恋人を死なせた男を、私はこの手で亡き恋人の身代わりにした
プロローグ
早川湊が亡くなってから八年。そして、私が御堂怜央と付き合い始めて四年目の記念日。怜央は私の名義で、市川河川敷花火大会のフィナーレを飾るスターマインを協賛していた。
最後の光が夜空にほどけると、怜央は背後から私を抱きしめ、目を閉じて願い事をした。耳元に落ちてきた声は、遠い昔の別の人によく似ていた。
「澪。君は僕が愛している人であるだけじゃない。僕を深い闇から引き上げてくれた人でもあるんだ」
帰りの電車で、怜央はInstagramのストーリーズを更新した。黒い夜空に、消えかけた花火の残光だけが浮かんでいる。添えられた言葉は、ひどく短かった。
「聞こえた?」
北川直人が、ほとんど間を置かずに返信した。
「聞こえた。昔と同じ場所だったな」
あの花火が私のためだけに打ち上げられたものではないと知っても、悲しくはなかった。私にとって、怜央は救わなければならない相手ではない。
湊を死なせながら、自分だけ生き残った男だ。
私が自ら彼の家庭教師になった日から、救うつもりなど一度もなかった。湊が歩めなかった人生を怜央に最後まで歩かせ、幸福に最も近づいた瞬間、あの海へ連れ戻す。
それが、私の望んだ償いだった。
1.家庭教師
五年前。二十二歳だった私は、東都大学人間科学部心理学科の四年生だった。怜央は二十歳で二浪中。昼は大手予備校に通いながら、夜になると仲間とバーやゲームセンターに入り浸り、峠道を走り回っていた。
私は家庭教師派遣会社を通じ、御堂家の依頼を引き受けた。宗一郎さんは成績証明書と指導経験に目を通し、私が全国模試で上位に入ったことも確認したうえで、孫をもう一度机に向かわせてほしいとだけ告げた。
誰も知らない。私は三か月かけて怜央の生活を調べ、この仕事が空くのを待っていた。
初めてバーへ迎えに行った夜、耳をつんざく音楽と揺れる照明のせいで、頭が割れそうだった。怜央は個室の奥にあるソファ席へ深く腰掛け、長い指でグラスの縁を叩いていた。
湊と七、八割ほど似た顔立ち。それでも、こちらを見る目はまるで違っていた。
「白石先生も飲む?」
挑発を隠そうともせず、怜央はグラスを私の前へ押し出した。周囲の会話が一斉に止まり、私が逃げ出すところを見届けようとする視線が集まった。
彼を迎えに来たのは、これが初めてではない。わずか三か月の間に、怜央は峠道で無茶な走りをし、予備校の近くで喧嘩まで起こした。私は散らばった教材を拾い集め、何度も深夜の街から御堂家が借りた部屋へ連れ帰っていた。
グラスを手に取り、一杯、また一杯と飲み干した。強い酒が喉を焼き、胃の中まで熱くなる。周囲の囃し立てる声は、ますます大きくなった。
怜央はソファに身を預けたまま、止めようとも、視線をそらそうともしなかった。
テーブルの酒が空になると、久世拓真が口笛を吹いた。怜央と同い年で、御堂家の名を笠に着て騒ぎを起こすことを何より楽しんでいる男だった。
「御堂、おまえの家庭教師、なかなか面白いじゃん。興味ないなら、俺が遊んでもいい?」
「好きにすれば」
怜央はまぶたさえ上げず、上着をつかんで個室を出ていった。久世はすぐに私の隣へ移り、酒瓶を手にして肩を押さえつけた。
瓶の口が唇に押し当てられ、酒が顎から襟元へ流れ落ちた。激しくむせながらも、周囲から押し殺した笑い声が聞こえた。
「白石先生、そんなに強いなら、もう少し付き合ってよ」
久世の手が腰へ滑り、舌先が首筋をかすめた。吐き気をこらえ、扉の向こうから怜央の姿が完全に消えるまで待ったあと、全力で久世を突き放し、テーブルの酒を顔へ浴びせた。
逆上した久世の手が、私の首を締めつけた。息ができず、胸が押し潰されていく。私はスマートフォンの側面にある緊急通報機能へ指をかけ、彼の背後にある防犯カメラを見据えた。
「店の防犯カメラに全部映っています。宗一郎さんにも、私がここへ来ていることは伝えてあります。これ以上触ったら、今すぐ警察を呼びます」
それでも、久世の手はすぐには緩まなかった。
視界が暗くなりかけた瞬間、個室の扉が激しく開いた。戻ってきた怜央が、久世を一発で床へ倒した。
店員が駆けつけ、ほどなくして一一〇番通報が行われた。警察は私たちから個別に事情を聴き、病院では首の負傷が診療記録に残された。久世を殴った怜央も事情聴取を受け、翌日には宗一郎さんが依頼した弁護士が警察署へ来た。
目を覚ましたのは、病院の経過観察室だった。窓の外は白み始め、怜央はベッド脇の椅子で眠っていた。喧嘩でできた痣が口元に残り、前髪が目元へかかっている。
首筋の赤い痕を見て、私はようやく一つのことを確信した。
彼は戻ってくる。
私は自分を餌にして、怜央が本当に何も感じない人間なのか確かめた。答えは目の前にある。それでも、思ったほど嬉しくはなかった。
怜央は湊ではない。誰かを救う方法も、正しく守る方法も知らない。
見つめすぎていたのか、怜央がふいに目を開けた。寝起きのぼんやりした様子はなく、むしろ警戒するようにこちらを見返した。
「先生、そんなに見つめて。仕返しでもするつもり?」
私が答える前に、怜央は立ち上がって上着を肩に掛けた。
「腹減った。帰ったら何か作って」
宗一郎さんは受験勉強に集中できるよう、大学近くに一軒の1Kを借りていた。部屋へ戻ると、私は冷蔵庫に残っていたトマトと卵で温かい麺を作った。
