不老の美 :約4000文字 :SF
薄く霧がかかった湿った夜。一台の黒塗りの高級車が灯りもまばらな郊外の道を滑るように走り、やがて一軒の古びた屋敷の前で静かに停車した。
エンジンの音が途絶えるや否や初老の運転手が慌ただしく車外へ飛び出した。濡れた地面に足を取られそうになりながらも素早く車体の後ろへ回り込み、深々と腰を屈めて後部座席のドアを開けた。
「ふん……」と、甲高く鼻を鳴らし、一人の美しい女がゆっくりと車から降りた。
女は手にした扇子を顔の前で優雅に扇ぎつつ屋敷を見上げた。
明かりは玄関脇に取り付けられた外灯が二つだけ。そのうち片方は電球が切れているらしく、暗闇に沈み込み、壁とほとんど区別がつかない。残る一つの弱々しい灯りだけが、ひび割れた外壁や色褪せた玄関の扉をぼんやりと照らし出していた。
風が吹くたびに生い茂った庭木の影がぬるりと揺れ、この屋敷が世界から切り離されていないことをかろうじて感じさせた。
「車で待っていなさい」
女は屋敷から目を離さぬまま、扇子を後ろへ差し出した。運転手は「は、はい……」と、ぺこぺこと白髪混じりの頭を何度も下げながらそれを恭しく受け取り、小走りで運転席へ戻っていった。
その背中をちらりと見やった女は、露骨に眉をひそめた。
再び鼻を鳴らすと、女は半開きの鉄門に歩み寄り、足で門扉を押し開けた。ぎぃ、と不快な金属音が夜気の中に引き延ばされていき、耳に嫌な響きを残して消えた。
敷地へ足を踏み入れると、伸び放題の雑草がふくらはぎをざりざりと擦った。女は煩わしげに足先で払いのけながら進んでいく。高価なヒールが柔らかな土にわずかに沈み込み、その感触と鼻につく土臭さにさらに顔をしかめた。
「これはこれは、ようこそお越しくださいました。しかし、まさかこんなに早くお見えになるとは……」
「あら、文句かしら?」
玄関のチャイムを鳴らすと、ほどなくして扉が開き、家主の男――博士が現れた。
くたびれた白衣を羽織り、無造作に伸びた白髪が襟に掛かっている。眉はもっさりと太く白く、長年手入れされていない藪のようだった。猫背気味の体は痩せており、肌は青白い。長いあいだ外界との接触を避けて生きてきた人間特有の埃っぽく閉ざされた空気をまとっていた。
博士はぎこちない笑みを浮かべ、女を迎え入れた。
ここは博士の住居兼研究所。博士は女から潤沢な資金援助を受けて、あるものの開発を続けていた。そして、それがついに今夜完成したのである。
「いやあ、時間も時間ですから、てっきり明日の昼頃にお見えになるものかと……」
「何よ。迷惑だとでも言いたいの? こっちがどれだけ金を払ったと思っているの?」
「いえいえ、とんでもない。もちろん承知しておりますとも。ははは……」
博士は慌てて首を振り、引きつった笑みを浮かべた。その卑屈な態度に女は露骨に顔をしかめた。だが次の瞬間、長く息を吐くと、まるで仮面を付け替えたように柔らかな笑みを浮かべた。
その急激な変化に博士は思わずたじろいだ。
「それで、物はどこにあるの?」
「あ、ああ、こちらです。どうぞ……」
博士は身を翻し、女を屋敷の奥の研究室へと案内した。
室内には薬液の入ったガラス瓶や試験管、用途の分からない器具類が棚や机に所狭しと並んでいた。床には配線が蔦のように這い、壁際には巨大な機械が鎮座しており、ジジジと不規則な電子音を立てていた。
空気は妙に湿っており、薬品と古紙の匂いが混ざり合っているのか、独特な匂いが鼻を衝いた。女は顔をしかめ、反射的にポケットに手を伸ばした。が、扇子を運転手に預けてきたことを思い出し、さらに不機嫌そうに口元を歪めた。
「どうかしましたか?」
「いいえ。ここでいいわ。早くちょうだい」
女は室内に足を踏み入れず、ドア枠に寄りかかって腕を組んだ。苛立ったように足を揺らしている。カッ、カッとヒールが床を打ち、小さな音が響いた。
「ええ、まあ……。確かに、麗しいご婦人には少々似つかわしくない場所ですな。ははは」
「“ご夫人”?」
女の眉がぴくりと動いた。
「私は今、独身よ」
「え? ああ。いえいえ、ご婦人と……。まあ、それほどお若くお美しい方ですから、さぞ引く手数多でしょうな」
博士は取り繕うように褒め言葉を重ねながら女を見やった。
長く緩やかに波打つ明るい色の髪。ぴったりと身体に吸いつくような黒いワンピースは、胸から腰にかけての曲線を余すことなく際立たせていた。胸元は迫力があるほどに豊かに膨らんでおり、短い裾からまっすぐ伸びる脚は白く細い。
薄暗い研究室の照明の際にあっても、その整った目鼻立ちはくっきりと存在感を放っていた。肌は艶やかに輝いて見え、まるで磨き上げられた陶器のようだった。
