第十四話 『専属SP』間藤礼二
目黒尊は暗闇の中に居た。
一寸先も見えず、自分が立っている場所も解らない感覚。まったく現実味がなく、まるで夢でも見ている様であった。
「いや、うん。これは夢かな……」
尊がおぼろげな感覚と記憶を繋ぎ合わせてみたら、合致する経験があった。
つい最近見た夢で同じような場所に立っていた。そしてそこでネクロノミコンと対話したという事も思い出す。
「対話が出来る魔具だなんて、やっぱり本物かしらね」
「え?」
暗闇の中にありながら何故かはっきりと認識できる人物。突然目の前に現れたそれに、尊は目を丸くした。
「……ひょっとして、索川さん?」
「ええ、そうよ。と言ってもここにいる私は、眠っている目黒くんと対話する為に用意した端末に過ぎないわ。本体は現実世界でここの掌握と解析を進めているところ」
索川一弓の聞きなれた声、見慣れた無表情だが、尊は何か違和感があるように感じた。
(ああ、そうか……面と向かって話しているからだ)
いつも携帯電話を覗きこんでいる索川が、顔をずっと上げているのは珍しい。だからなのか、どうにも調子が狂ってしまう。
「ちなみに目黒くんの精神の表層部分は、既に掌握済みだから。考えている事は筒抜けになっている事を自覚した方がいいわよ」
「え!? マジで、そんな事も出来るの?」
「人間の思考なんて電気信号の繰り返しよ。そんなの、解読するのは魔術じゃなくても可能だわ」
「……そうですか」
まるで常識のように言ってのける索川に、プライバシーを現在進行形で侵害されている尊は苦情を言いかけたが、それは言わなくても伝わっているからと釘を刺される。
「表層部分には、やはりネクロノミコンに関係する記憶はほとんど無いわね。あるのは目黒くんが以前に見た夢の事と、栗栖野ミサの前で発現させた時の事くらいかしら」
尊の不満はさておいて、索川は自分の仕事を進めているようである。
「それにしても、目黒くんの精神は変よ」
「はあ!? 精神が変って……今までに索川さんに吐かれた毒の中で一番きついかもしれない」
リアルに凹み、地面らしき暗闇に両手をついて項垂れる尊。
「ああ、違うの、そういう意味では無く……今までの経験から加味してみると、ここは凄く狭くて壁が多いのよ」
「壁?」
「そうよ、目黒くんの深層心理の多くは固い精神障壁で守られている。それも一枚一枚が米軍のファイアーウォール並みの保護力でね」
「例えが解りにくいんだけど、それっておかしい事なの?」
「ええ、魔術師が呪術の類から守るためには、心の中に封印を施す事はあるけど……これは異常だわ。そうね、まるでもう一つ……」
索川は難しい顔をして何か考え込んでいる、尊はそれに少し不安を抱いた。
「何か問題があるの?」
「……いえ、深いところを調べてみないとまだ何とも言えないけど、とりあえず精神障壁を突破していくしかないわね。クラッキングはあまり好きでは無いのだけど」
言いながら手を前に突き出した索川。尊が目を凝らすと、確かにうっすら壁の様なものが見えた。
「それじゃ、ちょっと揺れるわよ」
言葉の後に響く震動、そして何かが割れる音。
尊は頭を押さえるが、別に痛かったりしたわけでは無い。そのすぐ傍では、索川が心配そうに様子を見ていた。
「どう? 問題ない?」
「……それって問題が発生しそうな事をしたって事かな?」
索川が何をしたのか尊にはさっぱり解らないが、この不思議空間の変化が自分の意識に何か作用した事は感じていた。
「まあ度合いにもよるけど、こうして普通に話が出来ているのなら問題ないわ」
そう言って少し進み、また壁の様なものに手を付いた索川。
どうやら尊の意識がこの場に置かれているのは、索川の力が正常に及んでいるのかを定める為らしい。
「あまり時間はかけずに次々進みたいわね、そうじゃないと面倒なのが――あ!?」
言いかけた索川の言葉が途切れ、代りに先程よりも数倍大きな震動が暗闇を揺らす。
尊は学校の避難訓練を思い出し、その震動から逃れる為に身を隠せる場所を探すが、暗闇しかないこの場では無意味な行為だった。
「……落ち着いて目黒くん、ちょっと外で問題が発生しているだけよ。結界が崩れたせいで私の力が少しだけ落ちてしまっただけ」
「外って?」
「精神や意識の外は現実、つまり貴方が眠っている神代機関の事務室を指すわ。まったく忌々しいわねあの女……」