怜央は器の色を見た瞬間、わずかに表情を曇らせた。それでも何も言わず、最後まで食べ切った。
「俺、トマト嫌いなんだけど」
「次は別のものにする」
うつむいたまま、怜央は箸を置こうとしなかった。
「髪型を変えたい。付き合って。どんなふうにするかは、先生が決めてよ」
美容室で、私はスマートフォンの奥深くに保存していた湊の写真を開いた。十九歳の頃に撮った一枚。短く整えた黒髪と、目元に隠しきれない笑みが残っている。
美容師は何も気づかず、今の髪型も似合っていると怜央を褒めた。鋏が開閉するたび、柔らかな髪が床へ落ちていく。私の意識も、遠い過去へ引き戻された。
湊は髪を切るたび、必ず私を連れていった。手には菓子と文庫本を押しつけられた。切り終わった直後は変に見えるかもしれないから、最初から最後まで見ていれば、澪ならきっと一番格好いいと思ってくれる。彼はいつも、そんな理屈を堂々と口にした。
「終わりました」
鏡の中で、怜央がこちらを向いた。もともと七、八割ほどだった面影が、同じ髪型になったことで、ほとんど重なって見えた。
指が震え、目をそらせない。鏡越しに私を見ていた怜央の瞳に、少しずつ怒りが満ちていった。
突然立ち上がると、怜央は鏡へ拳を打ちつけた。拳が当たった場所から細かな亀裂が走り、鏡面いっぱいへ広がった。
店長は宗一郎さんへ連絡した。運転手が駆けつけ、損害を確認して弁償を約束したが、怜央は処理が終わるのを待とうとしなかった。私の手首をつかみ、裏手に停めていた大型バイクのところまで引っ張っていった。
怜央は十八歳で大型自動二輪免許を取得しており、二年以上の運転経験があった。あの日、私たちは二人ともヘルメットを着用していた。それでも彼は山道で速度を上げ続け、カーブへ入っても減速しなかった。
まるで、二人まとめて限界の向こうへ追いやろうとしているようだった。
「御堂くん、止めて!」
返事はない。次の急カーブで車体が横滑りし、金属がアスファルトを削る耳障りな音が響いた。私たちはバイクから投げ出され、路肩へ転がった。
周囲が見えるようになるまで、どれほど時間がかかったのか分からない。数メートル先に仰向けで倒れた怜央は、ぴくりとも動かなかった。脚を貫く痛みも忘れ、身体を引きずって近づき、彼を腕の中へ抱き寄せた。
あのときつかめなかった人を、ようやくつかまえた気がした。
ほどなくして怜央は目を開け、私を押しのけた。ふらつきながら立ち上がる。支えようと伸ばした手も振り払われた。
「もう無茶をしないで。誰かが通報してくれた。すぐに救急車が来るから」
「放っておけよ!」
それでも腕をつかんで離さなかった。怜央は突然、私の顎をつかんだ。ヘルメット越しにシールドを上げ、身体の中まで見透かそうとするような目を向けた。
「俺が誰か、分かってる?」
「分かってる」
その目をまっすぐ見返し、一字ずつ名前を告げた。
「あなたは御堂怜央よ」
遠くから救急車のサイレンが近づいてきた。彼の瞳から怒りが途切れ、当時の私には理解できないほど大きな動揺だけが残った。
事故は人身事故として捜査された。怜央は速度超過によって同乗者を負傷させたとして、刑事手続と行政処分の対象となった。車両の損害や私の治療費については、保険会社が手続きを進めた。
私は左下腿を骨折し、約一か月入院した。
2.彼に似ていく人
怜央は頻繁に見舞いへ来た。コンビニの袋と参考書を抱え、病室に半日座っていることもあった。それでも謝りはせず、あの日なぜ我を失ったのかにも触れなかった。
窓辺のブラインドが、陽射しを細い帯に切り分けていた。光の中で本を読む横顔を見るたび、藤棚の下で教科書を読んでくれた湊を思い出した。
「何でもいいから、少し読んで」
怜央は顔を上げ、そんな頼みに何の意味があるのか分からない様子だった。それでも現代文の教材を開いた。
湊より少し低い声。それでも、同じように澄んでいて落ち着いている。思わず笑みがこぼれた。
「成績がいい人って、教科書を聞くだけでも笑えるんだ」
その一言で、現実へ引き戻された。目を閉じ、今日はもう帰って休んでほしいと伝えた。
退院後、怜央は別人のように変わった。決まった時間に予備校へ通い、自分から学習計画をこなすようになった。模試の成績も、短期間で大きく伸びていった。
参考書や上着、弁当を届けさせるため、わざと私を呼び出すことはあった。予備校近くの欅の下で、しばらく一緒に座ろうとねだる日もあった。
荒んだ雰囲気は少しずつ薄れ、派手だった服装も簡素で清潔なものへ変わっていく。
怜央は、ますます湊に似ていった。
本来なら、私が最も望んだ変化のはずだった。それなのに、胸の奥には説明できない不安が広がっていた。
十二月のある日、卒業論文の指導を終えたところで、知らない番号から電話がかかってきた。出ると、何年も聞いていなかった声がした。
「澪? お母さんよ」
今夜は家へ帰ってきてほしい、家族で食事をするのは久しぶりだから。そう告げられた。期待はしなかったが、断りもしなかった。
両親は都心の新築マンションで暮らしていた。食卓には刺身と海鮮鍋が並び、母は私の器へ何度も海老を入れた。私が幼い頃から甲殻類アレルギーだということなど、すっかり忘れているらしい。
