であろうとも……」
正直その人物が何を言いたいのか、尊にはさっぱりだったが、一つだけ聞きたいことがあった。
「あなたは誰ですか?」
尊の単純な疑問に、その人物は薄く笑って答えた。
「私は私の名をネクロノミコンとしている。これは創造主が付けた二つとない名前だ……いや、実際には無数にある訳だがね」
いやに含みのある言い方をする人だが、名前はネクロノミコンというらしい。
(……ん? ネクロノミコン?)
尊にはその言葉を、つい最近聞いた記憶があった。
それは昨日、尊のクラスに転入してきた栗栖野ミサに問われた事。
『深書ネクロノミコンは何処にありますか?』
その時は何を言っているのかさっぱりわからなかったが、固有名詞であると栗栖野ミサが言っていたのも覚えている。
「そう、彼女がキミに問いかけたのは私の事だ。災厄の魔道書であるこの私のね」
「はい? 災厄の魔道書?」
いきなり何を言いだすのかと、尊が首を傾げると、突如としてその人物が視界から消える。
「――!?」
「おっと、驚かせたようだ。人の姿では想像できないだろうから元の姿に戻ったのだけど、要らぬ気遣いだったかな?」
一冊の本が椅子の上に置いてあり、さっきまで尊が話していた人物の声が、その本から聞こえていた。
「……いくら夢だからって、意味不明すぎるよ」
本と喋りたいという願望は尊には無い。そもそも、尊はそれほど本が好きな訳では無く、家の本棚には本の代わりに、ゲームソフトがびっしり詰まっているくらいだ。
「確かにこれは夢だけど、実は現実でもある。私という存在は現にキミの現実に影響を与えているからね」
「影響? ……それって、栗栖野さんの事?」
「それ以外に何かあるかい? キミが彼女と関わりを持ってしまったのは、私の存在あっての事だ。そうでなければ、キミは一生あのような異能者と巡り合う事は無く、平々凡々とした日々を送っていただろうさ」
椅子の上の本は、まったく微動だにしていないのに、声ばかりが溢れてくる。
「……どうして、僕はネクロノミコンなんて知らない。魔道書だか何だか解らないけど、そんなものと僕は、初めから関係ない話じゃないか」
「それは違う……キミと私は表裏一体、あるいは二心同体。同じ器を共にする魂源で結びついた存在だ。それが関係ないとするなら、キミと私はどちらも存在しない事になる」
ネクロノミコンはそう否定する。やはり、何が言いたいのかが尊にはさっぱりだった。
「表裏一体だとか二心同体だとか、何を言っているんだ? 僕はネクロノミコンなんて知らないし、聞いたことも無かったんだ」
「それはキミが私の事を忘れていたからさ。いや、私をキミに継承させた人物が忘れさせたから……だからこそ、これまで平凡な日々をキミが過ごす事が出来ていたんだ」
そう言ったネクロノミコンは、今までの落ち着いた声音とは少し違い、昂ぶっているようだった。
「……本当に忌々しい奴だよ。あいつはキミから記憶を奪い、そして更に私に対して封印を施した。おかげでこれまでの十年、私は開かれる事が無かったのだから、書物としてこれほど屈辱的な事は無かった」
「あいつ?」
「きっとキミは思い出す事は無いだろうね。それだけあいつの呪いは強くはたらいているし、本来は常人程度の魔力しか持たないキミには、到底打ち破れる物じゃないからね」
「何の話をしているんだよ、僕にも解るように言ってくれ!!」
ネクロノミコンの言葉は、どれ一つとっても尊の理解を超えている。
「……焦る必要は無いさ。もうキミは私を開くことが出来たのだ、後は少しずつ読み進めて行けばいい。最後まで読み終えた時、キミは私の全てを理解するだろうからね、本というものはそういうものさ」
そう言うと、ネクロノミコンは浮かび上がり、ひとりでに尊の目の前まで進んできた。
「……なんならここで少し読んでいくかい? 夢の中だが、私とキミの結びつきを考えると、おそらく現実に戻っても忘れる事は無いと思うよ」
ネクロノミコンのページが尊の目の前で勝手にめくられていく。それはまるで本がおどけているようであった。
「いや、読まない。ネクロノミコンだか何だか知らないけど、得体のしれない物を取る気には慣れない」
尊はネクロノミコンから視線を外し、はっきりと拒絶する。
「それは残念。私のような本の幸福は、所有者に読んでもらう事なのだけど……仕方ない、強制したくないしね。でもキミならもう一度、私を開いてくれると信じてる」
「……僕は何度も同じことは言わない」
「そうかい、それじゃキミの眠りを妨げるのも悪いし、この夢も終わりにする事にしようか。でも一つ聞いていいかい?」
「……なんだよ」
少しうんざり気味に尊は答えた。本と話すというのも、思いのほか違和感を感じるもので、大分疲れていたのだ。
「どうして死のうとしたんだい?」
「――!? それは……」
ネクロノミコンが尋ねているのは、尊が初めてネクロノミコンを使い、魔術を発現させた時の事。
尊は生み出した巨大な氷塊で、自分自身を押しつぶそうとした。それは自殺行為以外の何ものでもない。
「もしその理由が解らずに死のうとしたのなら、もしかしたらそれもあいつの呪いなのかもしれないな……」
言葉に詰まった尊から何かを察したように、ネクロノミコンは独りごちる。
「……ボクが死のうとしたのは、お前のせいじゃないのか?」
尊はおぼろげだが憶えている、自分が魔術と呼ばれる特殊な力を行使した事、そしてその時に自分の手には、今目の前にある古びた本を持っていた事を。
「確かにキミが魔術を発現させたのは、魔道書としての私の助けがあったからできた事だ。そう考えると、私のせいとも言えるが、しかしそれとキミが衝動的に死のうと思った事は別問題だ。あの時の魔術は、キミの確固たる意志の下で発現したものだったのだからね」
「……」
ネクロノミコンの言っている事は事実で、あの時の尊は自分の意志で死のうとしていた。しかし後になって考えると、どうして死のうとしていたのか理由が解らない。
「私はキミに死んでもらうのは困るんだ。読んでくれる者を失うのは、私の本としての本懐が遂げられない事を意味するからね……」
「……それじゃ、どう――――!?」
尊の目の前に、ノイズの様なものが走る。同時に、話そうとしていた言葉が出なくなった。
「ああ、もう時間が来てしまったようだ。もう少し話していられると思ったんだけど、これで一旦お別れだ……」
ネクロノミコンは、ひとりでに捲られていたページを閉じて、椅子の上にポトリと落ちる。
「……また会おう、今度はどこかの頁でね」
その言葉が響くと同時に、尊は夢から現実へ、容赦なく引き戻された。
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けたたましく鳴り響く目覚まし時計、自分の周りに三つも置かれたそれを順番に叩いて、目黒尊は目を覚ました。
「……最悪の目覚めだ」
ぼんやりした顔で、溜息と共にそう吐き出したのは、目覚まし時計がうるさかったせいでは無い事だけは確かだった。
「……変な夢、いや現実なのかな」
ネクロノミコンと名乗る変な本と対話した夢、しかし夢で済ませるには尊の身に起こった事と、不自然なまでにリンクしていた。
「………………とりあえず朝飯作らないと」
考えて、しかし考えても解らない事だと判断した尊は、解っている現実に目を向ける事にした。
今日は金曜日で、当然ながら学校に登校しなければならないという事。
そして一人暮らしの忙しい朝を、尊はいつも通りに過ごしていった。