虚空を見つめ、表情を険しくする索川。いつも冷静な表情しか浮かべない筈のその顔が違う色を見せた事で、尊は相当な異常事態が発生している事を知る。
「あの女って、まさか」
索川の顔色を変えさせた人物。尊がそれをもし予想するとすれば、一人だけしか名が浮かばない。
栗栖野ミサの名は、尊にとってはもうどうしようも無い程の非日常の表れなのだった。
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机や椅子を吹き飛ばし、人が一人転がりこんでくる。
風雲寺空は自前のスーツをほつれさせ、整った髪を乱れさせ、事務所の入り口から窓際まで吹き飛ばされていた。
「空さん。栗栖野ミサの事は貴方に任せた筈ですが」
クールな中に若干の怒りを帯びたような索川一弓の糾弾に、風雲寺空は誤魔化す様な苦笑いで返す。
「ははは、通常兵装では時間稼ぎにもなりませんでした。私に愚弟程の魔術の才があれば、と悔やむ所存です」
「言い訳はそれまでです」
索川は気を失っている尊の精神の解析を進めながら、同時に市庁内の結界の状態を修復する。
そして事務所に堂々と入ってきた人物に対しての、対応策を構築するのも索川の仕事であった。
「索川一弓……『混沌魔術』の申し子ですか。神の目すら欺こうとするこの結界は、悪しき力の最たるものですね」
入ってくるなり栗栖野ミサは、索川に向かってそう告げる。
「私が使うのは現代魔術よ、間違えないでほしいわね。人の庭に土足で入ってくるなりの挨拶がそれとは、かの『狂信者』は噂どおり礼儀もなっていないのね。そんなんじゃ貴方の信仰する神とやらの徳も知れたものだわ」
索川はキーボードを打つ手を休めずに、背中を向けたまま栗栖野に言葉を返す。
双方が双方ともに、突いてはいけない藪を突いた瞬間であった。
「……女性って怖いですねえ」
まるでその場をせめぎ合う後光と瘴気が見えるような気がして、風雲寺空は深々と嘆息する。
実際に見えない所では既に、索川一弓と栗栖野ミサは戦いを始めている。現代魔術と神の奇跡、その戦いの勝利を決めるのはこの場の支配権。
風雲寺家で見せた様に、栗栖野ミサが結界を構築してしまえばそれで全てが無力化されて終わる。それをさせぬ為に索川は余裕のように見せながら、限界まで鎬を削っていた。
「私も手伝いたいところですが、これは無理ですねえ……」
風雲寺空の肩と足には十字架が突き刺さっている。痛みも何も感じないが、それは身体の自由を確実に奪っていた。
「何の用でここに来たの栗栖野ミサ?」
「勿論、そこに居る目黒さんを取り戻すためです。貴方達魔術師にはネクロノミコンを渡すわけにはいきませんから」
「そう、でも私達としても貴方の教団に目黒くんが囲われているのを良しとしないわ。宗教家ほど何をしでかすか解らないものは無いし、ネクロノミコンについてもまだ解析の途中だもの」
「主の導きは、魔術師のネクロノミコンへの接触を禁じております。私は神命に則り意志を示す神使、貴方達が手を引かないのであれば実力行使も止む無しです」
「不法侵入しておいて、今更何をいっているんだか」
「十戒には背いていません。それに法に背いているのはむしろ貴方の方では無いですか?」
噛み合わない会話の中、栗栖野ミサはとうとう動き出す。
「隣人に偽証してはならない、隣人の財産を欲してはならない、十戒にもある人と人との基本的なあり方です。それが出来ない、あるいは解っていない貴方達はやはり悪しき者」
腕に抱えた大きな十字架は、まるで栗栖野の言葉に呼応するかの如く、剣のような鋭さに変わる。
「……辛くても偽らなければならない時もある、この世界で力持つ者が生きるには友人だって騙さなければならない時もあるわ。それが解らない貴方には、やはり目黒くんを任せておけない……」
索川もキーボードを打つ指の速度が上がった。市庁全体にかかっていた結界が、事務所の中だけに集束して強化される。
それが、今までなりを潜めていた男が動き出す瞬間であった。
「間藤さん、頼みます」
「……ああ」
神代機関の専属SPである間藤礼二が、栗栖野ミサの前に立ちふさがる。今まで気配を発していなかった間藤に、栗栖野は多少の驚きを見せるが、次の瞬間には十字架を振り下ろしていた。
「神命を邪魔する者よ、その罪深さを知りなさい。十字架の裁き」
「無駄よ、来栖野ミサ。アップデート・エンチャント」