「せっかくあんないい大学を卒業できそうなんだもの。悠斗の成績がなかなか上がらなくて、家庭教師も何人か替えたけど駄目なの。お姉ちゃんなんだから、一番分かってあげられるでしょう?」
向かい側へ目を向けた。十七歳の悠斗は椅子へだらしなくもたれ、ゲームを続けている。ヘッドセットからは、品のない罵声が絶えず漏れていた。
「それで?」
「一年くらい休学して、あの子を見てあげられない? 女の子なんだから、卒業が少しくらい遅れても困らないでしょう」
箸を置いた。あまりにも馬鹿げていて、笑うしかなかった。
「休学もしないし、悠斗を教えるつもりもない。受験勉強より先に、人を尊重することを覚えたほうがいいと思う」
母の笑顔が消えた。オレンジジュースの入ったグラスを手に取り、私の顔へ浴びせる。悠斗はそれを見て声を上げて笑った。
八歳のとき、両親は転勤を理由に故郷を離れ、私を祖母へ預けた。豚の貯金箱がいっぱいになったら帰ってくる。母はそう約束した。
硬貨を一枚ずつ入れ、とうとう隙間がなくなっても、二人は戻らなかった。祖母はよく私を抱きしめてため息をついた。それでも私は、自分は少しもかわいそうではないと繰り返した。
隣の香織おばさんがお弁当を作ってくれる。湊が毎日一緒に学校へ行ってくれる。商店街の和菓子屋のおじさんやおばさんも、みんな私のことを知っている。だから私は幸せなのだと、祖母へ言い聞かせた。
十五歳のとき、祖母が亡くなった。両親はようやく帰ってきて、七歳の悠斗を連れていた。
葬儀の日、大人たちが席を外した隙に、悠斗は得意げな顔で私へ告げた。両親は、私を不幸を呼ぶ疫病神だと言っていたらしい。私がいなくなってから家はうまくいくようになり、祖母まで私のせいで死んだのだと。
立ち尽くし、息の仕方さえ忘れた。湊が背後から耳を塞ぎ、悠斗を部屋の外へ追い出した。それから私の前へしゃがみ、まっすぐ目を合わせた。
「あの人たちは、自分たちの駄目さを澪のせいにしているだけだ。澪は誰も傷つけていない」
「でも、ずっと帰ってこなかった。私なんて、いらないんでしょう?」
湊は私の手を握った。その声に、迷いは一つもなかった。
「そんなことをする人たちのほうが損をしてる。俺にとって、澪は不幸を連れてくる人なんかじゃない」
その夜、布団の中へ隠れ、初めて自分にはもう帰る家がないと認めた。湊は布団越しに背中を撫で続け、私が顔を出して抱きつくまで、そばを離れなかった。
「おばあちゃんがいなくなった。これからは、誰も私を愛してくれないの?」
「俺がいる」
湊は、当たり前のことを口にするように私を強く抱いた。
「これからは澪が俺の家族だ。誰よりも大事にする」
葬儀のあと、両親は私を引き取ろうとしなかった。親権はそのまま持ち続け、私が香織おばさんの家で暮らすことに書面で同意した。学校にも緊急連絡先として香織おばさんが登録され、日々の生活を見てもらうことになった。
祖母が残した昭和築の木造住宅は売られなかった。放課後になると、私はそこで勉強をしたり、遺品を整理したりした。夜は裏庭の小さな扉を通って、隣の家へ戻った。
香織おばさんと湊が暮らしていたのは、すぐ隣の古い木造借家だった。二つの裏庭は低い木柵で隔てられていたが、祖母が亡くなったあと、香織おばさんが職人へ頼んで出入り口を作ってくれた。
香織おばさんは地元スーパーの惣菜売り場で働いており、収入に余裕はなかった。冬は石油ストーブを使う時間を短くし、弁当に入れられる肉が一人分しかない日もあった。それでも湊は、いつも一番いいものを私へ譲った。
両親から時折振り込まれる生活費にも、香織おばさんは一円も手をつけず、すべて私の口座へ残してくれた。高価な服を着たことはなくても、制服や教材、温かい夕食に困ったことは一度もなかった。
現在へ戻り、顔についたジュースを拭って立ち上がった。母を正面から見つめた。
「お母さんと呼ぶのは、これで最後にする。もう会う必要もないから」
背後で扉が閉まり、甲高い罵声がマンションの中へ閉じ込められた。十二月の冷たい風が廊下を吹き抜ける。
夜道を長いあいだ歩いた。もう湊が待ってはいない、あの場所へ帰りたかった。
マンションの下へ戻ると、怜央がオートロックの外にあるベンチへ座っていた。連絡がつかず、ずっとそこで待っていたらしい。
濡れた袖と青ざめた顔を見た途端、険しかった表情が変わった。次の瞬間には、強く腕の中へ引き寄せられていた。
「どこに行ってたんだよ。連絡がつかなくて、ずっと探してた」
反射的に離れようとしたが、覚えのある体温に力を奪われた。両親に傷つけられるたび、昔はいつも、街灯の下で誰かが帰りを待っていてくれた。
「頭が痛いの。少しだけ、このままでいさせて」
自分で鍵を開け、怜央を部屋へ入れた。寝室まで送られたとき、彼はベッド脇に置かれた処方薬へ目を止めた。
海難事故のあとから、私は心療内科へ定期的に通っていた。睡眠薬と抗不安薬を処方されていたが、この一年ほどは、以前ほど効かなくなっていた。
怜央は掛け布団を整え、乱れた髪をそっと払った。
「澪。俺と付き合ってくれない?」
目を閉じたまま、答えなかった。怜央は長いあいだベッドのそばに座り、最後に小さなため息だけを残した。
翌年一月、大学入学共通テストが行われた。二月には、怜央が東都大学の一般選抜を受験した。私はその日のアルバイトを断り、向日葵の花束を抱えて試験会場の外で待った。