「いやあ、実にいいタイミングですな」
博士はしみじみと頷いた。
「――不老不死になるには」
そう言うと、博士は机の上に置かれた小さな茶色の瓶を手に取り、ゆっくりと女へ差し出した。
女が長年にわたって資金援助を続けてきた博士の研究――それは不老不死。
今より昔、その可能性がかすかに見え始めた頃、女は博士に目をつけた。博士の経歴はもちろん、論文や過去の研究記録に至るまで徹底的に調べ上げさせ、そして自ら接触したのだった。
莫大な研究資金を提供する代わりに、完成品を受け取るという契約を交わすために。
「これがそうなのね……」
女は博士の手から瓶をひったくると、震える指先でそれを持ち上げた。その目はさらに大きく見開かれており、呼吸は浅く速く、顔には興奮の色とともに、じっとりと汗が滲んでいる。
「ええ、完成品で――」
「注射? どこに打つの? 注射器は? 用意していないの?」
「……飲み薬です。服用すればすぐに効果が現れるでしょう」
説明は不要か――博士はそう判断し、言葉少なに答えた。案の定、女は返事を聞き終えるよりも早く蓋を捻り取り、無造作に床に放り捨てた。コンと乾いた音が室内に響くと同時に、女は瓶を唇に押し当て、中身を一気に流し込んだ。
ごぎゅると大きな嚥下音がした。
博士はやれやれといったように肩をすくめ、近くの椅子を引き寄せた。腰を下ろし、ぼんやりと女を眺める。女は天井を向いて、一滴たりとも残すまいと瓶を小刻みに振っていた。
……この振る舞い。父親もさぞ手を焼いているに違いない。研究資金もおそらく父親が出しているのだろう。だがまあ、それだけの価値はあるのかもしれん。性格はともかく、これほどの美貌だ。不老不死となり、五、六十年も経てば精神も多少は成熟し、気立ての良い美女になるだろう。……いや、七十年は必要かな。
この薬に若返りの効果まであれば、私が飲んだ後で相手を願い出たいくらいだ。
博士は白髪を撫でつけ、頭を掻きながら苦笑した。
そのときだった。瓶が手から滑り落ち、床で砕けた。
「き、き、き、きいいいいいいいいいいっ!」
女の絶叫が屋敷中に鋭く響き渡った。
博士は思わず肩を跳ねさせた。慌てて立ち上がろうとしたが、膝がぎしりと軋み、力が抜けて再び椅子にすとんと尻が落ちた。すぐにまた立ち上がろうとしたものの、開いた口から漏れた息とともに足から力が抜けていった。
女は両手で顔を押さえ、喉の奥から悲鳴を上げ続けた。それは金属同士が擦れ合うような耳障りな響きだった。
博士は思わず目を凝らした。女の指の隙間から、何かが垂れている。
やがて押さえていた手がずるりと滑った。
女の手のひらに何かがついている。
皮膚だった。
剥がれた顔の皮膚が、べたりと手のひらに貼りついていたのだ。残された皮膚もめくれ、頬から口元にかけて赤黒い肉が露出していた。折り重なり合う筋肉の繊維の隙間から、黄色みを帯びた半透明の液体が勢いよく噴き出し、床や壁に飛び散った。
女のよく通った鼻筋は押し潰されるように歪み、頬骨が肉を押し裂いて突き出した。艶を帯びた唇は瞬く間に萎び、歯茎が剥き出しになった。がちりと上下に合わさった歯列はぐにゃりと歪み、白い歯が一本、また一本と抜け落ちて床を転がった。さらに顎の輪郭が崩れ始め、伸びた皮膚を裂いて白い破片がぼとり、ぼとりと落ちていった。
ワンピースの胸元がぼこりと凹んだ。直後、裾から透明なゼリー状の塊が二つ、ぬるりと滑り落ちて湿った音を立てた。
膝と肘の辺りからは金属の部品のようなものが突き出していた。それはぎちぎちと異音を立てながら肉を裂き、黄色い脂肪をまとい、まるで吐き出されるかのように次々と身体の外へ押し出されていった。
爪が剥がれ落ち、床へ降り注いだ。ばらばらと散らばるその音は、激しい夕立が屋根を叩く音に似ていた。
女が激しく頭を振り、前屈みになった。だが、それは痛みに対する反応ではない。背骨がばきぼきと鳴り、骨格が変形を始めていたのだ。首が沈み、肩幅が狭まり、身体全体の輪郭が崩れ落ちていく。
振り乱された長い髪はその勢いのままごっそりと抜け落ちた。床に広がったそれは、まるで切り取られた動物の毛皮のようだった。
不老不死――それは細胞を極限まで活性化させ、あらゆる損傷を瞬時に修復し、老いを拒絶する究極の肉体。
だが同時に、それは本来あるべき姿から逸脱したものを許容しない。
女が長い年月をかけて己の身体へ施してきた改変――削り、埋め込み、引き伸ばし、置き換え、理想の美を作り上げるために加えられた人工の異物はすべて排除され、彼女の身体は今、本来の設計図へと回帰しようとしていた。
彼女が何よりも嫌悪し、そして恐れていた――老いた姿へと。




