第二話 『魔術師』風雲寺凍夜
「……では問います。『深書ネクロノミコン』は何処にありますか?」
「はい?」
栗栖野ミサの言葉は、それまで以上に目黒尊の脳を疑問で溢れさせた。
「『深書ネクロノミコン』は何処にありますか?」
(いや、二度も言われても……何て?)
意味不明な言葉に、そう言いかけたが。自分の自由を奪っている者を前に、滅多な事は言えない。
「あの……日本語でお願いします」
聞き覚えの無い、ネクロの何とかという単語はきっと外国語か何かだと思い、尊はもう一度聞き返した。栗栖野ミサはハーフだから、きっと日本語の苦手な所もあるのだろうと。
「固有名詞に日本語も何もありません。そのような誤魔化しはしないで、早く答えなさい」
苛立つような命令口調で、栗栖野ミサは鋭い目つきで尊を射貫いた。
「……そんな何なのかも解らないものが、何処にあるのかなんて知る訳ないじゃないか」
そんな栗栖野ミサの意味不明な問いかけよりも、尊は自分の胸に半分埋まっている十字架が気になってしょうがなかった。
確かに存在しているように見えるのに、まるで幻のように感触の無いそれが、尊にはとても気持ちの悪いものに感じた。
「……変ですね」
訝しげにそう言う栗栖野ミサ、どう考えても変なのは貴方です。というのが間違いない尊の本音。
「貴方は目黒命さんでお間違いないですか?」
「そうだよ、君が呼び出したんじゃないか! ……今更人違いだったとか言わないよね」
でもこの際、人違いならばそれはそれで願ったりなのかもしれない。十字架に磔にされて訳も分からないまま、意味不明な事を言われるこの状況から一刻も早く解放されたかった。
「いえ、やはり間違いないです……しかし何故……」
そんな尊の願いは届かないように、栗栖野ミサは、尊の胸に半分埋まった十字架を見つめながら、首をかしげた。
「……嘘を吐けば裁きが下るはずなのに――そこに居るのは誰です!?」
「え?」
何かに気付いたように振り返って、栗栖野ミサは背後から現れた人物に向かって叫んだ。
「なんでこんな場所に結界があるのかと思ってきてみたら、何か面白そうな事をやってんのな、おまえら」
現れたのは耳と鼻と口に合計8個のピアスを付け、改造制服という格好で登校する、筋金入りの不良。
それだけ強烈な見た目だから、尊はすれ違った事があるくらいの、その男の顔を憶えていた。
男の名前は風雲寺凍夜、尊の同じ学年の隣のクラスで、『歩く校則違反』とも呼ばれていた。
「……貴方は、魔術師ですね。ここは神前です、貴方の様な邪な者が近寄って良い場所ではありません」
いきなり風雲寺に向かって食って掛かる栗栖野ミサ。なんというか、彼女の辞書には物怖じという言葉は無いのだろう。
「邪ね、魔術師がここにいちゃ駄目なら、あんたが魔力で具現化してるその十字架は何だ? 俺の常識で言えばそれも立派な魔術だぜ?」
「これは神の加護による『奇跡』。魔術などという邪なものとは一線を画す神聖なもの、一緒にされるのは心外です」
尊を置いてけぼりにして、二人の間で不思議な会話が始まっていた。
魔術とか魔力とか聞こえてくる怪しい単語は、尊は漫画やゲームからしか聞いたことが無い。だが、二人の物々しい雰囲気は、そういう娯楽作品の話をして、親睦を深めているようには見えなかった。
「奇跡ねえ……そうやって無抵抗の人間を拘束するのが奇跡なら、俺にも奇跡が起こせそうだな」
(あ、良い事言った風雲寺くん)
だがこの状況、ひょっとしたら尊が望んでいた助けとは、彼のことかもしれない。そう思い、見た目はかなり怖く見える風雲寺に、尊は恐る恐る頼んでみる事にした。
「風雲寺くん、見ず知らずの君に頼むのもなんだけど、見ての通り困ってるんだ。助けてくれないかな?」
「るせえよ一般人。俺はこの女と話してんだ、てめえは黙ってろ」
しかし風雲寺は見た目通りな不良らしく、尊はあっさりと一蹴された。そしてかなり凄みのある人睨みを貰い、尊の心は折られた。
「風雲寺凍夜……『魔葬一族』風雲寺家の落ちこぼれですか」
栗栖野ミサが何気なく呟いたその一言は、この場の空気を一変させた。
空気が凍ったという表現があるが、実際に息が白くなって、校舎や地面に霜が降りたのは、本来そういう意味で使う言葉じゃないだろう。
「……てめえ、いまなんつった?」
風雲寺のどすの利いた声、誰がどう見ても怒っているのが解る。
「落ちこぼれと言いましたが、何か? 貴方も自覚があるように見受けられますが、図星をさされて腹が立ちましたか?」
挑発するように続ける栗栖野ミサ、正直なところ見ているだけしかできない尊は、かなり胃が痛くなっていた。
「――っ!! 許さねえ」
風雲寺の怒りに呼応するように、冷え切っていく空気。そして彼が手をかざすと、氷の塊が空中に浮かび上がった。
「……」
栗栖野ミサは無言で尊の胸に埋まっていた十字架を引き抜く。尊の胸はそれが埋まっていた形跡もまるでなく、全くの無傷だった。
(……とりあえず、良かった。穴が開いていたら、流石に死んでたよな)
実感が無さ過ぎて、そこまで考えていなかったから、今更になってかなり恐ろしい事をされていたのだという感情が湧いてきた。
しかし、まだだ、安心するのは早い。何が何だか尊には理解が追いつかないが、目の前で対峙している二人の気配は尋常ではない事は解る。