湊が受験した頃、これから先はいくらでも機会があると思い、花を渡さなかった。同じ向日葵を別の人へ渡そうとしている自分が馬鹿らしくなり、一度はごみ箱へ捨てようとした。
怜央はほかの受験生より早く校門から出てきた。人混みの向こうで私を見つけると、驚いたように立ち止まり、そのまま駆け寄って花束を受け取った。息が苦しくなるほど強く抱きしめられた。
「おめでとう」
「この花、すごく好きだ」
なぜ私が来たのかも、心の中で誰を思っていたのかも、怜央は尋ねなかった。
3.白峰山の日の出
合格通知を受け取ったあと、怜央は長い受験生活の区切りとして旅行へ行こうと言い出した。
半月かけて、いくつかの土地を巡った。最後に訪れたのは白峰山だった。早朝のロープウェイで山へ上がり、雪が残る遊歩道を歩いて展望台へ向かった。
太陽が山々の向こうから姿を現し、朝の光が霧を透かして広がった。怜央が光の中で振り返る。一瞬、その目元が湊と完全に重なった。
怜央は顔を寄せ、私の唇へ触れた。すぐには押し返せなかった。長く引き延ばされた夢の中へ戻り、失った人がもう一度目の前へ立ったように思えた。
「澪、俺と付き合って」
額が重なり、吐息に山頂の冷気が混じっていた。
我に返り、一人で展望台を下りた。怜央は追いつこうとはせず、ずっと離れたところからついてきた。
彼と向き合うことも、あの顔に心を揺らした自分と向き合うこともできなかった。
湊に代わる人などいない。
私たちは幼い頃から一緒に育った。両親が何年も帰ってこなかった私は、近所では「置き去りにされた子」と呼ばれ、同い年の子どもたちにとって格好の標的だった。
湊が引っ越してきた初日、私を囲んでいた子どもたちを追い払った。擦りむいた膝をきれいにし、古い商店街を背負って歩いた。そして、白石澪は自分が守る人だと、皆の前で言った。
香織おばさんが持ち帰った菓子は、いつも一つ私のために残してくれた。夏には祭りですくったガラス玉や蛍、秋には栗羊羹と干し柿を先に渡してくれた。
自分は道端で簡単に踏み折られる草のような存在だと思っていた。それでも湊は、私を何より大切な場所へ置いてくれた。誰かと未来を結びつけてもいいのだと、初めて信じられた。
同じ大学へ進もうと約束した。湊は高校生の頃から東都大学の次世代技術育成プログラムへ参加し、「沿岸水難事故監視・救助支援ドローンシステム」の原案を考えていた。
私は心理学を選んだ。いつか、心の傷に囚われた人を理解できるようになりたかった。
十九歳になった湊は、東都大学工学部情報・ロボティクスシステム工学科へ進学した。入学後は学生プロジェクトのメンバーとして、先端モビリティシステム研究センターが主導する防災技術プロジェクトへ参加した。
学内展示会では、自ら製作した試作機を紹介した。私は客席から、教授や企業関係者の質問へ堂々と答える姿を見つめていた。
催しが終わると、湊は私を壇上へ引き上げ、人のいない隅で声を落とした。
「あと数年だけ待って。澪が安心して暮らせるようにするから」
瞳には会場の光と、私の姿が映っていた。初めて口づけたとき、湊は顔も耳も真っ赤にしながら、それでも私の手を離さなかった。
私たちの恋には、大げさな出来事などなかった。一緒に通学し、一緒に勉強をして、縁側で夕食を食べる。そんな日々が骨の奥まで染みついていた。
少年から大人になり、髪が白くなるまで一緒にいる。疑ったことは一度もなかった。
あの海難事故が起きるまでは。
事故の日、海は台風の余波を受け、離岸流が強くなっていた。湊は見知らぬ少年へ、海へ入らないよう警告していた。それでも相手は湊を押しのけ、立入禁止区域へ入っていった。
数分後、少年は波にさらわれた。湊は救助のため海へ飛び込み、救助艇が着く前に相手の身体を水面へ押し上げた。だが次の波にのまれ、湊だけが岸から引き離された。
近くにいた人々が一一八番と一一九番へ通報した。海上保安庁、消防、地元の救助関係者、そしてヘリコプターによる捜索が続いた。海況が悪く、潜水捜索は何度も中断されたが、捜索そのものが止まることはなかった。
十二日後、数キロ離れた岩礁帯で湊の遺体が見つかった。海は彼の姿を変えてしまっていた。それでも、手首に残った古い腕時計を見て、私はすぐに湊だと分かった。
誰もが、人を救おうとして起きた事故だと言った。警察の調査でも、救助された少年に刑事責任があるとは判断されなかった。
それでも私にとって、湊を死なせたのは御堂怜央だった。
警告を無視して海へ入り、助けられたあとも湊の死を知らずにいた。湊が命と引き換えに救った時間を、怜央は好き勝手に浪費していた。
湊の未来だけが、十九歳で止まった。
白峰山から戻っても、すぐには怜央の告白を受け入れなかった。その年の三月、私は東都大学を卒業し、教育サービス会社へ就職した。学習プランの設計と講座運営を担当し、心理相談とは関係のない仕事だったが、自分で家賃と生活費を払うには十分だった。
怜央が大学へ入って数か月後、もう一度付き合ってほしいと言われ、私はようやくうなずいた。
怜央は、待ち続けた私を手に入れたと思っただろう。私が欲しかったのは、彼をそばへ置いておけるほど親しい立場だけだった。
4.書き換えられた名前
