第一話 『宗教家』栗栖野ミサ
目黒尊は公立の高校に通う、どこにでもいる普通の男子高校生だ。
勉強もスポーツも平凡の域を出ない、部活動にも参加していない帰宅部で、多くの高校生が浪費する日常を、そのまま形作ったような日々を送っていた。
そんな彼にも、転機とも言うべき事柄がその日に起こった。
高校二年の夏休み明け、始業式の日にやってきた転入生が、放課後の校舎裏に尊を呼びだしたのだ。
転入生の名は栗栖野ミサ、ハーフらしく色素の薄い髪と肌にすっきりとした目鼻立ちの美少女で、この時期にめずらしい転入生という事もあり、すぐに話題になった。
なぜその栗栖野ミサに呼び出されたのか、その理由を尊は解らなかった。それほど社交的な性格では無い彼は、転入生と積極的に関わろうとは思っておらず、打ち解けようとする者達とは一線退いていたからだ。
だが、栗栖野さんに呼び出された事で、目黒尊の心の内には一抹の期待が膨らんでいた。
放課後、校舎裏、転入生、呼び出し、そんなキーワードから健全な男子高校生が連想するのは、おそらくただ一つ。
彼が縁自分にはの無い世界だと思っていた、青春というやつだった……実際に行ってみるまでは。
(……どこで間違ったのかな。どうしてこうなった?)
自問自答しながら、尊は現在の自分の置かれている状況について考えてみた。
今尊は、どういう訳か十字架に磔にされている。場所は校舎裏、正面には彼をここに呼び出した栗栖野ミサが居る。
(十字架……まず何でここにこんなものが? 第一、来たときには無かったよこれ)
等身大というのか、身長よりも少し大きめのその十字架に尊の身体は貼りついていた。
(どういう原理で貼りついてるのかな、これ。釘で打ち付けられているわけでも、縛られているわけでも無い、磁力とか粘着力とかでもなさそうなのに、まったく体が動かない……)
何がどうしてそうなっているのか、等身大のその十字架は、不思議な力が働いているみたいに、尊に身じろぎひとつさせてはくれなかった。
「ねえ栗栖野さん……これ、なんだろう?」
いくら考えても、その十字架については答えが出なさそうだったので、尊は目の前にいた栗栖野ミサに問いかけてみた。
もちろんこれは栗栖野ミサにとっても、意味不明な出来事であるとは思っていたが、自力でこの現状を脱するのは無理と判断していた尊は、彼女が誰か助けを呼んでくれることを期待していた。
しかし、尊の期待はまたも打ち砕かれた。
「この状況でその冷静さ、やはり貴方も一般人ではないのですね」
「え?」
質問には無視で返し、栗栖野ミサは尊をそう断定した。
「いや、どこをどう見ても一般人でしょ? 僕ほど自分を平凡と自負するものは、他にそういないと思うよ?」
冷静だという基準で彼女がそう判断したのなら、それは大きな間違いだ。尊は内心では今すぐにでも叫びあげて、誰かに助けを求めたい。
それをしないのは、目の前に栗栖野ミサが居るから。綺麗な子を前にみっともない所を見せたくないという、少し情けない自制心が働いているからだ。
「偽らなくても結構です。私は貴方の事を、周囲を欺いている事を知っています」
「え?」
何故かどんどんと、栗栖野ミサの中での尊のイメージが断定されていった。初対面に近い筈なのに、彼女の口調は、尊の全てを理解しているというような含みさえ感じられた。
(……ひょっとして栗栖野さんって、電波系? だとしたら、いくら美人でも関わりたくないぞ)
なんとなく彼女からは、関わり合いになるべきでは無い空気が感じられた。しかし、そうは思っても、この現状で頼れるのは栗栖野ミサだけだというのも確かな事だった。
「……とりあえず、僕が周囲を欺いてるとか、一般人かどうかはさておいてさ。どういう訳か、僕今この十字架に貼りついていて動けないんだ。悪いんだけど、誰か助けを呼んできてもらえないかな?」
単刀直入にそう頼むことにした。これならいくら電波な相手にでも、伝わるだろう。
しかし、尊の期待は三度砕かれる。
「質問があります。真実を、心して答えて下さい」
「いや、聞けよ!? 頼むから聞いてくれよ僕の話も!!」
清々しいまでの無視に、とうとう尊はみっともなく叫びあげてしまった。しかしそれにも栗栖野ミサは、眉一つ動かさない。自分のペースを崩さない。
「この問いの、返答如何によっては、貴方はこの場で神の裁きを受けます。注意しておくのは一つ、偽れば無事では済まないという事だけです」
そう言って、栗栖野ミサは手のひらサイズの十字架を一つ、制服のポケットから取り出した。
(いやいやいや、神? 裁き? いよいよもって、関わり合いになりたくない相手だぞ……)
尊の中で、宗教というものに忌避感があった。前に家に宗教の勧誘が来て、それが異様なしつこさで断るのに一苦労であったというのと、ニュースの特番で宗教詐欺について報道されていたのを見た事があったからだ。
それが一部の側面からしか見ていない偏見であるというのは、解っている。宗教が人の心に潤いやゆとりを与える事もあるだろう、それを生きがいにしている人が居る事も知っているし、尊にそれを否定する権利も気も無い。
だけど尊は栗栖野ミサという少女から『神』という言葉を聞いた時、思いっきり引いた。それはきっと、尊の深層心理の中で現状と結びつくものがあったからだろう。
十字架に磔にされる、そのイメージがとある神と重なっていたから。
(……まさかね)
この場に呼び出したのは栗栖野ミサ、電波な事を言って十字架を取り出した栗栖野ミサ、十字架に磔にされている尊を前にしても、異様なまでのマイペースさを発揮している栗栖野ミサ。
それを全てプラスして、イコールで結ぶ。
「……もしかして栗栖野さん、これは君がやったの?」
尊は磔にしている十字架をさして、栗栖野ミサにそう問いかけた。
「ええ、もちろん」
ようやく彼女から返って来たまともな返答は、尊としては否定してほしかった最悪の言葉。
そして栗栖野ミサは近づいて来て、その手を尊の身体の中心に向かって伸ばした。
「――!?」
尊は自分の目が信じられなくなった。栗栖野ミサが手に持っていた十字架が、自分の胸に突き刺さるのを見て、それが真実と認識できなかった。
その理由は、突き刺さった十字架の感覚が感じられなかったから。どう見ても尊の胸に半分程埋まった十字架は、何の痛みも触感も与えていない。
「『十字架の裁き(ホーリークロスジャッジメント)』、罪人か否か、全ては神の公正な裁きの元に……」
混乱極まる尊を前に、栗栖野ミサはあくまで自分のペースを崩さない。淡々と落ち着いた声音で、彼女は尊には理解できない言葉で問いかけた。
「……では問います。『深書ネクロノミコン』は何処にありますか?」
その時の栗栖野ミサの問いが、目黒尊の平凡な生活を一変させるきっかけだった。