尊の本能はさっさと逃げろと警鐘を鳴らしているが、生憎と尊を磔にする十字架は残ったままである。
「くらえよ!!」
風雲寺の気合いと共に、空中に浮いていた氷の塊が弾丸のように栗栖野ミサに向かう。
氷の大きさは小石程度だが、その勢いでぶつかれば、下手したら大怪我を負うだろう。
「あぶ――!?」
尊が反射的に危ないと叫びそうになった時、それは起こった。いや、何も起こらなかったというのが正しい。
確実に栗栖野ミサに向かっていた氷は、空中で見えない壁に阻まれるかのように、粉々に砕け散った。
「……これが魔術ですか、これなら冷蔵庫の方が、まだマシな氷が出来上がりますよ。落ちこぼれさん」
嘲笑するように吐き捨てる栗栖野ミサ。
それに伴って怒りのボルテージを上げていく、風雲寺凍夜。
「――上等だ!! 本当の魔術、見せてやらあああああ!!」
今度は先程の氷の礫とは、比較にならない程の質量をもつ巨大な氷柱が、その切っ先を栗栖野ミサに向けて生み出される。
それも一つではなく、四方八方を囲むように、尊の視界から栗栖野ミサが見えなくなる程、埋め尽くされた。
(あれが、魔術……)
そしてようやく尊は実感した。漫画やゲームの世界でしか、存在を認知していなかったその概念が、目の前の現実に存在する事を。
「氷葬だ!! 後悔しても、もうおせえぞ!!」
興奮状態にあるように、肩で息をしている風雲寺が猛ると同時、視界いっぱいの氷柱が全て栗栖野ミサに襲い掛かる。
その暴力の結果は間違いなく死、こんな普通の高校の校舎裏で、そんな舞台が繰り広げられるなんて誰が想像するだろうか。
(……でも、なんだろうな)
それを、尊は冷めた目で見ていた。栗栖野ミサが死ぬ事がどうでもいいわけじゃない、どういう訳かそれで彼女が死ぬところを、どうしても想像できなかった。
そしてそれは一瞬で現実になる。
「――な、に!?」
ただ一人、その状況が信じられない風雲寺が驚いている。
巨大な氷柱が、またも一瞬にして全て粉々になる。さっきの氷の礫は見えない壁にぶつかったようだったが、今度はしっかりと何に阻まれていたのかが、尊には見えていた。
半透明な光る障壁。どこか神々しさを感じるそれに守られて、その中心で十字架を握る栗栖野ミサは無傷であった。
「貴方程度の魔術では、神の加護を受ける私に、傷を負わせる事は一生不可能です」
そして一歩踏み出す栗栖野ミサ。あわせて一歩退く風雲寺の表情は、何か異形の者に対峙したかのような恐怖に染まっている。
「く、くるな」
「……そして私は怒っています。貴方の様な者が神前に土足で入り込んだこと、大義ある儀式を邪魔した事……そして何よりも神の奇跡を軽んじた事を」
栗栖野ミサはそう言いながら、手に持っていた掌サイズの十字架を掲げた。
するとその十字架は、尊を磔にしている物と同じくらいのサイズに巨大化した。
「これは神罰です。『十字架の裁き(ホーリークロスジャッジメント)』御安心なさい、神の慈悲は貴方の命を奪ったりはしません」
「ひ、ひ、ぎゃあああああああああああ!!」
巨大な十字架は、風雲寺の身体を貫く。尊の時のように十字架に実態は無いようだが、風雲寺くんは苦痛の叫びをあげ、やがて失神した。
栗栖野ミサは風雲寺から十字架を引き抜く。やはり外傷は見られない。
「その痛みは、貴方の罪。だがその程度で済んだことを、貴方は神に感謝するべきです」
そう言って十字を切り、天に祈りを捧げると、栗栖野ミサは目黒尊の方に振り向いた。
「……では続きを」
やはり尊は解放されないらしかった、しかしそれよりも今は気がかりな事がある。
(……うるさい)
ずっと聞こえていた。
(……うるさい)
ある言葉を聞いた時から聞こえていた声。
(……うるさい)
それが頭に響き渡るほど大きくなったのは、魔術の存在を認識した時。
<試してみろ>
「――そんな!? どうしてそれがここに!?」
栗栖野ミサが身を怯ませる。その視線の先には一冊の本。
尊の身体の自由を奪っていた十字架は崩れ去り、その手には見知らぬ本が一冊開かれていた。
<試してみろ>
尊の頭に響き渡るうるさい声は、その本から聞こえて来ていた。
「今すぐその本を閉じて!!」
栗栖野ミサはそう叫ぶが、その前に一つやらなければいけない事があった。
「……うるさい声を黙らせるには、これしかないみたいだ」
空気が冷え切っていく、そして空の上に集まる大きな力。
「【第二百二十一項 氷結】さあ、僕を殺せ」
尊が空の上に生み出した氷塊は、風雲寺が生み出したものとは比較にならない程の巨大さと密度を誇った。
そしてそれが、そのまま尊に向かって落ちる。その先を想像するとすれば、ミンチになった自分の姿。
<初めてにしては上出来か>
そう言い残して、うるさかった声は聞こえなくなった。
尊の手にあった見知らぬ本も、いつの間にか消えていた。
「……どうも、ありがとう」
尊は光る障壁に守られて、氷の中に埋まっている。
「どういたしまして」
物凄い近くから聞こえてくる栗栖野ミサの返答に、尊が照れなかったのは、きっと彼女の事が嫌いだったからだと、そう自覚した。
それが、目黒尊が初めて災厄の魔道書である、『深書ネクロノミコン』を使った瞬間だった。