私は誰にも交際を知られたくなかった。怜央も私の勤め先へ来ることはほとんどなかった。それでも、何日もメッセージを返さずにいると、毎日乗り換える駅で待ち伏せし、ホームへ続く人通りの少ない通路で私を呼び止めた。
「俺、何かした?」
答えなかった。怜央は額を私の肩へ預け、初めて隠しきれない疲れを声ににじませた。
「会いたかった。頭がおかしくなりそうなくらい」
一歩下がると、寄りかかっていた身体が宙へ取り残された。
最初は、湊が命をかけて救ったのに、その死へ何の関心も示さなかった男が、どれほどひどい人間なのか確かめたかっただけだった。
やがて怜央は湊に似ていき、ときどき別の身体を借りて、死んだ人が帰ってきたような錯覚さえ覚えた。正気へ戻るたび、自分への嫌悪は深くなった。
怜央は、救われた命を大切にしなかった。好き勝手に遊び、喧嘩をし、山道では速度を上げた。まるで湊の犠牲に、何の重みもないかのように。
湊と同じように真剣に生き、彼が歩けなかった未来を完成させてほしかった。
そのあと、湊と同じ海で死んでほしかった。
その思いが怜央を世話する力となり、同時に、残っていた理性を少しずつ蝕んでいった。
北川直人から連絡があったとき、湊が残したドローンプロジェクトは終了の危機に直面していた。学生メンバーは次々と卒業し、研究センターの指導教授は限られた予算を別の課題へ振り向けようとしていた。最初の試作機と基礎データも、保管庫へ移される予定だった。
湊があのプロジェクトのために夜を明かした姿を、何度も見てきた。このまま消えてしまうことだけは受け入れられなかった。
怜央の専攻はプロジェクトと合っていた。御堂グループには電子機器を扱う企業があり、沿岸で実証試験を行える場所も持っていた。怜央一人で全てを決められるわけではない。それでも当時、計画を存続させられる可能性が最も高い人間だった。
「湊が残したプロジェクトに入って」
怜央は長いあいだ黙っていた。
「俺が向いてるから? それとも、あの人のため?」
「どちらも」
入学後、怜央は学生プロジェクトのメンバーとして、先端モビリティシステム研究センター主導の防災技術プロジェクトへ加わった。教授、北川、産学連携推進センターの調整により、チームは再編された。御堂グループの関連企業が設備と試験費用を提供し、湊の計画は正式な産学連携プロジェクトとして動き始めた。
三年次に研究室へ正式配属されてから、怜央は中核の開発メンバーとなった。取り組み方は執念に近かった。
研究センターで深夜まで機器の調整をしている、体調が悪い。そんな理由をつけて私を部屋へ呼び、湊が好きだったナポリタンを作らせた。テーブルへ向日葵を飾り、私が誰を見ているのか探ることもあった。
自分が身代わりだと、怜央はもう気づいていた。それでも湊の仕草や好みを一つずつまねた。同じ道を歩けば、いつか私に近づけると信じているようだった。
プロジェクトは三年をかけて改良され、全国学生防災技術コンテストで受賞した。その後、共同研究先の企業と沿岸実証試験が始まった。
授賞式では無数のフラッシュが怜央へ向けられた。メディアは技術的な判断力、チームをまとめる能力、大学と企業の連携を推進した実行力を評価した。
客席で笑っていた私の目から、突然涙が落ちた。
最初の構想も、中心となった試作機も、基礎データも、全て湊が残したものだった。それでも光の下に立っているのは怜央で、湊は冷たい海の底にいる。
実用化と対外発表の段階へ入る前、大学と企業が共同で作成した広報資料を確認した。どこにも湊の名前がなかった。
研究センターのウェブサイトから以前のメンバー紹介が消え、新しいニュースリリースには現在のチームと協力企業しか載っていない。当時の試作機展示の写真まで削除されていた。
産学連携推進センターへ駆けつけると、怜央が広報担当者と話していた。担当者は修正後の資料を手にし、必要以上に丁寧な口調で説明していた。
「御堂さん、最新版の広報資料は共同研究先の意向に合わせて修正しました。今回の発表資料に早川さんの氏名は掲載しません。以前のページも非公開にしています。学籍記録や学内の研究記録に変更はありませんので、その点はご安心ください」
怜央は否定しなかった。
大学が湊の学籍記録を消すことはできず、研究センターや研究室に保存された原資料も抹消できない。それでも、共同研究先の影響力を利用し、一般の人が目にする成果から湊を締め出そうとしていた。
中へ入って問い詰めることはしなかった。身体に残っていた最後の温度まで、抜け落ちていくようだった。
怜央は湊の道を歩いているだけではない。湊を、その功績から追い出そうとしていた。
その日、香織おばさんの家を訪ねた。古い商店街は記憶より寂れ、シャッターを下ろした店が増えていた。営業しているのは青果店と和菓子店、それに昔からある美容室くらいだった。
香織おばさんは縁側に座っていた。痩せた身体は、カーディガンの重さにも耐えられないように見えた。私に気づくと、何も置かれていないテーブルへ無意識に目を向けた。
「澪、ごめんね。好きな苺のケーキを買い忘れちゃった。湊に行ってもらうから」
家の中を振り返りかけ、途中で動きを止めた。目に宿った光がゆっくり消え、短い夢から覚めていくようだった。
「ごめんね。また忘れてた」