「――!?」
栗栖野ミサの抱えていた十字架は、間藤の手によって打ち砕かれた。その力に絶対の信頼持っていたのか、栗栖野はそれだけで動きを止めてしまっていた。
傍で見ていた風雲寺空も、その光景に驚きと若干の自信の喪失を見せていた。
これまで神の奇跡を名乗り、それに見合った奇跡を起こしてきた無敵の栗栖野ミサに対抗したのは、実際には間藤では無く索川一弓の力。
「栗栖野ミサ、貴方の力の本質は風雲寺家に構築された結界を解析して研究済みよ。当然このような事態における対策も練ってある」
索川の言葉を裏付けるように、間藤の身体からは光が上る。
それが索川の構築した結界が起こす、彼女の言う対策の一つ。間藤に付与された術式が栗栖野の力を無効化していた。
「耐火、耐電、耐水、耐刃、耐衝……そして貴方の言葉を借りるなら、新しく付与したのは耐神というべきかしら?」
SPである間藤にそれだけの力を発現させるのは、一重に索川一弓の本気である。目黒尊とネクロノミコンの解析を、如何なる者にも邪魔させぬという事の。
「そんな……人の身が、悪しき力が、神の奇跡に抗おうというのですか!?」
「私は私の出来る事をやる、友人の為にね……それが悪い事だなんて、誰にも、神にだって言わせないわ」
「――ぐっ!」
間藤が栗栖野を鮮やかな手法で組み敷く。腕を抑えられ、身体の中心を踏みつけにされた栗栖野は身動きが取れなくなる。
「……とりあえず、このまま抑えてるだけでいいか?」
「ええ、お願いします間藤さん」
索川はそう告げ、栗栖野の当来で効率が落ちていた元々の仕事を進める事にする。気を失ったままの尊を見つめながら、ノートパソコンのキーボードを打つ指を忙しなく動かしていく。
「このような事……いずれ貴方達には神の裁きが下るでしょう」
後ろでそのように漏らす栗栖野の言葉を、負け犬の戯れ言だと無視し、索川はもう違う世界にしか目を向けていない。
(もしもネクロノミコンが記録にある様な物ならば、私の手で消去する。神代機関が本気で動く前に……)
日本政府がその気になれば、索川の持つ力と権利では尊を守る事は不可能だ。
だから今はそうさせない為に、解析を早く終えねばならない。その急く気持ちと、ミスを許されない事への不安を抑えながら、索川は雑念が入らぬようにディスプレイの0と1にだけ集中する。
――だが、得てしてそういう時にこそ想定外の事は起こる。
索川は知っていた、目黒尊の周りには栗栖野ミサの他にもう一人、要注意人物が居る事を。
関係は知る限りでは誰より深い交友を持つ幼馴染、そしてその能力は未知数。故にこれは索川が何よりも恐れていた事態。
「……何をしに来たの? 窓ガラスを割って青春したいなら学校ですればいいじゃない」
索川の結界で強化されたスナイパーライフルでも傷つかない窓ガラスを割り、事務所に現れたのは御堂烈斗。
「いや、尊と飯食う約束してたんだけど、時間になっても来ないから迎えに来たんだ。そしたらなんか普通じゃない空気だったもんで、ついな」
御堂の手には担ぎ上げるように、一振りの剣が握られている。それを初めて見た者が剣と表現するには少し奇抜なデザインである、機械的で無骨な片刃の大剣。
それが御堂の力の源であり、彼をある偶像的な存在に結び付ける程の力を持っているのだと、索川は直感的に察した。
「その剣、なんて名前?」
「あ? いきなりなんだよ、本当に索川は脈絡がねえよな」
「……いいから答えて」
接点は目黒尊を通じてのみ、今まで数える程しか会話したことない二人。だがおそらく相容れないと索川の方は感じていた。
だから確かめねばならない。御堂烈斗の秘めていた力が果たしてどれ程のものかを。
「この剣の名前は、ワールドスレイヤー……聖剣・ワールドスレイヤーだ」
渋々と、若干恥ずかしそうに言う御堂。高校生にもなって、聖剣とか口に出すのは辛いものがあるのだろう。
だがそれを聞いた瞬間、間藤礼二と気を失っている目黒尊以外の三人は、揃って表情を歪ませた。
(なんて言霊なのよ……共通認識すら必要としない、ありえない力を持ったアーティファクト級……)
名を聞いただけで解るその脅威に、索川は深々と溜息を吐き、気を失っている目黒尊の顔を見る。
「……まったく貴方は、どんな星の下に生まれてるのよ」
とりあえず索川は、それが栗栖野ミサの言う神の裁きとやらとは関係ないと、絶対に信じたいと思ったのだった。