庭には、昔の面影が残っていた。藤棚は荒れ、縁側の小さな卓は色褪せていた。ここで一緒に勉強し、菓子を食べ、皆がいつまでも変わらずにいると信じていた。
帰る前、湊の資料を入れた段ボール箱と、長年貯めてきた金を香織おばさんへ渡した。彼女は箱を抱えたまま長く見つめ、私が何をしようとしているのか尋ねなかった。
もう戻れない場所へ向かっていることを、きっと気づいていた。
5.海の答え
四周年の花火が終わり、怜央と部屋へ戻った。怜央は和菓子店で買ったケーキをテーブルへ置き、後ろから私を抱いた。
身にまとっていたのは、かつて湊が好んだものと同じ香水だった。湊は普段、香りのあるものを好まなかった。それなのに、その香水だけは特別だと言っていた。
初めて扉を開けたとき、祖母の料理を抱えて外に立っていた私を思い出す。明るくて、生きる力に満ちた匂いがする。湊はそう笑った。
今では、その香りが別の人の身体にすっかりなじんでいた。
「怜央、海へ行こう」
腕の力が一瞬こわばった。長い沈黙のあと、怜央は私の髪へ軽く口づけた。
「分かった」
十月の海辺にも、まだ何人かの観光客がいた。潮風は冷たく、私の手を握る怜央の掌には汗がにじんでいた。
事故以来、怜央は水を恐れていた。大学の安全講習、プロジェクトの実証試験、心理相談を受けても、その恐怖が完全に消えることはなかった。
「顔色が悪いよ」
「少し暑いだけ。向こうで座ろう」
隠そうとすればするほど、あの海が怜央にとって何を意味するのか分かった。
自動販売機で飲み物を買ってきてほしいと頼み、一人で海へ入った。足元の砂が波にさらわれた瞬間、初めて本物の恐怖を感じた。
冷たい海水が口と鼻へ入り、身体はあっという間に上下の感覚を失った。
海の中は、こんなにも恐ろしい。
湊が波にさらわれてからの十二日間、海が彼をどこへ連れていったのか、私には永遠に分からない。
次の波に押し倒されたとき、怜央が海へ飛び込んできた。恐怖で身体を震わせながら、それでも必死に近づき、何度も私の手をつかもうとした。
苦しむ姿を見れば、胸が晴れると思っていた。それなのに体力が尽き、湊に似た顔が波の下へ消えかけた瞬間、身体が理性より先に動いた。
意識を失った怜央をつかみ、必死に岸へ引こうとした。八年前へ戻り、今度こそ湊をつかめたような気がした。
近くにいたサーファーが異変に気づき、一人が海へ入り、別の人が周囲へ一一八番と一一九番への通報を頼んだ。ほどなくして消防の水難救助隊と海上保安官が到着し、怜央は救助艇へ引き上げられた。
彼が救われたのを見届けた途端、身体から力が抜け、私は海へ沈んだ。
意識が薄れていく中、深い青の向こうから誰かが泳いできた。若く、きれいなままの顔。海に変えられていない湊だった。
「もし、あのとき助かったのが湊だったらよかったのに」
両腕を広げて抱きしめた。身体はますます冷えていく。それでも、長いあいだ居場所を失っていた心が、ようやく懐かしい場所へ戻れたように思えた。
消防の水難救助隊は、ほどなく私も見つけた。まぶしい白い光が幻を切り裂いた。
次に目を開けたとき、病院のベッドにいた。怜央がそばに立ち、顔色は灰色に近いほど憔悴していた。
海上保安庁と警察から、それぞれ経緯を尋ねられた。怜央は、私が意図的に彼を遠ざけたことを話さず、海辺で突然足を滑らせたのだと説明した。
病院は明確な自傷リスクがあると判断し、精神科医による診察と入院治療を勧めた。私は精神科病棟で数日間の経過観察を受けた。
主治医が差し迫った自傷リスクは低下したと判断したあと、病院と一緒に安全計画を作り、緊急連絡先を登録し、定期的な通院日を決めた。それらを条件に、ようやく退院が認められた。
怜央は緊急連絡先となり、退院後はほとんど私のそばを離れなかった。薬を受け取り、食事を用意し、私が一口食べるまで黙って待った。
何も食べられず、怜央の顔も見たくなかった。
ある日、とうとう怜央が感情を爆発させた。粥の入った器が絨毯へ落ち、まだ湯気を上げている。両肩を押さえつけられ、血走った目で見下ろされた。
「俺にどうしろっていうんだよ。湊の墓を掘り返して、君に返せばいいのか?」
身体を横へ向け、風に揺れる窓の外の枝を見つめた。その夜、月明かりが怜央の身体を白く照らした。彼は長いあいだベッドのそばに座っていた。
「澪。何か話してよ」
ようやく顔を向けた。
「私が、どれほどあなたを憎んでいるか分かる?」
怜央の身体が硬直し、下ろした手がゆっくり拳を作った。
「湊は、離岸流があるから、これ以上進んではいけないと警告した。それなのにあなたは聞かなかった。最後に代償を払ったのは湊だった。まだ十九歳で、行きたかった大学へ入ったばかり。人生は始まったばかりだった」
私は何度も自分を責めた。あの日、海へ行きたいなどと言わなければ。もっと早く天候の変化に気づいていれば。何かが違っていたかもしれない。
「あなたの傲慢さが湊を死なせた。どうして、生き残ったのがあなたなの?」
怜央が顔を上げた。傷ついた獣のように目が赤かった。
「だから、ずっと俺を死なせたかったの?」
見つめ返しながら、なぜか笑うことができた。
「私たちがどれだけ待ったか知ってる? 十二日後、海上保安庁が岩礁帯で湊を見つけた。もう昔の姿はどこにも残っていなかった。あの腕時計がなければ、湊だと分からなかった」
長年、胸の奥へ押し込めてきた光景が、ようやく出口を突き破った。
「何度も、この手であなたを殺したいと思った。でも、その顔を見るたびにできなくなった。湊に感謝すればいい。最後まで、私が本当の人殺しになるのを止めてくれたんだから」
怜央の唇から血の気が消えた。長く沈黙したあと、最後の望みを一つの問いへ託すように口を開いた。
「澪。一度でも、俺を好きになったことはある?」
答えなかった。怜央は椅子から立ち上がり、少しよろめきながら、一人で病室を出ていった。
それから、怜央と会うことはほとんどなくなった。退院後、海辺にある小さな部屋を長期契約で借りた。約束どおり精神科外来へ通ったが、次第に薬を時間どおり飲まなくなり、誰かに付き添われることも拒んだ。
昼間は防波堤近くの岩へ座っていた。ある瞬間になると、湊が隣に現れる。海風に服を揺らし、十九歳の姿のままだった。
幻覚にすぎないことも、自分が現実を見分けられなくなっていることも分かっていた。それでも湊が立ち上がり、手を差し出すと、私は笑った。
「澪、ずっと座っていたら身体に悪いよ。少し歩こう」
「うん」
その日の夕方、防波堤を越え、海へ入った。
もう一度、湊を抱きしめた。
今度は、誰も私を引き戻せなかった。
6.御堂怜央 番外編
白石澪が死んだ。
警察から電話を受けたとき、不思議なほど心は静かだった。発見されるまで一日連絡が途絶え、海辺の部屋にはスマートフォンと処方薬、宛名を書いた数通の手紙が残されていた。
この結末は、湊が死んだ日から芽を出していたのかもしれない。ただ俺たちは皆、まだ彼女を引き戻す時間があると思っていた。
葬儀の日、湊が写真で着ていたものに似た濃色のコートを選び、澪が昔決めた髪型へ整えた。本当の俺など見たくないだろう。湊の姿で最後まで見送れば、少しは嫌われずに済むかもしれなかった。
澪が俺へ残した手紙は短かった。
「怜央、ごめんなさい。あの日、海へ入ったのがあなたでなくても、きっと湊は助けに行った。目の前で誰かが溺れているのに、見捨てられる人ではなかったから。あなたにも責任はある。でも、私が何年も思い描いていたような殺人者ではなかった」
どうすれば俺が最も苦しむのか、彼女は知っていた。
湊を直接殺したわけではないと認めながら、俺を愛したとは一言も書かなかった。
その後、香織さんを訪ねた。記憶は良い日と悪い日を行き来していた。玄関に立つ俺を見るなり、突然抱きつき、湊の名前を呼んだ。どうしてこんなに長く帰ってこなかったの、と泣いた。
ぎこちなく腕を回した。
「ただいま」
あの瞬間、自分が身代わりになることを、もう拒んではいなかった。もっと前から、自分の意思でその場所へ入り込んでいたのかもしれない。
湊が使っていた部屋へ住み、泥棒のように彼の残したものを一つずつ見た。書棚の奥には一冊の日記があった。簡素な表紙は、十九歳の男が選ぶものには見えなかった。
澪が今日も両親の言葉で傷つき、泣いていた。あんな人たちがいらないと言うなら、これからは澪が俺の家族だ。大事に守っていく。
澪が高熱を出し、何度呼んでも目を覚まさなかった。初めて怖いと思った。抱きかかえて夜間救急へ走り、途中で靴が脱げたことにも気づかなかった。無事でよかった。
初めて、現実がどれほど厳しいか思い知らされた。力も後ろ盾もなければ、守りたいものを守れない。もっと努力して、二人の未来を良くしていかなければならない。
初めて澪へ口づけた。唇が信じられないほど柔らかかった。花が開いたように恥ずかしがる姿がかわいくて、いつになったら結婚できるのか、もう考えている。
床へしゃがみ込み、どれほどまねても、自分は湊になれないとようやく分かった。
澪は、俺が湊の命と引き換えに生き残った幸運な人間だと言った。それでも、なぜ死んだのが俺ではなかったのか、数え切れないほど考えた。
澪は死ぬまで知らなかった。俺と湊がこれほど似ていたのは、異母兄弟だったからだ。
父の御堂雅臣は若い頃、香織さんと愛し合い、その関係の中で湊が生まれた。父は認知の手続きをせず、第三者名義の口座を通じて、湊親子の生活費の一部をひそかに負担していた。そのため戸籍上、湊と御堂家を直接結びつける父子関係は存在しなかった。
その後、御堂家の中核企業が資金繰りに行き詰まった。祖父は主要取引先一族との縁談を経営再建の条件とし、父に玲子との結婚を受け入れさせた。父には逆らう勇気がなく、湊の存在を公にすることもなかった。
母は、病的なほど父を愛していた。父が長く家へ戻らないと、俺を連れて会社へ押しかけ、騒ぎを起こした。幼い俺を抱いたまま、高層マンションのバルコニーの縁へ座り、すぐに戻ってこなければ飛び降りると迫ったこともあった。
母は玩具を取り上げ、勉強だけを強いた。父が外で作った子どもに負けてはいけない。それだけが理由だった。
当時、湊が誰なのかは知らなかった。ただ、母が「あの女の子ども」と呼ぶ相手が、俺には決して与えられないものを奪ったのだと思っていた。
十六歳のとき、母は親族の会食で取り乱し、父へ熱い汁物を浴びせた。ホテルを出ていった父を追い、二人は帰宅途中の交通事故で即死した。
祖父に頼み、二人を同じ墓へ入れた。葬儀では涙が出なかった。母はようやく、決して自分を置いていかない夫を手に入れた。父は永遠にあの結婚へ閉じ込められた。そう考え、悪意のある満足さえ覚えていた。
それでも夜になると、窓辺に一人で座り、朝まで泣いた。
両親が亡くなる前、母が「あの女」と呼んでいた人の家をひそかに訪ねたことがある。地方の古い商店街の裏手にある木造借家で、周囲の店の多くはシャッターを下ろしていた。御堂家のマンションとは比べものにならないほど狭かった。
けれど、庭は穏やかだった。俺とよく似た少年が縁側に座り、卓へ伏せた少女に教科書を読んでいる。そばでは一人の女性が、干していた洗濯物を優しく整えていた。
木柵越しに長いあいだ眺めた。湊は俺より二歳年上だった。あとから家庭へ入り込んだ存在などではない。
選ばれなかったのは、俺のほうだった。
両親が死んでから、わざと自分の人生を荒らし始めた。勉強をやめ、付き合う価値もない人間たちとつるんだ。自分を壊し続ければ、母が腹を立てて墓から戻り、叱ってくれるような気がした。
海辺で初めて湊と向き合った。自信に満ち、明るく、俺が決してなれない人間に見えた。
嫉妬で、ほとんど理性を失っていた。
湊は、立入禁止区域の外に離岸流があるから海へ入るなと止めた。俺は彼を押しのけ、そのまま進んだ。幾つもの波にさらわれ、すぐに力を失った。
湊は背後から俺をつかみ、必死に水面へ押し上げた。助けなくていいと伝えたくて何度も振りほどこうとした。それでも湊は、最後まで手を離さなかった。
最後に水面へ出たとき、救助艇はすぐ近くまで来ていた。湊が残った力の全てを使い、俺を救助員へ押し上げた。意識は、そこで途切れた。
七日間昏睡し、目を覚ますと祖父がそばにいた。助けてくれた人も無事だから、何も心配せず休めと言われた。
嘘だった。
事故の報道では、俺と救助者の氏名は公表されていなかった。祖父は俺が精神的に崩れることと、御堂家と父の秘密が表へ出ることを恐れ、弁護士や病院を通じて捜索結果を伏せた。
救助した人物はすでに助かり、御堂家とは今後関わりたくないと言っている。俺が聞かされたのは、それだけだった。
長いあいだ、見知らぬ誰かに助けられたとしか思っていなかった。その人が死んだことも、異母兄だったことも知らなかった。
やがて祖父が新しい家庭教師を手配した。立っているのもつらそうなほど痩せ、目の下は深く落ちくぼんでいた。俺を見た瞬間、泣き出しそうな目をした。
湊のそばにいた少女だと、すぐに分かった。何の目的もなく俺へ近づいたはずがないことも。
わざと困らせ、バーへ連れていき、一番荒れている姿を見せた。それでも澪は、どれほど疲れていても約束の時間になれば教材を取り出し、無表情に勉強の時間だと告げた。
両親の命日、バーで澪を困らせようとした。個室を出たあと、結局引き返し、久世を殴った。
病院で澪が俺の顔へ触れた。優しい目を向けられ、初めて湊に勝てたような気がした。
けれど、彼女が呼んだのは湊の名前だった。
海難事故の資料を調べ、俺を助けた人が死んでいたことを知った。白石澪がなぜあんな目で俺を見ていたのかも分かった。
罪悪感に押し潰されそうだった。それ以上に苦しかったのは、最初から彼女の目に俺など映っていなかったことだった。
美容室で、澪は俺を湊の姿へ変えた。かろうじて自分を保っていた糸が切れ、山道で速度を上げ続けた。二人で死んでもいいとさえ思った。
事故のあと、澪は俺の目を見て、俺の名前を呼んだ。
その瞬間、また手放せなくなった。
自分から湊の習慣をまねるようになった。嫌いだったトマトを食べ、向日葵を買い、彼の研究プロジェクトへ加わった。同じ道を歩き、同じ景色を見れば、いつか澪に近づけると思った。
現実は違った。澪の視線が優しくなるほど、その感情は俺へ向けられたものではないと分かった。
誰だって、永遠に自分の名前を捨て、別の人間の人生へ寄りかかって愛を得たいとは思わない。皆が俺を湊として見るのが怖かった。それ以上に、澪がくれるものの全てが湊のためだと考えるのが怖かった。
広報資料から湊の名前を外すよう求めたのは、成果を奪いたかったからではない。彼が存在した痕跡を少しずつ隠せば、澪はようやく俺を見てくれるのではないか。そんな卑劣な願いからだった。
あれは、俺が犯した最も残酷で、最も愚かな行為だった。
俺たちは少しずつ近づいていると思っていた。澪が海の中で自分の身体を手放すまで、あの優しさが転落前の短い静けさにすぎないとは気づかなかった。
澪が俺を岸へ引いたのは、ついに愛してくれたからではない。湊の顔が二度目も海へ沈むことに、耐えられなかっただけだ。
澪が一言、海へ行けと言えば、俺は自分で歩いていっただろう。それこそ、自分が負うべき償いだと信じていた。
けれど最後の手紙で、湊なら相手が誰であっても助けたと教えられた。
その言葉が俺を生かした。同時に、死ぬことを償いだと思う道も閉ざした。
ごめん、澪。
ごめん、湊。
教授、研究センター、産学連携推進センターへ訂正を申請する。プロジェクトの沿革、公開報告書、今後の広報資料に、湊が最初の発案者であることを改めて明記してもらう。
あの海難事故の全ての事実も、香織さんへ伝える。
残された人生で、湊の代わりになることはできない。澪のあとを追って終わらせることもできない。
御堂怜央という名前で、二人が残した愛と憎しみを背負い、生きていくしかない。
――完――




